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「俺だってつらい」と言いたいあなたへー〈上野千鶴子さん東大祝辞を振り返る〉

上野千鶴子さんの東大入学式祝辞が、賛否両論含め、大きな反響を呼んだことは記憶に新しい。

東京大学新聞による上野さんのインタビューが6/2に公開されるなど、祝辞から2ヶ月弱たった現在でも、まだ注目を集めているのは特筆すべきことだ。

祝辞に対する上野さん自身のステートメントも、AERAや東洋経済オンラインなどのインタビューとして出ている。

このAERAインタビューと祝辞文を引用しつつ、なぜここまで賛否両論が噴出したのかについて振り返ってみたい。

繰り広げられた批判たち

この祝辞に対する批判をごくおおまかにカテゴリー分けすると、大体こんな感じだったと思う。

1、祝辞にふさわしくない内容という批判

2、東大生・男性だって辛いのに、一方的に断罪するな、という批判(=弱者とは誰か問題)

3、このような旧態依然としたやり方(女=弱者が男=強者を責め立てる、という手法)では世の中は変わらない、という批判

1については、祝辞でこのような内容を話すことでこうした反応が来るだろうことは、ある意味「折り込み済み」だっただろう。

件のAERAインタビューではこう述べられている。

いつでもどこでも言っている当たり前のことを言っただけで、データも誰でも手に入るものばかりです。反応があるのは想定していましたが、賛否ともその大きさは想定以上でした。  

「賛否ともその大きさは想定以上だった」とはいえ、「反応があるのは想定していた」という。

東大側も上野さんに依頼する以上、こういう内容が述べられる可能性は十分想定できたはずだし、事前の原稿チェックもあったと冒頭のインタビューでは述べられている。

ゆえに、この批判をした人たちは、ある意味で東大側と上野千鶴子さんの意図に「まんまとはまった」とすら言えるだろう(もちろん結果的に、である)。

ここで論じたいのは、2の批判だ。

決定的に見逃されていた1文とは

この「上野東大祝辞」への批判を繰り広げた人たちが、祝辞内で決定的に見逃し、誤読しているのではと感じた部分がある。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

多くの人がSNS上でシェアしていたこの文章。これを「ノブレスオブリージュ」と解釈した向きは多い。

ノブレスオブリージュとは、一般的に地位や権力のある人に生じる「義務」を意味する。

しかし、これをノブレスオブリージュへの提言ととる解釈は、半分合っていて、半分間違っているように感じた。

なぜかというと、この後にこの言葉が続くからだ。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

さらに、こう続く。

フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です

つまり、上野さんは「誰の中にも、弱さがある。辛さがある。それを自己責任論に転換するのではなく、弱さを分かち合い、支え合うこと」を提案しているのだ。

ここには、「ノブレスオブリージュ」という言葉から想起される「上から目線」は存在しない。

「東大に入るために、自分がどれだけ心身をすり減らしてきたか。上野千鶴子はそれを想像せず、東大生を選ばれたエリート強者という先入観で断罪している」と綴った人がいた。

 しかし、今回の祝辞のこの箇所は、こういった「東大生だって辛いのだ」という思いを抱える人に対しても等しく語られたものではなかったか。

人は自分の見たいものしか見ようとしない」ということを論じたのは解剖学者・養老孟司氏の大ベストセラー『バカの壁』。

冒頭からたたみかけられるように続く女性差別の統計的数字や、姫野カオルコの小説への言及、そして何よりも「上野千鶴子」というキャラクターへの先入観が、その「壁」を生む補助線になったのだろう。

しかし、それらを鑑みても、この箇所をスルーして批判する人があまりに多いことは驚きだった。

上野さんはAERAインタビューで、寄せられた批判に対して下記のように看破している。

優等生って、ものすごく不安感の強い人たちなんです。承認欲求も強いから、ほめてもらいたい。私の言葉で不安の根っこを脅かされたから、過剰反応するんでしょう。本当は、反射的な脊髄反応を「待てよ」と押しとどめるのが知性ってもんだけど、それが無いんでしょ(笑)。

こうした「上野節」が一部の男性からの反発を呼ぶのだろう…とも思うが(個人的には好きですがw)、今回の祝辞において上野さんが1番伝えたかったのは、実はこの部分ではなかっただろうか。

フェミニズムは、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

男性であることのつらさ

いまだに炎上を繰り返すジェンダー系の話題。昨年の#Metoo運動。

「女性の声」が従来よりも格段に強く大きくなってきた一方で、強者とされていた男性側からも、稼ぎ主であらねばならない圧力など男の辛さに関する話が公に議論される流れが生まれてきた。

さらに、評論家の東浩紀さんは、先日とある公開トークイベントでおおむねこのような発言をされていた。

「いま、僕のような40代男性って、ジェンダーの話をするときにすごく発言に注意しなければならなくなっているんです。男である、おじさんである属性の人が発言すると、叩かれやすい文脈になっている」

このように、相対的に「男の地位」が低下し、むしろある文脈ではネガティヴな要素にすらなるという状況は、少なくともここ数年のことだと思う。

それとともに、これまで「男だから」「男のくせに」という言葉で覆い隠されてきた男性自身の弱者性にも関心が向き始めている。

フェミニズムは、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想ですーー。

これを上野さんは冒頭のAERAインタビューで、

被差別者が差別する側に回る、ということではなく、差別自体をなくそうということ

と説明している。

このメッセージは、女性だけではなく、男性にも等しく向けられていたものではなかっただろうか。

強者と弱者の対立を超えて

再びAERAのインタビューから引用しよう。

強者側にいる人たちは、男女平等を言うフェミニズムに対して「弱者であるお前たちが、俺らと同じ強者になりたいのか」と、自分たちの地位を脅かされる不安を感じるんですね。でもそれは完全に誤解です。例えば、妊婦、障害者、子ども、お年寄り。強者になれない人はいっぱいいるでしょ。その人たちに「強者になれ」って言わないでしょ? それに強者だっていつか年をとれば弱者になる。

この前提に立てば、3の「女(=弱者)が、男(=強者)を責め立てるという旧態依然とした手法」という批判も、必ずしも正鵠を射ているとは言えない。

もちろん、そういった「印象」を持たれてしまったということは事実だし、それについては受け止める必要があるだろう。

しかし、個人的には、上野さんが東大入学式という場で、「フェミニズムは、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」というメッセージを出されたことに、何よりも注目したい。

(そして、余談だがこうして祝辞本文を丁寧に読んで行けば、「弱者が生み出される構造を放置するのか」というよく聞かれた別の批判もまた、的外れであることは明白だ)

私たちはいつでも弱者になりうるし、ほんとうは強者と弱者の区別だって曖昧であるに違いない。

弱者と強者のレッテルを貼り合う競争は、何も生み出さない。

レッテル貼りで鬱憤を晴らすのではなく、その原因となる構造そのものを、そろそろ私たち自身が本気で変えなければいけないときに来ているのではないだろうか。

最後に、平野啓一郎さんのこの言葉を引用したい。

女の方が辛い、男の方が辛い、いや、私の方が…と、負のループを回していくのではなく、それぞれの辛さ自体を足場にして、変えていくことができたら。

その時に、この平成最後の祝辞内で述べられた「フェミニズムは、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です」という言葉は、すべての人に、確かな足がかりを与えてくれるに違いない。


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