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【書評】福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書、2020)

福間良明『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書、二〇二〇)は、立命館大学産業社会学部教授で歴史社会学・メディア史を専攻する著者の新著です。氏は先に『「働く青年」と教養の戦後史―「人生雑誌」と読者のゆくえ』(筑摩選書、2017年)でサントリー学芸賞を受けています。表題にある「勤労青年」とは中卒の労働者の謂いです。本書は、主として敗戦から1960年代末において勤労青年たちに共有されていた教養主義を歴史的に記述する一書です。

本書は、映画『キューポラのある街』から話がはじまります。浦山桐郎監督の日活映画『キューポラのある街』(1962年)は吉永小百合演じる中学三年生のジュンが、父親の解雇によって進学の道が途絶え、すさみ、再生してゆく姿を描いた映画ですが、終盤でジュンは、父親の復職によって全日制への進学も可能になったにも関わらず、就職して定時制で学ぶことを決意します。「だけど母ちゃん、昼間にはないような凄く頑張り屋でいかす人がいるわよ。それにね、これは家のためっていうんじゃなくて、自分のためなの。たとえ勉強する時間は少なくても、働くことが別の意味の勉強になると思うの。いろんなこと、社会のことや何だとか」というジュンの台詞にみられる、実利を超越した勉学を追求する価値観は、現在では失われた大衆教養主義の産物でした。

人格陶冶を目的とする教養的規範は、大正期から共有されていたものですが、前出の台詞からもわかるように、これは学歴エリートの専有物ではなく、勤労青年の間にも広がっていたのです。本書は、いまなお格差と学歴の問題が残り、また「フェイクニュース」「ポスト真実」が取り沙汰されるなかで〈人々の生や社会のあり方を、目に見える範囲を超えて、かつ根拠に基づいて、深く、多角的に考察しなければいけない〉(p12)という意識の希薄な現在の状況を念頭に置きつつ、先行論では包括的に見通されていなかった戦後の大衆教養主義の趨勢を検証するものとなっています。

第一章「敗戦と農村の教養共同体 青年団と読書の希求」では、農村部の「青年学校」の動向が述べられます。戦後の農村には軍隊や軍需工場から戻った青年達があふれていましたが、彼らの多くは青春の喪失から社会や自己への人知的な関心を抱いており、その受け皿として、青年団が読書会や夜学会を自主的に持つようになっていました。1953年には青年学級振興法によって公的な援助も得られるようになり、このような「青年学級」は1950年代前半から半ばにかけて盛り上がりを見せます。こうした背景には、高校進学率が高まるなかで就職した青年たちの鬱屈がありました。したがって彼らの求める知識は、職業技術ではなく、一般教養でした。本章では、「アカ」という誹謗や、家庭内の電気代に関する小言など、村落内の教養への無理解に晒されつつ、指導者、施設、自身の労働との両立といった問題をも抱えながら活動していた彼らの精神史が辿られています。

第二章「上京と「知的なもの」への憧憬 集団就職と定時制」では、集団就職や大手企業の養成工として上京し、就労しながらも定時制に通った生徒たちの存在が取り上げられています。雇用主や同僚からの批判や妨害を受けながらも通学した勤労青年たちの目的は、高卒資格の取得ではなくむしろ、教養の獲得であった、と著者は指摘します。この志向を促したのは、1958年から中学校に導入された「能力別選択コース制」です。これによって生徒らは進学組と就職組に分けられ、就職組は意欲があっても学習の機会が制限され、また進学組や教師からの冷淡な視線を受けることとなりました。職場での待遇工場や好条件での転職、大学進学といった道が期待できるわけでもなかった彼らが、「教養」を自己目的化してゆく道すじを跡づけるのが本章です。

第三章「人生雑誌の成立と変容 転覆戦略のメディア」は、1950年代前後に相次いで登場した『葦』『人生手帖』といった「人生雑誌」をめぐるメディア論です。知識人たちの哲学や文学などの論説や文献紹介記事を掲載して社会や人生の問題への思考を促した人生雑誌の主たる読者層もまた勤労青年たちでした。手記や文芸などの投稿を「査読」され、承認されるという経験を通して彼らが得た自負が、進学組の優位性を転覆させるような思考とリンクしているというというのが分析の核で、これを著者は「反知性主義的知性主義」とみなしています。

以上が全三章の梗概ですが、本書の優れている点は、「青年学級」「定時制」「人生雑誌」のそれぞれについて、教養主義志向の終焉のさまを指摘していることです。青年学級が隆盛した農村部では高度経済成長にともなって若手人口が都市部の工場に流出し、定時制への進学は普通科高校の進学率向上によって家計の問題から学力の問題へと焦点が変化し、人生雑誌が主題とした非政治的な人生論は「政治の季節」の到来によって幼稚なものとみなされるようになります。また、大学進学が普通のことになれば学生にエリートの道が約束されることもなくなり、教養主義そのものが没落してゆくのです。

いまや、〈格差に喘ぎながらも、いかに教養を身につけるか〉(p274)、〈ノンエリートであるにもかかわらず、人文知を模索しなければならない〉(同)、という規範は社会から消失して久しく、〈人々の生や社会のあり方を、目に見える範囲を超えて、深く、多角的に、かつ根拠に基づいて思考しなければいけない〉(p275)という価値観を共有することは難しくなりました。SNSなどを通じて知識人でなくても思考を公にすることは容易になりましたが、それによって論理性や根拠を欠いた思い込みが横行しています。社会のひずみは、現在は実利に直結しないがために孤立している人文社会知的な志向に基づくしかありません。しかし解決を急ぐあまりポピュリズムに結びついているのが現状です。教養主義は、格差・教育をめぐる議論でさえも現在では見失われていますが、かつて人文知がインテリ層だけではなく格差にあえぐ若者たちにも支えられていたという歴史は、現実的な課題を批判的に映し出しているだろう――というのが本書の結論部です。

この結論部を抜きにして、本書の読みは成立しないでしょう。本書がなぜ、戦後の勤労青年に限って教養主義とその終焉を論じているか、という問題設定にかかわる部分だからです。教養主義やその終焉自体の研究はすでにさかんに行われており、本書もそうした先行論の蓄積を援用しているのですが、本書の眼目は、教養主義が必然をもって勤労青年にまで浸透し、また必然をもって終わりを迎えたというその始終を見届けることで、現在の大衆社会の問題を捉えようとしているところにあるのでしょう。

統計資料や狭小コミュニティの文集、雑誌等の資料を広範に収集して実証的に歴史を記述したこの労作を眼前にして、著者がいま改めてつきつけようとしている人文知の効力を痛いほどに感じました。

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