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新刊発売されました。『教室を生きのびる政治学』(晶文社)です。

 これまでにも、私は政治学の専門知をデモクラシーを担うために不可欠な社会的中間層の生活言語に翻訳して伝えることを自分の仕事として努力して来ました。
 私が書いた何冊かの本は、いくらかの舞台の違いはありますが、基本的には私が考える「市井(しせい)を生きる人々のための政治学」を狙いにしたものでした。

 『言葉がたりないとサルになる』(亜紀書房)『静かに「政治」の話を続けよう 』(同社)『デモクラシーは、仁義である』(角川新書)『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)などです。

 これらのメッセージは、今もなお多くの人々に届いてほしいと思っていますし、意匠はそれぞれですが伝えたいことは「弱き人間が社会を維持するために協働の工夫をしましょう」というものです。
 大学では、法学部に入学してくる学生たちに、長年政治学の入門科目を講義して、はなもちならない統治エリートたちを正しくコントロールするリーダーズを育成するために、語り続けて来ました。

 しかし、大学に入学し、卒業し、各々の地域で働く者となった人たちが、自分たちのリアルライフと政治との関係をリンクする言葉をほとんど用意できていないことが、教室でも、地域社会でも、どこでも明らかなのです。
 政治学科に入学して来た若者は、特別に政治に関心があるわけでもなく、卒業した後も、自分の生活や人生に直接間接影響を与えるような大切な決め事にも、「自分が関わっているのだ」という気持ちで向かい合う契機を得られていないのです。そして、そのままある種の固定イメージを抱えたまま、ぼんやりと中高年の有権者となって、そのうちの半分の人は投票にも行きませんし、漠然と「デモは迷惑」という謎の道徳へと回収されてしまいます。

 自分の言葉がどれだけ届くのかは、自分では決められませんから、なるべく努力して、多くの人たちに届けてもらえる仲間に伝え、そしてまた本を書くのですが、ここへ来て一つのことをあらためて強く感じたのです。

 それは、「もう18歳(大学一年生)になった段階で、日本の若者、そして元若者のほとんどはリアルな政治と自分のリンケージをイメージとして描けるような言葉を与えられておらず、実に陰鬱で荒涼たる風景の中に、特殊な活動、特殊な人々によってなされるものとして、政治のイメージを確立させてしまっている」ということです。

 その最大の原因は、中学生から始まる「大人への階段」の途中で彼らが生きている生活空間から眺めた、彼らにとってのリアルライフにそった政治学の言葉が全く提供されてこなかったからです。
 社会科や高校の政経の教科書の味気なさ、その自分とのリアルな関わりのなさ、神棚に飾っておくような乾いたビッグワード(民主主義、憲法、政党政治、etc)をポンと差し出されて、こう言われるのです。

 「18歳の高三になったら選挙権を得るのです。立派な主権者にならねばなりません」と。しかも、「主権者とは何か?」をじっくりと現場で、職場で、仲間と議論する暇もないほど過酷な労働を強いられている、そして職員室で議決を取ることすら禁じられている(東京都!)教師たちが、虚な目で授業をするのです。彼らの苦しみは、私の心に刺さります。

 そして、政治学はそうした現実を視野に入れることなく、主権者教育のプロットを「凸凹のないフラットな教室空間」という、地上に存在しない啓蒙の土壌を前提にして来ました。教室内は、学級カーストもあり、友達地獄もあり、そして「学びを妨害する学級」に身体が反応して不登校という形でそれを示す大量の若者いるにもかかわらずです。

 いくら立派なお手本、高尚な学説の省略版、言い訳のような副読本を与えても、彼らの教室で起こっている「政治」は、主権者、憲法、民主主義というワードと相互に響き合うことはありません。ひたすら「これの何がオレ・アタシの幸福/不幸と関係があるのか」がわからないまま、穴埋めテストを終えた後は、もう永遠に立ち止まって考えることがないのが「政治」なのです。

 大人市民向けの(含む大学生)本を書いても、「それ以前に確立させてしまった虚な政治の風景」を、別の言葉で"unlearn"(学びほぐす:鶴見俊輔)して再構成しなければ、彼らは自分たちが政治にすでに巻き込まれ、そして自ら生きのびるために必死に工夫をして、つまり政治をして、マキャベッリが言う「作為としての政治」を生きていることにすら気づきません。

 だからそこに彼らのライフと響き合う素材と言葉を提供すれば、彼らはあの手垢のついた、チープに安易に刷り込まれた「政治」のイメージを解体させて、己の人生を切り開くための道具・武器として、政治を捉え返せるのだと、私は信じ、この本を書いたのです。

 これのもう一つの背景は、毎年数百人というティーンズたちが、勝手に己の自己評価を下げ、自己を否定して、自ら人生と世界にグッバイしているという切ないものがあります。己の力ではどうすることもできなかった事情すらも「自己責任」という呪いの言葉で自分のせいにして、膝を抱えてうずくまっているのです。
 そんな社会にしてしまった大人として、断腸の思いがあり、彼らに対して申し訳ないという気持ちでいっぱいです。だから、あらゆる想像力と知力を動員して、彼らを肯定し、一息ついて、正しい意味で狡猾に、賢く、学校を生きぬいてもらおうと、メッセージをしたためました。

 今も教室地獄、学校カースト、理不尽ないじめ、悪意なき親や先生たちからの圧力のもとで、ギリギリで息をしている若者、そしてそういう日々をかつて送って来た「元ティーンズたち」、戸籍年齢に関係なく、今も彼らティーンズたちと同じ構造のもとで日々を苦しく生きている大人たちに、私のメッセージを届けたく思います。

 岡田憲治『教室を生きのびる政治学』(晶文社)、2023年4月25日発売です。

 

新刊『教室を生きのびる政治学』(晶文社)

 少々疲れてしまって、心の階段の踊り場が必要なすべての人々に捧げます。


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