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読んだ本などについて

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読んだ本などについての感想や雑感です。
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記事一覧

読書論についての考察。しかし真の犯人は著者: ピエール・バイヤール 『読んでいない本について堂々と語る方法』

ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』は、本を読むという行為の意味や、その本について語ることの意味についての考察が述べられている。けれどタイトルにだまされてはいけない。いわゆるHow To本ではない。 そういえば、ずいぶんまえのことだが、『アブダクション―仮説と発見の論理』という本を同僚の原田くんに薦められた。原田くんは、「岡田さんはきっとアブダクションという考え方に興味があると思うんですよね。この本、どうです?」と言ってくれた。 アブダクションは

瞳孔刺激

デズモンド・モリス「マンウォッチング」は好きな本だった。その中に瞳孔に関する記述がある。 デズモンド・モリスが瞳孔について書いたとき、まさか、カラーコンタクトなんてものが使われるようになるとは思っていなかったのだと思う。しかし、カラーコンタクトの出現により、瞳孔信号に関して「顔の信号の中の容易にうそをつくことができない信号」とは言えなくなった。 もちろん、そういうものの可能性を示唆する記述もある。同じ本の下巻の「超正常刺激」の項では、つけまつ毛を「目の大きさとまばたきを誇

ソクラテスよ

中村雄二郎「臨床の知とは何か」を読み終えたときのこと、読み終えた本を横においてメモを書いていたら「何読んでたの?」とドロシーに聞かれた。 「経験とはなにかとかの本」と答えるとドロシーはかく語った。 揚句に歌いだした。ドロシーは歌がうまい。 そして日本の景気回復の現状についてとうとうと語りはじめた。滔々とは勢いよくとどまるところを知らないことなどをあらわす。 中村雄二郎「臨床の知とは何か」だが、臨床という言葉が使われているが、著者のいう「臨床の知」は、広義として医療に限

いくつかの詩に強く心を揺さぶられた:伊藤比呂美編『石垣りん詩集』

2020年12月27日に伊藤比呂美編『石垣りん詩集』を買った。2021年1月2日、読了。いくつかの詩に強く心を揺さぶられた。 1920年(大正9年)生まれ。関東大震災のときに3歳。母親の世代というよりは祖母の世代だ。同時代の人と私にはいうことはできないが、それでも1960年代から2004年までの同じ時間に生きていた人の詩集だ。 第一詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』の冒頭の二編、"原子童話"と"雪崩のとき"は、確かに私もうっすらと感じていたかもしれない時代の空気だ。

わかるということ: 熊本徹夫 『精神科医になる―患者を“わかる”ということ』

不思議なタイトルの本だ。その不思議さんはまえがきにも表れている。 まえがきにはこうある。 本書には、その仕組みと働きを、真摯に問おうとする著者の強い姿勢が感じられる。 一方で、<普遍性><論理性><客観性>を軸とする思想性の中で生きてきた私には、そこにあるまだ解けていない問題を前にしての強い困惑を感じる。 私自身は、近代から現代にかけての科学は、<コスモロジー(固有世界)>、<シンボリズム(事物の多義性)>、<パフォーマンス(身体性をそなえた行為)>を無視も排除もして

未分化の価値を再考する:ジョン・W・ガードナー『自己革新』

企業にせよ、個人にせよ、成長や変化は常に中心的な課題といえる。だからこそ企業では盛んに「イノベーション」が議論される。企業という組織で働いていて「イノベーション」という言葉を聞いたことがない人はいないはずだ。企業だけではない。地域創成という言葉が盛んに語られるのも同様である。日本の社会全体が長く続く停滞から抜け出ようと模索している。 ジョン・W・ガードナーの「自己革新」はイノベーションだけについて書かれた本ではない。初版は1963年、いまから60年近くも前に書かれた本であり

日本語を振り返る時間:杉本苑子『秋と冬の歌』

いつ買った本だろう。奥付を見ると昭和60年12月20日第一刷発行とある。1985年、まだ学生だったときだ。 秋立つ日という章には、中村草田男の俳句がさりげなく置かれている。秋の気配を感じるのではなく、秋立つ日にふさわしい《やや寒》という季語。無髯の耶蘇が掛けられた壁を《やや寒》という一言で言い尽くす感性。 この本を買った時、自分が何を感じたか、なぜこの本を買ったのか、もう思い出せない。ずっと本棚の奥に置かれていたこの本は、捨てられもせず、だからといって繰り返し読まれたわけ

モンダスに住む:アーシュラ・K・ル=グィン『夜の言葉』

伝えることが出来ないこともあるんだなと思う。そう思うようになったのは、もうずいぶんと前のことだ。 ル=グウィンは、ロード・ダンセイニの作品中の《内陸》(イナー・ランド)を「わたしの故郷」と呼ぶ。ル=グウィンと私とは、時代も環境も世界観も異なるけれど、もしかしたら同郷かもしれない。 ル=グウィンの「夜の言葉」の「モンダスに住む」にこんな一節がある。 「見つめる眼」ではトールキンを引用しながらこんなことを言っている。 もっとも、ル=グウィンは私と違って、退却系ではまったく

『知的生産の技術』の思い出

本棚を探してみたら、『知的生産の技術』が過酷な断捨離を耐えて生き残っていた。高木貞治の『解析概論』すら断捨離されてしまったことを考えると大したことだ。 奥付をみると初版1967年7月、第23刷 1976年8月10日とある。1976年、中学3年生の頃だ。 『知的生産の技術』と出会ったきっかけは中学の国語の授業だった。当時の私のクラスの国語を担当していた家崎さんは少し変わった人で、学校の夏休みにインドに出かけて行き、帰国後チフスだかコレラだかに罹患していることが判明、夏休みが

第2中世への予感:熊代亨『融解するオタク・サブカル・ヤンキー ファスト風土適応論』

本書のタイトルは「融解するオタク・サブカル・ヤンキー」だが本書の主題はそこではない。副題の「ファスト風土適応論」こそが本書のメインディッシュだ。 かつて「オタク」「サブカル」「ヤンキー」と呼称された文化とその後の変遷が、そしてそれを支えた若者の傾向が、現代(2014年)の視座からみた位置づけや分析とともに語られる。章立てでいうと「第二章」「第三章」がそれにあたる。ページ数でいえば47ページから118ページ、全体で200ページ弱の本書の4割弱に相当する。 一方、メインディッ

わからないことを楽しむ:圏論の歩き方委員会 『圏論の歩き方』

旅行をしたいと思い付いたとき「地球の歩き方」を手に取る人は多いだろう。だから圏論の世界に出かけてみたいと思ったときに「圏論の歩き方」を手に取ることは自然なことだ。本書はそのガイドブックなのだから。 この本には独特の楽しみ方がひとつある。さっぱりわからないことを楽しんでみるという楽しみ方だ。実際、私には本書に書かれている内容の98%がわからなかった。もちろんわからなければよいというものではない。楽しみ方にはそれなりに練習と修行が必要となる。 まず人生において「それほどにわか

問いを深めるために:ウォーレン・バーガー『Q思考 ― シンプルな問いで本質をつかむ思考法』

「アイディアはつねに「疑問」から生まれる」。では、その《問う力》について真剣に考えるとはどういうことなのか。本書は著者自身のそんな問いから生まれている。問うという行為の必要性、価値、よい問いの例、問いを妨げるもの、よい問いに近づくための工夫。本書は《問い》にまつわる著者の思考の軌跡だ。 いわゆるHow-to本とは性格が少し異なる。よい問いをつくる手順がレシピのように書かれた本ではない。本書の原題は”A More Beautiful Question”。 著者は「美しい問い

都市モデルの仮説を再考させてくれる:エベネザー・ハワード『明日の田園都市』(新訳)

エベネザー・ハワードによって1898年に提唱され、1992年に「明日の田園都市」("GARDEN CITIES of To-Morrow")と改題されて出版された本書は「近代都市計画論」の古典として位置づけられている。本書は"田園都市"("GARDEN CITIES")という牧歌的ともいえる語感の表題を持つが、内容は産業革命後に急速に進んだ都市への人口集中に対する解決案の設計について記述している。 実際、第1章の『「町・いなか」磁石』では、冒頭から「読者のみなさんには、約2

鳥と島と言葉への愛に満ちた啓蒙書:川上和人 『そもそも島に進化あり』

本書は海に囲まれた「島」という存在が生物の進化にどのような意味をもつのかを考察しており、一般的には科学啓蒙書のジャンルに属している。 著者は、「ここに海終わり、島始まる」と読者を島嶼という環境のもつ生物学的な魅力へと誘う。島嶼という字が読めなくても心配ない。島には青い空と白い雲が広がっている。本書は「島」と「生物の進化」との関係を通奏低音としながら、著者とともに人生の機微を呵呵と大笑するための本でもある。著者自身の島と鳥への愛に思いをはせ、島と生物学の魅力を味わいつつ読者は