エミリーはパリでどうなるのか


試験前になると突然あれもこれもとやらなきゃいけないことが浮かんでくる。期限があるものが極苦手なので、3日後に迫っているとある試験を前に、利き手である右手首の腱鞘炎を理由に受験を拒否しようとしている。私の右手首は異常に弱いので、ジョッキを4つ持った次の日にはシャンプーのポンプを押せなくなる。これは多分重症だ。

2022年11月12日(土)23:32

学生時代は好きな教科しか勉強しなかったタイプだった。得意な社会や国語はそれなりに自信を持って楽しく試験に挑めていた。根っからの文系という自負があるので理系という言葉を聞いただけで「あ、大丈夫です」と軽めの拒絶をおこす。文系科目に共通して好きなポイントが、答えのあるようでないということ。(厳密には答えが書いてあるけど本当にそれしか答えがないか?と言われるとちょっと考える余地がある)
今日も今日とて試験勉強をしながら、テキストに書かれた内容を暗記するだけの作業に違和感を感じている。(暗記するだけではないんだけどね)知識はインプットされるけど、この知識は果たしていつまで世界の常識なのだろうか。このテキストを作った人は何を考えてこの言葉を選んだのかな。でも歴史を辿るといろんなことが理にかなっているのでなんとなく納得。とかしているうちに、より道回り道で一向に試験勉強は進まない。(とは言いつつも私はこういう正念場にこそ注意力が散漫になる傾向のあるので、あれやこれやといろんなことに手をつけなら勉強をしているから進まないのだけれども。現に今だってこうやってnoteに手を伸ばしてしまっている。)でもこういう思考回路って意外と理系っぽいよね、とよく話題にもなる。

最近Netflixの「エミリー、パリに行く」というドラマをちょっとずつ見ている。ちょっとずつとは言いつつも今日は3話観た。人生にはメリハリが必要だと最近強く思っているので、ダラダラ作業をするのではなく休憩時間には部屋から出て居間で30分のドラマを見るようにしている。これはかつてのシェアメイトがやっていた方法を実践しているだけに過ぎない。(問題はいつまで続くかだけれど)


この作品、アメリカとフランスの文化の違いや価値観の違いなんかが如実に描かれていて、観ているとちょっと悲しい気持ちになるような描写も多い。(ネガティブキャンペーンではなく)そもそも文化や価値観の違う人間同士だもの、受け入れ難いことだってあるよね、うんうん、という具合でだ。まだ半分しか見ていないけどこの後の展開は大まかな予想はできる。けどそういうのを一旦フラットにして考えたときに、なぜ人はある一定の年齢になると多様性を受け入れられないフェーズに入ってしまうのか?という問いについて考えてみる。

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない」

アルベルト・アインシュタイン

高校生の時に聞いた、アインシュタインの有名な言葉だ。
非常に興味深くて衝撃的な言葉だった。当時はあまりその意味を理解できなかったけれど、あれから数年経ってちょっとずつその意味の真髄を理解できるようになってきた。
初めてそのことを自分の中に落とし込むことができたのは大学時代の研究活動での出来事だ。うちのゼミはチームワークが非常に重視されるゼミだった。そういういうゼミとは分かって入っていたので特段の苦手意識もなかったのだけれど、いかんせん育ったバックグラウンドも環境も異なる20歳になったばかりの10数名の男女の意見がそう簡単にまとまるはずもない。「アインシュタインの言ってたことはこれか〜」と毎日考えていた。大学で専攻していた産業組織心理学の授業で学んだのだけれど、組織はある程度同じ考え方の人たちでまとまった方”組織として”のまとまりやすさがあるらしい。例えば、経済学部出身者と文学部出身者では同じ企業に勤めたとしても、根っこにある考え方がそもそも異なるから(有意義でもあり無意味でもある)衝突というケースがこれが意外にも多いらしい。社会人を経験しているなら2度や3度くらいそういう経験を身をもって体験していそうだ。だから同郷の仲間は安心感がある場合が多いし、学力や考え方のレベル感がある程度一緒の人ほど仲が良くなりやすいというのは、差別的表現ではなく案外理に適っているということになる。

話を戻すとアインシュタインは18歳までに人間の常識はある程度決まってしまうとおっしゃっているが、私は案外そんなこともないのではないかと思う出来事に遭遇したことがある。
常識が固まってしまうのは逃れることのできない宿命だったとしても、その”固まった常識の上に新しい常識を加える”という作業は多分人間の脳みそや感情ができるようになっている。問題はどう歩み寄るか、ということだ。
まだ人生経験はペーペーだがそんなペーペーでも「この人のこういう考え方いいよねorこういう考え方はちょっと発想を変えた方がもう少し生きやすくなりそう」と思うことが多々ある。(概ね私も多くの人にそう思われているということは否めない)
(私も)比較的あたまのカタイ人間なので、自分の中の偏見コレクションをねじ曲げることってなかなかに高い難易度を感じている。
ただひとつ。「これはこうだから」と一方通行的に話されるのと「僕or私はこれに関してこう思うよ。君はどう思っている?」と双方向コミュニケーションを取ろうとしてくるかどうかというシンプルな違いで常識は簡単にアップデートされる気がする。

エミリーは今のところ同僚にこういったアプローチをされていない。
一方でエミリーも同様にまだそのアプローチを同僚にできていない。
良好な関係を構築するためにはまずは自分から、とは言ったものだけれどこんなシンプルなことが一番難しかったりするのがこの社会だ。ある一定の年齢になると多様な価値観を受け入れられなくなる人が多いのは、それを受け入れることでこれまで積み上げてきた自分が少しでも綻ぶ可能性があるからという恐怖と隣り合っているからなのではないかと思う。けれど相手と自分の自尊心を守るためにも、拒絶する姿勢ではなく受け入れて歩み寄る姿勢を双方維持することはとても重要だと思う。というかそれができれば、いつだって人間はアップデートできる。こういう考え方の人が増えると多分多くの人にとって社会は今より生きやすくなるだろうし、街中で小さいことでカリカリしている人を見かけて嫌な気持ちになることも減ると思う。

これが私のアンサー。
エミリーのパリでの今後に期待して、試験勉強へ戻ります。



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