デヴィッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』『民主主義の非西洋起源について』、イヴァン・イリイチの『脱学校の社会』Remix。

デヴィッド・グレーバーの『官僚制のユートピア』『民主主義の非西洋起源について』、イヴァン・イリイチの『脱学校の社会』を立て続けに読んだ。
以下、この3冊と自分の考えをごちゃまぜにしたRemix。


国民国家のあらゆる規制や制度は、結局のところ、権力が暴力を行使できることで成り立っている。当たり前だ。いくらルールを作っても、それを強制させる力がないとルールがルールとして成り立たない。
さて、国民国家とは、国民“主権”ということになっている。しかし、よく考えてみれば国民には暴力をはたらかせる手立ては無い。警察はひとつの行政機関という位置付けだ。

ここで明らかになるのは、国民“主権”というものが、実はまったくのハリボテであるということだ。暴力の行使は、行政府や政府にのみ認められ、国民には全く認められていない。たとえば、いざ権力が不正をはたらいても、わたしたちは、ただ指をくわえて(行政機関である)警察の捜査を見守ることしかできないのだ。そんな国民の、一体どこに「主権」があるのだろうか。
国民国家とは、そもそもがそのような欺瞞に満ちた存在なので、権力側は時の経過とともに、次から次へとやりたい放題やっていく。たとえば様々な規制を設けてくる。

規制や申請手続きを複雑化させ、ペーパーワークを増やし、大衆を疲弊させながら、既得権益はその規制によって守られる。
そして官僚たちは、その規制の中で最も合理的・効率的な手段を見出すことしか考えず、根本的な目的を価値評価をすることは一切無い。
たとえば学校は、測定可能な評価軸でしか、生徒を判断しない。また、学校で上手くいかなかった人たちに「ダメなやつ」「落伍者」といったレッテルを貼り付け、学歴社会を生み出し、さらに自分たちを特権化させ、様々な教材や技能を独占している。免許という暴力からのお墨付きを盾に、多様な子供たちを画一化し、その規制の内部でしか生きていけない官僚予備軍を再生産していく。

また、官僚にならなかったとしても、学校教育を受けた多くの人たちは、合理性・効率性の追求それ自体が目的と勘違いしてしまう。本当に重要なのは、その合理性や効率性が奉仕する根本的な目的であるはずなのに。
思い返してみれば、わたしたちは別に学校の中だけで学んできたわけではない。むしろ、あなたが官僚予備軍ではなく、意思のある「人間」であるならば、生きていくうえで重要なことのほとんどは学校の外で学んでいるはずだ。

社会において大事なのは、誰もが学びたいときに学べ、学んだことを分かち合いたいとしたときに、仲間を見つけ出せるような環境、つまり「学びの機会均等」であって、学校それ自体では決してない。

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