『生の短さについて 他二篇』を読む。

セネカにおいて、生は立派に活用すれば長く、浪費すれば短くなるものだという。

ではその生の浪費とはなんだろうか。少し長いが、多くの例を確認することで、その浪費のイメージをざっと掴んでしまおう。

“ある者は飽くなき貪欲の虜になり、ある者はあくせく精出すむだな労役に束縛され、ある者は酒に浸り、ある者は怠惰に惚ける。また、常に他人の判断に生殺与奪の権を握られている公職への野心で疲労困憊する者もいれば、交易で儲けようという希望を抱いて闇雲な利欲に導かれ、ありとあらゆる土地をめぐり、ありとあらゆる海を渡るものもいる。絶えず他人の危害を企図するか、己の危険を危惧するかしながら、戦への野望に身を苛む者もいれば、自発的に奉仕しながら、感謝もされない目上の者への伺候で身をすり減らす者もいる。また、多くの者は他人の幸運へのやっかみか、己の不運への嘆きで生を終始する。移り気で、あてどなくさまよい、自己への不満のくすぶる希薄さに弄ばれ、これと決まった目的もないまま、なにかを追い求めて次から次へと新たな計画を立てる者も多く、また、ある者は、進むべき道を決める確かな方針をもたず、懶惰に萎え、欠伸をしているうちに運命の不意打ちを食らう。”(12,13頁)

人は、自分の金銭を簡単に差す出すことはしないが、このような「不精な多忙」「怠惰な忙事」にはいとも簡単に自分の時間を差し出してしまう。自分自身のためには使わずに、他人に明け渡してしまったその時間は、内なる自己に目を向け、内なる自己の言葉に耳を傾けるべきだった時間である。

「怠惰な忙事」にすっかり慣れてしまっている人たちは、いざ忙殺から解放され閑暇がやってくれば「どうしたらいいのか」と狼狽し、不安や焦りに駆り立てられ、また別の忙殺の対象を探し、落ち着くことは決してない。

“彼らは夜の待ち遠しさで昼を失い、後朝の恐れで夜を失うのである”(55頁)

いま一度、私たちはその生涯を問わねばならない。「本当の意味で自分が意図し、本当の意味で自由を行使できた日は、いったいこれまで何日あったのか」と。「怠惰な忙事」に明け暮れる人たちは、「悠々自適な老後」を夢に、または「社会のお払い箱」になることを恐怖し、自身の長寿を切望しながら今日という「最期になるかもしれない日」を無駄に生きる。

そういう人たちの死に際は、足るを知り、今日一日を徳や善行に目いっぱい使う人たちと比べて、遥かに見苦しい。生を浪費し、ただ時間だけを生きた老人たちのなんと多いことだろうか。

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