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誕生日を迎えて

先日、無事にまた一つ歳を重ねることができた。

20代後半くらいから、いや、もう少し前からか、誕生日を迎えることに対して、漠然とした焦りのようなものを感じるようになっていた。

それは、若さを失っていくことへの潜在的な恐怖だったかもしれないし、世間がその年齢に期待するレベルに、自分は到底達してないんじゃないかという不安だったかもしれない。 

突き詰めてみたら実態のない、重たい霧のような感情だった。

だから、今回の誕生日でもまた、それが(もっと重たくじめっと感を増して)やって来るんじゃないかと思っていた。



誕生日は毎年、なるべく有休をとって、仕事はしないようにしている。

今回は、ずっと行きたかったトンカツ屋さんでランチを食べたり、雰囲気の良い雑貨屋さんで文房具を眺めたり、大好きな図書館でゆっくり本を読んだり、只々やりたいことだけをして過ごした。

トンカツは本当に美味しかったし、素敵な日記帳も買えたし、なんとなく読み始めた本は面白かったけれど、特別、テンションが上がることもなく平常心で夕方を迎えようとしていた。 
もしかすると、無意識に例の感情を恐れていたのかもしれない。


帰り道、車を運転しながら、今自分がどんな気持ちかを見つめてみた。

出てきたのは、「誇らしい」気持ちだった。


物心がついて、しっかり四半世紀、私は生きるという選択肢を選び続けてきたんだな、と気づいたのだ。
それが、とても誇らしいと感じた。

小2の時、同級生が私の靴を側溝の中に捨てたことがあった。
帰ろうとしたら靴箱に靴がない、不安で混乱した気持ち。泥だらけの靴が側溝で見つかり、状況を理解した時の、悲しい気持ち。

あれから、25年以上、胸が潰れるような思いを何度も味わってきたけど、結果的に、今私は生きている。


誰かが生きるという選択肢を選ばなかったことに対して、責める気持ちは全くない。というか責められない。
その結論を出すまでの経験や感情と同じものを、本人以外は知りえないから。


もちろん、実際に生きていく中では、これまで沢山の人に支えられてきた。
それでもやっぱり、大前提の選択肢を選んできたのは自分自身なのだ。

多分ほとんどの人が、「じゃあ今から人生スタートしますよ。心の準備はいいですか?それとも、もう少し後からにしますか?」なんて聞かれることもなく、気づいたらもう始まっていた状況だと思う。

それでも状況を受け入れて、今存在しているって、なんて健気なんだろうか。


私は「自己肯定感」という言葉がちょっと苦手で、それはきっと、これが自己肯定感だ!と実感できるようなものを感じたことがなかったからだと思う。

今回の、生きるという選択肢を選んできたことを誇らしく思う気持ちは、私にとっては「自己肯定感」に近いものといえるのかもしれない。


ずっと若くいられたら、健康上の悩みも少なくて済むし、ずぼらな私としては、外見にもさほど気を遣わなくて楽なのにな〜とも思う。(昔年配の方に言われていた「若いだけで十分きれいよ〜」という言葉はお世辞じゃなく真理だったと実感している。)

でも、歳を重ねて体の変化を感じることや、自分の未熟さに向き合っていくことは、生きることを選ばないと得られない経験でもある。

それなら、加齢を感じるたびに、恥をかくたびに、自分に花まるをあげよう。


ところで、どうして自分は生きるという選択肢を選び続けてこられたのか、考えてみた。
ほとんどの時間が、それ以外の選択肢が浮かばない無意識の状態だったと思うけれど、ぎりぎりで選んだことも、数回は、あった。

その時、微かでも、何かに希望を見いだせたから、今があるんだと思う。

希望を見いだすというのは、けっこう能動的なことだ。状況を客観的に見てみたり、あらゆる可能性を探ってみたり、未来への想像力を働かせてみたときに、小さな原石をやっと見つけるようなものだと思う。
いざ、弱っているとき、気力がない時には、難しくなるのかもしれない。

普段から、小さくても希望をいくつかストックしておくと、良かったりするのだろうか。
希望探しが上手になって、可愛いおばあちゃんになれるといいな。


例年とはちょっと違う気持ちで迎えた誕生日。
取り留めもなく書いてしまったが、忘れないように残しておこうと思う。












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