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現実と虚構の狭間のコミュニケーション

コロナ禍という非日常が1年以上続いています。

真夏でも家の中でもマスクをするのが当たり前、どこかの施設に入るときも出るときもアルコールで手指消毒するのが当たり前、休みの日でも遠くに遊びにいかず、家の中で過ごすのが当たり前、誰かとコミュニケーションをとるのはできる限り直接会わず、電話、メール、SNSなどではかるのが当たり前。
これらの当たり前はコロナ前では当たり前ではなかったものばかり。
たった1年で現実の世界がガラッと変わり、虚構の世界のように変化したように感じてしまう方はきっと多いのではないでしょうか。
特にコミュニケーションに関しては、zoomなどのミーティングで一度も直接会ったことのない相手とコミュニケーションを重ねて親しくなっていく様は今までの私の人生で全く経験したことのないことです。これは現実なのか虚構なのか、何気ない不安が心の奥底に常にあります。特にzoomでのコミュニケーションでは、自分が今、話している人たちは本当に存在しているのか?本当に自分の目に映っている姿をしている人なのか?聞いている声は本当に聞こえた通りの声なのか?自分の話は相手に伝わっているのか?相手には自分の姿がどう見えているのか?自分の話がどれくらい伝わっているのか?直接会って話す時に得られる情報量よりもzoomで得られる情報の方が制限されている分少ない情報量でコミュニケーションを取らねばならない。もしかしたらこれが何気ない不安の原因の一つなのかもしれないとふと気がつきました。


直接会ってのコミュニケーションでは相手と同じ空間、空気、湿度、室温、温度、気候、気圧、天候、照明などの明度、その場の匂い、音、振動、雰囲気などを相手と共有します。

その上で相手とのコミュニケーションがありますが、zoomの場合、それらの環境が噛み合わない状態でのコミュニケーションだからこそ、不安があるのかもしれません。
そういう不安は記憶の中に澱のように少しずつ溜まっていき気づけば何となく不安だが、なぜ不安なのかわからない。常に心の中、頭の中が落ち着かない感じがする。そんな方いらっしゃるのではないでしょうか?実は私がそんな感じがするのです。

SNSを中心とするコミュニケーションを「虚構コミュニケーション」と言い換えてみましょう。


現実ではなく虚構、本物ではなく偽物のコミュニケーションが「虚構コミュニケーション」だとすれば、現実のコミュニケーションと比べて足りない要素があり、現実のコミュニケーションと比べて足りていないコミュニケーションのカケラが「課題」として常に頭の中で問い続ける状況を作り出します。これが何気ない不安の正体なのかな?というのが今のところの私の仮説です。


その「課題」を解決させるためには「虚構コミュニケーション」を交わした相手との現実のコミュニケーションでの「答え合わせ」がもしかしたら必要なのかもしれないな、とも思っています。
なぜなら、私自身、SNSで知り合った方々と現実にあったことがない、この一点のみがなぜか心に引っかかっているからです。
今の私は一昔前であれば、会ったことのない何度も文通を重ねている相手に会ってみたくなる、そんな相手がたくさんいる状態なのかもしれません。
「虚構コミュニケーション」を偽物のコミュニケーションで現実のコミュニケーションが本物のコミュニケーションだと先程述べましたが、偽物の中にも本物の要素があり、現実と錯覚するからこそ虚構なので、「虚構コミュニケーション」の中にも現実の要素は勿論あるでしょう。
だからこそ「虚構コミュニケーション」は現実と虚構の狭間のコミュニケーションなのだと思います。


自身の現実と相手の現実の間に虚構という霧のかかったコミュニケーション。


コロナ禍で様々な物事のオンライン化が進み社会が効率化されたことは日本社会にとっては有益だったであろうことは皮肉ですが、若い世代にとっては効率化の為に現実のコミュニケーションの頻度が減少し、「虚構コミュニケーション」の割合が高まったことが今後の社会にどのような影響をもたらすのか、今後注意深く見守っていきたいと思います。自分自身の心の中に澱む「課題」とともに。



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