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【俳句鑑賞】一週一句鑑賞 24.01.07

着ぶくれや海はいつから青いのか

作者:はぐれ杤餅
出典:あしらの俳句甲子園2024前夜祭

季語は「着(き)ぶくれ」で、冬。寒さ対策として服を何枚も着込み、身体が膨らんで見えること。「重ね着」も冬の季語になっていますが、「着ぶくれ」とは区別して使われることが多いようです。「重ね着」は行為に、「着ぶくれ」はその結果・状態により焦点が当たる感じでしょうか。

掲句は、季語「着ぶくれ」を上五に置き、「や」で詠嘆しつつ切り、中七下五に12音のフレーズを置くという、いわゆる取り合わせの基本の型で作られています。この型は安定感・安心感がありますが、季語とフレーズのイメージの距離が近いと途端につまらない句になってしまう、内容にごまかしのきかない型でもあります。その意味で、「海はいつから青いのか」という、この展開には驚きました。季語「着ぶくれ」からは全く想像していなかったフレーズです。しかし、じっくり読み下しているうちに、やはりこれは「着ぶくれ」以外あり得ない、ぴったりの取り合わせだと納得するに至りました。

「海はいつから青いのか」というフレーズは、疑問を述べただけであって、映像描写としては機能しないという見方もあるでしょう。あしらの俳句甲子園の会場においても、そのような話は挙がっていました。これは技術的には全くその通りだと思いますが、僕個人の好みとしては、作中主体の眼前に実際に海があると読んでみたいですね。そう読んだほうが魅力的ではないかと、僕は思うのです。

冬の、冷たく暗く荒れた海。それを目の前にして、「着ぶくれ」て佇んでいる自分。服によって膨らんで見える身体は、むしろ体感的には内側に縮こまっているかのような気分。大いなる海と対照的に、自分はなんと小さく内省的な存在であるか。孤独が身に沁みます。
「海はいつから青いのか」という問いは、自らに向けられたものではないかと思いました。自問自答、それも答えが出ず、何度も繰り返されるもの。そもそも色というのは、いかなる波長の光が眼に届くかによって決まるものですが、それはつまり見る側の生き物が変われば違ってくるし、人間の中でも個人差があるし、さらに時間帯や天候や気分などによっても容易に変化するものです。「青い」のルーツに、物理的な解答を求めることはできない。多分に、哲学的な問いなのです。そして、作中主体を哲学の渦に飲み込ませたのは、「着ぶくれ」と「海」が作り出した孤独感なのだろうと思います。ここに取り合わせの魔力があるのではないか、と。

取りとめもなく書いてしまいましたが、可笑しみをもって描かれがちな季語「着ぶくれ」に対して、なかなか見ないアプローチで迫った佳句であることは、間違いなかろうと思います。取り合わせの可能性というのは、果てしないものですね。

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