理念と実践(2)全体人間の像 「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第18回

統一と調和
 池田は創価学会会長であるほか、小説「人間革命」や多くの随筆を書き、いくたの宗教関係の書をあらわし、創価学園、創価大学、公明党を創設した。民主音楽協会の会長でもある。こうした肩書からは、宗教家、社会運動家、思想家、文筆家など、また、理想主義者、歴史家、オルガナイザー(組織者)、苦労人などいろいろな分類ができる。しかしどの表現をもってしても、端的に池田を言い表わせない。そうしたものがみごとに統一、調和されて格別な風格をつくり出しているのである。
 私は創価学会会長としての池田と会っていても、かつて池田から宗教団体の長を感じたことがない。池田がむずかしい仏法に関する講演をし、仏壇に向かって経文を唱えている姿をみてすらそうなのである。というのも、池田のものの見方、考え方が決して、“没論理” でなく、論理的、常識的で、説得力をもっているからだろう。それに人間的な弱点も少ない。 政治家、高級官僚、学者、団体の指導者などは、いずれも人よりある面ですぐれた才能をも
っている。それでも人間である以上、多かれ少なかれ弱点をもつものである。感情的なもろさ、実際以上に自分をよく見せようとする背のび、虚栄、地位に対する執盾、名誉欲、権力に対する欲求、小心をカパーするための見せかけの豪放さ、自己犠牲的な言菓のなかにある自己中心主義など。
 池田についてみれば、そうした弱点は見出しにくい。あえていうなら情誼にはもろい点であるように思う。何分、数の多い学会員のことだから、なかには池田の指導をとり違えた行き過ぎ行為が皆無とはいえない。それによって世間の批判をうけることがあっても、その行為が自身の利害からでなく、学会の発展を息うあまりから出たものであると、その非を戒しめても,きびしく責めることができないからだ。彼自身「私は裁判官にも、検事にもなれない」という 。

目指す全体人間
 一つや二つの肩書で池田を現わすことができないことを裏返すなら、それだけ彼が多角的にさまざまな問題を処理する能力をもっている証左ともいえる。
 ところで、池田は四十四年二月の婦人部総会を記念して著わした論文の中で、耳新しい全体人間という言葉をつかってつぎのように述べている。「これからの婦人は、家庭のなかに閉じこもって家族の健康や、家計のことだけを考えていればよいというわけにはいかないだろう。だからといって、家庭をないがしろにしてよいというのではない。家庭は大事にしなくてはならないし、あくまでも婦人は家庭の太陽のごとき存在であって欲しい。家庭の役目を果し、さらに余裕を生み出せないようでは、家庭の太陽のような明るさも、英知もあり得ないだろう。今日の主婦の仕事は、あらゆる面で近代化され、合理化されている。そこに 生まれた余裕をいかに価値的に使っていくか、そこに未来を動かしていく真実の婦人と過去の惰性の違いがある。これからの時代は、創造的であり、個性的であることは当然、さらになんでもこなしていける全体人間でなくてはならない。家事も仕事も、政治のことも、あらゆる文化、趣味もなんでもこなすことができ、そこで創造的な才能を発揮していくことのできる人でなくてはならない」そこで「このあらゆるものを吸収し、自分のものとしていく力と知恵の源泉が信心であり仏法である」と結論づけている。

全体人間モデル
 このときはたまたま婦人部総会の記念論文だから、婦人にあてはめたもっていき方になっただけである。当然、学会員全体を対象に努力目標を示したものだが,私にはそういう池田自体が全体人間のモデルであるように思われる。
 とすると、池田という人間の本質はズパリいってなにか、これまたむずかしい。だが、少しでも近い概念をもった言築を選ぶとすれば“人間主義”とでもいうほかあるまい。ただ、それも社会の片隅から遠ぼえするような、無力なヒューマニストではないし、その運動は、ささやかな慈善で自慰的な小さな満足を得ようとするものでもない。その精神を社会のなかに強大に組織化し、それを推進力として、個人の幸福と社会の繁栄の一致、さらには世界の絶対的平和という至上目的に近づこうとするのだ。彼にとって今日はそこに向かう過程なのである。