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少女が女になるまでに

小学生のころ、本屋さんにマンガを買いに行くのは、特別な日だけだった。



どうしても欲しい本は買ってもらえたけど、どうしても欲しいマンガは自分で買わなくてはならなかった。



プールの練習を頑張った日、テストを頑張った日、家のお手伝いをしてコツコツ貯めた数百円を、特別な日マンガにつぎ込むのが幸せだった。


マンガが私の人生を大きく変えたわけではないけれど、小学生のときから、常にマンガは私の思い出に関わってくる存在だ。



少女であった私が、社会人になって一人の女になるまで、特に思い出に残っているマンガを5つ紹介したい。



【小学生時代を彩ったマンガ】

①永遠のガールヒーロー『カードキャプターさくら』

”魔法少女もの”少女マンガとして1996年から雑誌『なかよし』にて連載がスタートした『カードキャプターさくら』。私は、小学生の頃NHKで放送されていたアニメから同作にはまった。


当時は、常にマンガを横に置いてさくらの絵を模写していたから、何百回は軽くさくらを描いた。また、今で言う二次創作が頭の中で行われたほど、私は『カードキャプターさくら』にのめり込んでいた。


1.算数はできないが勇気と知性にあふれる少女

主人公の木之本桜(小4)は、「元気がとりえ」な女の子。さくらは、世界的な魔術師・クロウリードが作った魔法のカードをひょんなことからバラまいてしまう。さくらが、町で様々な騒動を起こすクロウカードを封印するため奮闘する物語。

 


 私が『カードキャプターさくら』に最も惹かれていた理由は、主人公のさくらがカードを封印するために毎回頭を働かせる姿だったと思う。


 

 さくらは、運動神経抜群、「好きな科目は音楽と体育 嫌いな科目は算数」(第1巻より)と設定されている。須川(2003)よれば、魔法少女もののアニメでは、「主人公はエリートではない平均的少女に設定される傾向がある」(p.77)。魔法少女ものに限らず、少女マンガの主人公が「算数嫌い」なのはあるあるで、その点は『カードキャプターさくら』も同じである。



 また、カードとのバトルシーンが多いが、さくらには戦隊ヒーローなどのように、「必殺技」があるわけではない。「水」や「火」、「鏡」、「幻」など様々な魔力が宿ったカードが実体化し騒動を起こす中で、さくらはゼロからカードを倒して封印しなくてはならない。




 例えば、「水(ウォーティ)」のカードがマンガで登場したのは、まださくらが「風(ウィンディ)」「跳(ジャンプ)」「翔(フライ)」「樹(ウッド)」のカードしか持っていない序盤期。




封印の獣・ケロちゃんからは、「水みたいに形のないもんは捕まえにくいんや」「さくらが持ってるカードじゃまったく歯が立たんで」(第1巻)と言われてしまう。どうしたら水を捕まえられるのかと悩んでいたさくらだったが、学校の巨大冷凍庫に「水」をおびき寄せて凍らせて捕まえることに見事成功した。




 さくらがそれまで封印したカードと身の回りにあるをうまく使って、カードを封印し町を守る姿は、私の少女期の憧れだった。さくらは、等身大の小学生だったし、魔法少女が好きな人あるあるだが、当時の私もいつかさくらみたいになれるんじゃないかと思っていた(笑)。



2.”変身”はしないがポップなバトルコスチューム

 戦隊ヒーローや魔法少女は、技や魔法を使うときによく”変身”する。魔法少女ものだったら、魔法の呪文を唱えると、髪が伸びたりドレスアップするなど、”普段の女の子”と”魔法を使う女の子”でギャップがある。

 


 ドレスアップや女性らしい体つきへの変化を含む”変身”は、「フェミニニティの表象」(須川, 2013,p.140)であり、須川によれば『セーラームーン』シリーズでは、ドレスアップやメイクアップなどのフェミニニティの強調が戦うためのパワーであると分析されている。



 だが、『カードキャプターさくら』は変身しない。確かに、魔法を使うときは呪文があって、魔法の杖も必要だが、魔法によってさくら自身の身体が変わるということはない。ただ、着替えはする。

 



 クロウカードとのバトルシーンでは、さくらはフワフワとしたパニエの入ったフェミニンな衣装から、ショートパンツに長いジャケットを羽織るスタイルまで、様々なバトルコスチュームに着替えている。全てさくらの友達・大道寺知世の手作りによるもので、それを着てさくらの活躍をビデオに収めることが知世の「幸せ絶頂ですわー!!」(第7巻)という設定。


 

 2020年の今から考えると、知世にとってさくらは「推し」であり、衣装を作ったりさくらの活躍をビデオに収めることは「オタ活」であるとも言える。



 さくらにとって主に「見られる」存在は知世、しかも「かわいい」「素敵」「幸せ」など、さくらは知世から常に全肯定される。物語に男性キャラクターも登場はするが、さくらの存在が誰かと比べられたりするわけではない。




ファッショナブルなさくらのコスチュームは、アニメ放送時小学生だった私を虜にしたし、衣装を着て友達からかわいいと言われるさくらを見ていると、こっちまで自己肯定感爆上がりした。



変身しないまま魔法が使えることは、さくらの日常の延長線上に魔法があるということであり、より魔法の世界がリアルに感じられた。




また、変身しなくても知世から肯定されることは、魔法の力で可愛くなっているわけではない、少女のそのままの姿(お着替えはあるけど)を認めてもらえる安心感を、読者の小学生に与えていたと思う。



3.全ての「好き」が肯定される世界

 少女マンガの王道といえば、主人公の女の子と、主人公のことを「おもしれー女」とかいう学校一のモテ男が、なんやかんやで両思いになってゴールイン、というのがありがち。



『カードキャプターさくら』も、主人公さくらの恋のお相手は最終的に同年代の男の子李小狼になるのだが、着目すべきは、登場人物間の「好き」という気持ちのとらえ方だと思う。



私が好きなシーンは、小狼がさくらの学校に転校してきて、さくらの片思いの相手・月城雪兎(高校生)に一目ぼれする場面(第2巻)。その後、雪兎が誕生日だと知り、慌ててチョコレートを差し出す小狼の様子に知世が一言。


知世「『クロウカード』集めでも『恋』でもライバル登場ですわね」
さくら「えええええええ!?」(顔を赤らめる)(第2巻)


小学生の時の私は、これを見て、


「へー小狼も雪兎さんが好きなんだ~」


という感想だった。小狼も、さくらも、同じように雪兎さんが好きなんだ。





結局、小狼はその後さくらへの想いを募らせていくこととなるが、クロウカードを集めている間は、二人は雪兎をめぐる「恋のライバル」として位置づけられている。




性的指向の話で言えば、異性愛中心主義的になりやすい少女マンガの世界で、異性、同性関係なく「好き」という気持ちが肯定されている。



小学生の時にこういった作品に出会えたことで、自然と大学時代にもジェンダーの話について考えたりするきっかけになったと思う。



 『カードキャプターさくら』では、その他にも様々な「好き」が登場するので、ぜひ一読あれ☆。




②「訳あり」少女の成長『学園アリス』

『学園アリス』も私が小学生の時、NHKで放送されていたアニメからマンガにはまった。

田舎町で育った小学生の佐倉蜜柑は、親友を追って天賦の才能”アリス”を持つ生徒が集まるアリス学園に入学する。問題だらけのアリス学園で、持ち前の明るさで周囲を変えていく蜜柑だったが、蜜柑の出生の謎が明らかになるとともに、学園の深い闇に巻き込まれていく。



1.つまはじき者たちの逆襲

 蜜柑は、他のアリスを打ち消し、身を守ることができる「無効化」のアリス。「無効化のアリス」や蜜柑の出生は、過去に学園で起きた事件と深く関わっており、蜜柑は入学時から「学園に目をつけられた」存在になってしまう。




ただ、蜜柑はどんな時もへこたれない前向きな女の子。「つまはじき」にされても、仲間達と目の前の壁を乗り越えていく。





私の好きな場面は、第4巻の文化祭で、蜜柑属する「特力系」のグループが出し物で「RPG アラジンと魔法のランプ」をする回。





特力系は、技術系や体質系といったオーソドックスなアリスに属さない、特殊な能力を持った生徒が集まり、他の生徒からは「落ちこぼれの集まり」のように扱われていた。(マイノリティが周縁化される構造と似ていますね)


文化祭でも、毎年適当に過ごしていた特力系だったが、蜜柑は特力のバラバラな能力を持った生徒達の集まりであるという特徴を生かして、何かやろうと提案。それが、RPG形式で特力系生徒たちの魔神を倒して進む「アラジンと魔法のランプ」ゲーム。見事大成功に終わる。




 アリス学園という特殊な設定ではあるものの、理不尽に「問題児」という認定を受けた蜜柑がへこたれずに前に進んでいく姿が、当時同じ小学生として勇気をもらった気がする。




2.小学生らしからぬ責任感

 世俗の世界で魔法を使う『カードキャプターさくら』に対し、『学園アリス』では天賦の才能を持った生徒ばかりの学園で物語が展開される。”アリス”を持つ生徒は、その珍しさから世間からはエリートとして扱われ、学園の外の世界に行くと誘拐される危険性もあると設定されている。




蜜柑が自分が何の能力を持っているのかわからないまま、学園に入学するための仮試験状態の時に、クラスの女ボス的存在・正田スミレがこう言う。


「私達は選ばれた人間なの 使い捨てのいくらでも代りのきく一般庶民とは人間の格が違うのよ」(第1巻)


(一般庶民の読者小学生私)「む、ムカつく~!!なんだよこのくるくるパーマ!」



蜜柑もそんな感じで逆ギレするのだが、第3巻ではそんな腹黒スミレちゃんの”アリス”としての責任感あふれる言葉に、小学生ながら感動した。




 第3巻では、クラスメートの棗が誘拐され、スミレと蜜柑が学園を飛び出して誘拐犯を追う。走り疲れた蜜柑は、タクシーやヒッチハイクを提案するが、そこでスミレが走りながら叫ぶ。


「相手がどんなアリスを持ってどんだけ危険かも分からないのに 一般人を巻き込むなんて許されないわ」
「普通の人間より選ばれた立場にいる分 負った責任も違うのよ」(第3巻)


自分がエラい立場にいるとわかっていながらも、きちんとその責任は負う。同じ小学生としてかっこいいな、と思った。(大人の世界でも通じる話)





 学園アリスの世界では、蜜柑達のような初等部の子でも、「自分の身は自分で守る」という意識があり、生徒達が力を合わせて学園の闇に立ち向かっていく姿が素敵だった。



③骨折と成長痛の思い出『ちびまる子ちゃん』

 いわずと知れた国民的人気マンガ『ちびまる子ちゃん』。



『ちびまる子ちゃん』のマンガと聞くと、私は、夏の暑い日に足を治すため通っていたあの整形外科のにおいを思い出す。



私は、小学3年生の時に、家族と行ったキャンプ先で骨折をして、しばらく整形外科に通っていたことがある。


さらに小学6年生のときに、膝の成長痛に悩まされて、半年くらいまた同じ整形外科に通った。



『ちびまる子ちゃん』のマンガは、その整形外科にいつもあって、待ち時間や超音波治療をしている間に読んでいた記憶がある。



特に、小6の時の成長痛は、小学校最後の運動会の時期で、成長痛のせいで組み体操の練習が思うようにできなかった苦い思い出がある。



整形外科には、どんよりとした気持ちで通っていたが、待ち時間に読む『ちびまる子ちゃん』だけが楽しみだった。まる子の笑えるエピソードで、暗い気持ちがいつも吹っ飛んだ。



大学生になってから、旅行で2回静岡に行った。『ちびまる子ちゃん』の舞台は静岡の清水だから、アニメやマンガにも富士山は当たり前のように出てきた。



静岡から見える富士山はとても大きく、関東住みの私には憧れの風景だ。大きな富士山にいつも見守られている静岡に、いつか私も住みたいなあと思っている。




【中学・高校・大学時代に共感したマンガ】

中高時代に入ると、小学生の時よりも多趣味になり、マンガを読む機会が減った。だが、④も⑤も、何度も読み返してしまうマンガである。


④友情・努力・勝利+教養『ちはやふる』

こちらも国民的人気マンガ、『ちはやふる』。小倉百人一首の競技かるたをめぐる、高校生達の青春ストーリー。少年ジャンプで言われるように、「友情・努力・勝利」はこのマンガにも通じると思う。




1.努力に優るものはなし

 主人公の綾瀬千早は、天才的に「耳が良い」女の子。競技かるたにおいて、相手より札を早く取るのに「耳が良い(”感じ”がいい)」に超したことはない。しかし、「感じがいい」だけでは、かるたの「クイーン」にはなれない。




百人一首の意味を理解し、時には早く取る事への執着を捨てて様々な「武器」を身につけるために努力し続ける千早の姿は、中学時代百人一首をやっていた身にはとても響いた。(あんなに強くはなれなかったが笑)




 努力をし続ける人間は他にもいる。千早の幼なじみ、真島太一。かつて原田先生にかるたを教わっていた二人だが、中学でバラバラになり、高校で再会する。小学時代からかるたに情熱を注ぐ千早と、中学時代少しかるたは続けていたけど、「青春ぜんぶ懸けたって 新よりは強くなれない」(第2巻)と、密かなライバル・新の名前を出して呟く太一。ここで、原田先生が一言。


"青春ぜんぶ懸けたって強くなれない"?
まつげくん
懸けてから言いなさい(第2巻)



「青春」の部分は、別になんだっていい。かるたについて、でなくてもいい。人生懸けて何かに打ち込んだっていいし、高校3年生全部懸けて受験勉強に励んだっていい。



私は中学で競技かるたからは離れたが、受験期は原田先生の言葉を胸に自分の生活すべて、勉強に捧げた気がする。笑



2.百人一首の意味が胸に刺さる

 中学時代競技かるたをやっていた際、正直私はあまり歌の意味など気にしていなかった。だが『ちはやふる』は、そんな私に、歌が登場人物たちの気持ちや状況を表す手段になることを教えてくれた。


例えば、第7巻。天才でありながら、競技かるたから離れていた新が大会で復帰した際に千早が呟く。​


めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな(紫式部)


競技かるたでは、この「めぐりあひて」の歌は、「め」でとれる一字決まりの歌としても知られるが、



千早はいつも少しの間しか会えない新との関係をこの歌に重ねあわせている。


百人一首などの古典短歌は、一見取っつきにくそうに感じるが、「嬉しい」「悲しい」「恋しい」「美しい」といった感情に言葉をくれるものでもある。



『ちはやふる』を読んでいなかったら、静岡に行って富士山を見たときに「田子の浦に」の歌を思い浮かべることもなかったと思う。




千早たちの青春を感じながら、その情熱を最後まで見届けたいと思う。



⑤7年経っても変わらぬ関係でいたい『A子さんの恋人』

これまでは少女・女性マンガのジャンルで来たが、最後は青年コミックに分類されている『A子さんの恋人』。



29歳漫画家のえいこさんは、3年前に恋人A太郎と別れられないまま渡米、その後NYでA君という恋人を作り、プロポーズを保留したまま帰国した。優柔不断なえいこさんとその周りの人々の、”あるある”な日常を描いた作品。


1.私とあの人に似ている○子さん

 『A子さんの恋人』では、主人公の「A子(えいこ)」をはじめ、A子の大学時代からの友達「K子(けいこ)」「U子(ゆうこ)」、大学の同級生(友達?)の「I子(あいこ)」、二人の恋人は「A太郎」「A君」



という風に、名前の一部がアルファベットになっている。A子たちは美大出身の設定で、それぞれ個性的な人物なのだが、なぜか美大出身でもない人に対して「あの人○○に似てる・・・」と思ってしまう。



「某Aさん」のように、キャラクターに名前があるようで匿名的な、誰にでも当てはまってしまうような抽象性がある。私も、誰にでもいい顔をして実は誰にも興味がない、A太郎みたいな奴に心当たりがあった。

 



 それに、登場人物全員が大人なのに、「大人らしく」ない。



A子はいつまでも二人の男と宙ぶらりんな関係を続け、A太郎は八方美人を続けたまま、A太郎に片思いを続けるI子は、A子が帰国したと知ってコソコソとA子の情報をK子から聞き出そうとする。



 小学生、中学生、高校生のころに読んでいたマンガは、等身大の主人公が成長するなか、大人たちは子供を見守る存在として、「大人ってすごいな」と思わせる存在として位置してきた。



しかし、実際に成人しても、「あれ、私全然変わってないな・・・」と思う。A子みたいに問題を先送りしてしまうし、A太郎みたいに八方美人になってしまう時もあるし、仲の良い女友達同士で愚痴を言いたくなる時もある。



 たぶん『A子さんの恋人』を高校生の頃に読んでも「はあ?」という感じに思っただろうが、いざ自分が大人になってみると、



「A子、決められない気持ちわかる・・・(共感の涙)」となってしまうのだ。




2.たいした用もなく集まれる関係への憧れ

 A子、K子、U子は、同じ大学出身の友達。A子たちは、大学時代から「地味で、人気者には近づけないような人」(第1巻)たちと、「人気者の悪口を言うのが好き」(第1巻)な、「感じ悪いグループ」である。



大学を卒業しておよそ7年くらいだと思うが、29歳になったA子たちはどうでもいいことでよく集まる。





第2巻では、U子がA子に「けいこちゃんの様子がおかしいから見に行こう」と電話する(第2巻第11回)。ゆうこがそんなことを言ったのは、どうやらけいこが「白いニットを着ているらしい」という情報を得たから(第2巻第12回)。※K子は、普段黒い服装だが恋をすると白い服を着る




特に報告があるわけでもなく、愚痴を言いたいわけではなく、ただK子が白いニットを着ているだけで集まってしまう関係・・・



あと7年後、自分がどうなっているかはわからないが、A子たちほど気楽に会える関係性って羨ましい。特に用事を作らなくても友達に会えるように、今ある関係を大切にしていきたいものだ。



***

小学生の頃とは違って、望めばマンガの新刊1冊くらいはいつでも買える年齢になってしまった。現実の恋愛は、少女マンガのようにうまくいかないことも知っている。



しかし、あの頃もしなけなしのお金を違うことに使っていたら。

ファンタジーな世界で女の子が活躍する話や、競技かるたに青春を懸ける高校生のお話は、きっと今お金をかけて読み始めたとしても、その頃感じた感動や憧れは、もう手に入らない。



少女から社会人の女になるまで、私は少しずつ、主人公と一緒に成長していった。そして、決して完璧でない大人の主人公を迎えて、自分一人の人生を、歩んでいかなくてはならない。



私を構成するマンガは、いつも、私の側にいるのだ。



おわり


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参考文献

須川亜紀子(2013).『少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか』.NTT出版.


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