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UTOPIA#15 龍憑き


「私をお前の中で眠らせてはくれないだろうか」

永く生きた古龍は少女にそう告げた。硝子細工のように透明で儚い声だった。その音色が余りに純粋な海色を思わせるので、少女は逃げ出す事ができなかった。厳かな空気に心と共に躰が硬直していた。僅かに残された自由を抱きかかえるようにして少女は訊ねた。

「どうして?」

「私の内側にある膨大な力は、私を生かした。恐ろしく永い時を、この世界における有数の強者として生かした。人であった頃、私達は蹂躙され簒奪される弱者でしかなかった。龍に成って、成し遂げたと、初めは誇らしかった」

そこで古龍は黙った。それが口を噤むと、静謐な空気が流れた。少女は己の心臓が止まってしまわないか不安で仕方がなかった。だが指先一つ動かす事はできなかった。

「失敗した。龍に成るのは愚かな行為であった。人のまま分相応に生き、塵のように吹き飛ばされてしまえばよかったのだ」

金色の瞳は痛みを訴えていた。徐々に少女は肉体に血の巡りがかえってきたような感覚を覚えた。

「なぜ後悔しているの?」

また長い沈黙があった。遥か遠方から淡い波音が聞こえた。

「人の心は、龍の躰に耐え難い。私は千年前の夜の事を、昨日の出来事のように思い出せる。無限に引き伸ばされた退屈の中で決して死ぬ事なく、世界を眺めていた。これは罠だったのだ。月は私を龍にしておきながら、龍として相応の心を授けなかった」

哀れな古龍の水すら枯れた倦み、少女はそれを幼い一対の瞳で受け止めていた。そういえば、今日私は何をするためにここへ来たのだろう……散歩……一人で遠くに行ってはいけない……わかってはいたけど…朝から聞こえる…波の音が…どうしても気にかかって

「最早この倦怠の中で永遠に在り続けるしかないと悟った時、私は暴れた。数多の命を奪った。破壊の限りを尽くした。騎士も魔女も獣も忌み子も殺した。だが何も変わらなかった。龍の力は私自身を忘却の彼方におしやる事は許さなかった。私は何千年も生きた龍であるにも関わらず、人のままなのだ」

彼の一生は悲哀に満ち過ぎていた。少女はそこに蠱惑的な光を見出してしまった。

「私の中で眠ると、どうなるの?」と少女は言った。

「私を忘れる事ができるかもしれない。今ここに己が在るという、この感覚そのものを、凍らせる事ができるかもしれない」と古龍は言った。

「いいよ」

自然と少女の口をついて出た。この哀れで美しい人を救いたいと、そう思うようになっていた。

すると古龍はいつの間にか消えていた。

「ありがとう」

波音と共に遠方から声が聞こえた。


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