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私は何者か、343


何にもしない。休みたる休み。昼間から麦酒である。ビールのなかで背泳ぎをしているのである。あゝ、空が青い。
窓の外の世界はキレッキレの晴天と新緑。まさしく萌えである。言葉はその使う人や使われる時によって変化するとか。けれど、肯定が否定になったりはしないだろう。優しく抱けば、優しく抱かれるように、言葉も、その意味とともに使い方を違えてはならないと思う。すべての人が評論家になり、その評論家こそが即ち評論の的であり、それを意識しないから、さぞかし楽かと思いきや、はっきりと分かりきったことを、今更ながらにやってのける。その石の中に輝く水晶があるやなしや。割ってみなければわからぬと。そう言われては、ほらね、バイヤスだよ。そんな古びた土産物屋の埃に塗れた陳列棚の上の、菊花石なら未だしも、中身を言い当てるとか、それは、俄にはできまいに。洞窟の中の水晶を見つけたのか。見つけられなかったのか。遠い遠い子供の頃の話。その山の洞窟に探検に行った男の子たちの会話である。15少年漂流記でもあるまい。ぼんやりと何かが背後を通り過ぎる。そんなわたしの背中を彼はさっとはらい、鏡を四つ書きました。鏡が四つ集まって、鏡と読んで鏡です。春と修羅ならご存じでしょう。映るものを映らせて、映さぬものを見つめては、やがて映らぬもののなか、映らぬことを信じたり、映るものを疑って、だから、言葉を信じるか、そして、こころを信じるか。

心と言葉は、どうなっている。

少なくとも同じであってほしい。

と、願う。


そのために書いているし、


そのために考えている。



黄金週間を背泳ぎで横切る。


わたしは何者か。

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