見出し画像

写真のように 第6回 石内都の銀座の写真とその「エモさ」について

第6回 展評 石内都「初めての東京は銀座だった」

東京・銀座の資生堂ギャラリーで開催されている写真家・石内都の写真展「初めての東京は銀座だった」を見に行った。石内のような実績のある作家が、インバウンドで賑わう銀座の一等地で写真展を行うこと自体はそれほど驚くべきことではない。しかし、展覧会の内容、具体的にはテーマ(タイトル含む)と展示手法と演出(作品の配置・照明)については良い意味で驚かされた。40年を越えるキャリアを持つ作家のそれとは思えないくらい視点がフラットで現代的、ひと言で言えば「エモい」のである。たぶん、写真を見ることに慣れているかどうかを問わずあらゆる年代層、あらゆるジェンダー、インバウンドで訪れた多国籍な観光者まで幅広い人々が等価に見れてかつ共有できるものになっている、と思った。その意味でこの展示は、全方位に開かれているとも言えるし、観賞の敷居が低い展覧会であるとも言えるだろう。ここでは、この展示が「エモい」理由、特にジェンダーに対する視線ががフラットである点について考えてみたい。

「エモい」ははやり言葉でもあるから、文章上で使うと違和感を覚える向きもあると思うので一応解説しておく。「エモい」は、2010年前後のインターネットから出てきた「エモーショナル」と昭和後期から平成にかけて使われた「○○い」(ナウい、ヤヴァい等)を掛け合わせた日本発祥のスラング(俗語)で、意味するところは「心動く状況・モノ・表現を目の当たりにして感情が動かされた」状態で発せられる一種の感嘆詞だ。主にネットの慣れ親しんだ四十代団塊ジュニア以降の世代に多用されている。

銀座を撮り見せる斬新な展示

本展は資生堂の企業文化誌『花椿』のWeb版「ウェブ花椿」の連載「現代銀座考」のために、石内が撮り下ろした写真から選んだ30点のカラープリントが展示されている。連載は「銀座バラード」というタイトルで、石内が撮り下ろした写真に対して書店店主の森岡督行が文章で物語を付けてゆくという企画だった。森岡は銀座で書店「森岡書店」を営むブックディレクターで、この企画の発案者でもある。写真の被写体となっているのは、石内と縁のある飯田久彦のレコードや月光荘の絵の具といった品以外に、資生堂の香水瓶、「銀座寿司幸」の蛸引き包丁、「銀座天一」の天ぷら、「資生堂パーラー」のオムライスなど、銀座の老舗店の銘品である。銀座に店を構える森岡は、彼のコネクションを生かして名店と石内をつなぎ、以前から温めていた石内に銀座を撮ってもらう企画を実現にこぎつけた。その意味で、本展は石内の写真がメインではあるが、森岡の銀座への想いとプロデュースがあって実現したものでもある。

とはいえ、展示は石内の独壇場。資生堂ギャラリーでの石内都の展示は今回で2回目となるが、前回のフリーダ・カーロウの遺品を撮った作品(*1)を展示した「石内都展 Frida is」(2016年)よりもディレクションが冴えた印象を受ける。ポイントは照明の使い方で、写真にスポットライトを直接当て、フロアには照明を落とさないで薄暗くする手法が効果的だった。しかも、そのスポットライトは通常一点の写真に対して一点のライトを使うのに対して、例えばオムライスを撮った三点の写真に対してひとつのライトで広く大きく当てるといった変則的な技が使われていた。写真の掲示も額装した写真を横一列平行に並べるのではなく、互い違いあるいは斜めに三点づつグルーピングして並べ、ライトもそれに対応するように斜めに当てるというものだった(fig.01、02)。こうした日本人作家の写真展(*2)としては斬新な手法は、見る側に堅苦しくない印象を与えるばかりか、きらびやかでまさしく心を揺さぶる印象を与える効果を生み出していて、写真だけの展示とは思えない高揚した気分を抱かせる。その高揚は、どことなくショッピングのそれと近く、ライティングのやり方もファッションの考え方に近いものがあると感じた。ちなみに、このライティングは今回初めて使われたもののようだ。

fig.01 「初めての東京は銀座だった」展示風景


fig.02 「初めての東京は銀座だった」展示風景。左から「資生堂パーラー」のオムライス、「銀座寿司幸」の蛸引き包丁、「銀座天一」の天ぷら

「あの」ちゃんのスカジャン
「エモい」という言葉が出てきたのには理由がある。特にそれを感じたのは、「銀座のスカジャン」(fig.03)だ。銀座や新橋の芸者から譲りうけた鮮やかな空色の着物を、スカジャンに仕立て直したものを撮影しているが、筆者には最近の若者が着るジャージに見えた。青いジャージと言えば、思い出すのが歌手・アーティストの「あの」ちゃん(*3)だ。石内の「銀座のスカジャン」を見て「あの」ちゃんが着ると似合いそうだなと思った瞬間、追うように「エモい」という言葉が出てきた。周囲を見渡せば展示の照明にも、展覧会のタイトルにも、他の銀座を象徴する写真にも、「エモい」という言葉がよく似合うことに気が付いた。そして考えた、「エモい」と感じさせる理由は何か。ジャージと「あの」ちゃんから連想したことに間違いはないが、それはいまここで初めて感じたものではない。確実に、それ以前から石内都の写真には「エモさ」が存在していた。

fig.03 「銀座のスカジャン」

「エモさ」の在処
過去の石内都の展示を振り返れば、確かに「エモさ」はあった。例えば、本コラム第6回で取り上げた「石内都展 見える見えない、写真のゆくえ」(2021年、西宮市大谷記念美術館)で、会場の最初の部屋に展示されていた「ひろしま」(*4)と「フリーダ」の作品を同じ部屋に並べて展示した手法がそうだった。片や原爆の光の下を生きた無名の女性たちの遺品と、20世紀を代表する女性芸術家のひとりフリーダ・カーロウの遺品が、同じ空間に一堂に会する図を目にしたときは確かに強く感情を揺さぶられるものがあった。同じ展示の最後にあった作品「Moving Away」と「The Drowned」(*5)の対比も違う意味で「エモさ」があった。前者は2018年までアトリエを置いていた横浜の旧宅を写した軽快な作品、後者は川崎市民ミュージアムに収蔵されていてたが水害で無残に朽ちた自身の作品を撮った重めの作品だった。「明るい惜別」と「作品の死」、それぞれのテーマを一室で見た後の複雑な気分もまた、感情を揺さぶられるものだった。そして、この事例における「エモさ」の在処は、女性たちの生と死、愛した場所との訣別、作品の死といった生と死の対比と揺らぎから生じた結果だった。

このように石内都の展覧会にはこれまでにも少なからず「エモさ」があった。その「エモさ」は作品の由来から来る生と死に彩られていた。「初めての東京は銀座だった」ではどうか。もちろん、展示会場の見事な照明の演出や、石内都を初めて観ることになるであろう観光客に訴えるメタファーを含んだタイトルとか、明るい「エモさ」もちりばめられている。それでも生と死を匂わせる要素はあって、一つは銀座を象徴する事物の儚さだろう。写真になっているものは、かつて存在していた物かあるいは守り続ける者がいない限り消えてしまう物やサービスだ。だからこそ尊く、事物のまわりにある環境への敬意を抱き、それゆえに心を揺さぶられるのではないか。また、今回の銀座の作品には、冒頭で書いたようににジェンダーに対する視点がフラットな点が特筆される。これまで、石内は女性の身体・痛み・傷といった女性視点をテーマにした作品が多かった。しかし、今回の銀座の作品は衣・食にテーマが置かれ、それらを見つめる石内の視点はジェンダー的にフラットでユニセックスだ。これはプロデューサー的役割としての森岡督行の存在が大きいとは思うのだが、石内がこの視点をなぜ獲得するに至ったのかを考えてみたい。その分析こそが「エモさ」の獲得につながったのではないかと思えるからだ。

タナトス(死)を見つめる
話は2000年代初頭に遡る。石内都は、初のカラー作品となった「Mother’s」(*6)で母の遺品を撮ることで母娘の問題に決着をつけ、カラーで遺品を撮ることで、“時間を撮る”意識を殊更に意識するようになった。以降の作品はカラーフィルムによる制作が増え(現在はカラー作品のみ)、被写体は遺品を含めた「モノ」が多くなる。これが何を意味するかをわかりやすく言えば、「時間を色づけて再生する」ことだろう。例えば、広島に遺されたかつて女性が所有していた服や化粧品を撮ることでそこに堆積していた時間を写し、新たな視覚へ再生するという。そこには確実に死(タナトス)を見つめる視線がある。初期には母親や広島の原爆の光の下にいた女性たちに向けられていたが、それがゆるやかにユニセックスなものになっていったというのが、今回の銀座の作品のフラットなジェンダー視点に至る道筋だったのではないだろうか。
死を見つめると言えば、同時期に公開されていた映画「バービー」の中にも似た場面があった。「バービー」は、アメリカ・マテル社の玩具であるバービー人形をモチーフに、その世界観を実写で皮肉とユーモアを交えて描いた映画。作中でピンクに彩られた女性の理想郷「バービーランド」で永遠の日常を謳歌するバービー(マーゴット・ロビー)は、ある日実存に目覚めて死を意識し不安に揺らぐ。日常を謳歌する女性の中にある死(タナトス)=老いへの憧憬が描かれていたわけだが、意味するところは命の有限性とその輝きだろう。実存に目覚めたバービーは最後に死=老いを受け入れる道を選び、その代わり今までとは違う自由を獲得する。筆者はこの映画の結末で描かれたバービーの選択に、「Mother’s」以降の石内の制作姿勢を重ねる。つまり、死や老いといったさまざまなものを受け入れることで母娘問題に決着を付け、その代わりに自由を得た。そこで獲得した自由こそが石内作品が内包する「エモさ」の正体なのかもしれない。

「エモさ」は若者だけの特権ではない
そして石内は、獲得した自由さをもって銀座を撮った。厳密に言えば団塊の世代である石内は、「銀ブラ」に代表される銀座を謳歌し親しんだ世代ではない。石内が親しんだ銀座は、写真展を開催する銀座ニコンサロンだ(*7)。しかし、血気盛んな時代を過ぎさまざまなものを受け入れる成熟していく途上で、銀座に向かい合う余裕が生まれ、表現の視点もどちらかと言えばフェミニズムに近いところからユニセックスな状態へと移ろいでいく。それを証明しているのが今回の「初めての東京は銀座だった」展示ではないだろうか。そこにはプロデューサーの意向を受け入れ、銀座を謳歌する自由がある。ただ石内の場合、創作においては自由であることだけでなく、常に生と死を見つめることが要求され続ける。石内の作品は、自由であるのと同時に、生と死が同居している故に「エモい」のである。「エモさ」は、若者の特権であるとは限らない。付け加えれば、「あの」ちゃんもまた、生と死を裏腹にもつ存在である。彼女もタナトス(死)を意識しながら今を生きていると思われる。石内の作品を見て「あの」ちゃんを連想したのも、案外表層の裏側にある生と死のつながり、という関係性が見えたからかもしれない。

最後に
前回の石内都展評を書いた2年前、筆者は最後に「石内都は暗室と訣別できるのか?」と書いた(*8)。「初めての東京は銀座だった」は、その問いの先にある。現時点での結論は、「石内都はすでに『Mother’s』の時点で精神的には暗室と訣別していた」である。そこに「そして、彼女は自由になった」と、付け加えるべきかもしれない。作家の表現力と演出に全面降伏した格好になるが、いまはそう書くしかない。優れた作家は多くを語らずにして、雄弁な作品を創り上げるということだ。また、それはともかく、筆者は「あの」ちゃんと石内都のコラボをどこかで見たいと密かに思っている。
あと、タナトス(死)と言えば、「タナトス」「エロトス」を看板にしている某有名写真家がいる。「バービー」を見た直後、即座にその写真家のことを思い浮かべた。同時に彼が長年女性や人形や花を被写体にしながら、執拗に写真で「タナトス」(死)を追求していた理由が少しだけ分かった気がした。そして、あらためて写真は生と死を描くのに適したメディアであると思った。そのことについては、また後日。 (了)

展覧会情報
題名:初めての東京は銀座だった
会場:資生堂ギャラリー
会期:2023年8月29日(火)〜10月15日(日)
URL:https://gallery.shiseido.com/jp/exhibition/
主催:株式会社 資生堂
企画協力:森岡督行
協力:The Third Gallery Aya

文中注釈
*1 2012年にメキシコに渡り、世界的な美術作家フリーダ・カーロの遺品を写した作品「Frida by Ishiuchi」「Frida Love and Pain」のこと。国内初披露が「石内都展 Frida is」だった。

*2 写真作品の展示は、一般的に額装した写真を会場の壁面に横一列に並べるのが通例で、石内のようにサイズを変えたり斜めに掛ける手法はどちらかと言えば変則的。ただ、2000年代以降は、ヴォルフガング・ティルマンスなどが独自に壁面と作品サイズを自在に使って立体的に見せる手法が増えている。

*3 あの。本名不詳。2013年から2019年までライブアイドルグループ「ゆるめるモ!」に在籍した元アイドル。現在は歌手、モデル、アーティスト、俳優等多くの分野で活動中。周囲となじめず高校入学直後に中退、以降は不登校・引きこもり生活を送っていた。逆境から這い上がった裏表のない言動が若者たちの支持を集める。パーソナルカラーは青。

*4 2008年に発表された、広島平和記念資料館に寄贈された資料である被爆した衣服や生活品を撮影した作品。「Mother’s」に続くカラー作品。

*5 「Moving Away」(2015-2018年)は、かつて母が住んでいた実家とアトリエがあった横浜の自宅を転居を機に撮影した作品。「The Drowned」(2019)は台風で水没した川崎市市民ミュージアムに収蔵されていた石内のプリントを複写した作品。浸水によって修復不能なダメージを被った木村伊兵衛写真賞受賞作「Apartment」や父方の祖母を撮った「1899」などをカラーフィルムで複写した。

*6 「Mother’s」(2000)。前年に逝去した母(石内都)が遺した遺品(口紅、下着、義歯等)を自然光で写した石内初のカラー作品であり転機となった作品。

*7 石内はキャリアの初期に銀座ニコンサロンで個展を開催している。「絶唱、横須賀ストーリー」(1977年)、「APARTMENT」(1978年)、「連夜の街」(1980年)など。「APARTMENT」は第4回木村伊兵衛写真賞の受賞作品となっている。

*8 https://note.com/okimoto66/n/ne700ffe87b59を参照。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?