沖本尚志 takashi okimoto

フリーランスの自称写真編集者。写真の会会員。写真を媒介に執筆を行います。

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写真のように 第12回 フェティッシュの矛先 写真集評 清水裕貴『岸』(赤々舎)

写真の季節 日本では、毎年10月から12月が写真集の季節とされている。年末がいわゆる写真賞の賞レースの締め切りで、木村伊兵衛写真賞、東川賞、日本写真協会賞、林忠彦賞といった昭和・平成初期から存続する写真作家賞がこの時期一斉に締め切りを迎える。これに合わせて若手の写真集がどっととまではいかないが、比較的多めに出版されるのが日本写真界の歳時記的な通例である。写真集はそれほど多く部数を刷る図書ではないし、流通も限定されるので、一般の書店で見かけることはあまりない。新刊で扱いがあるの

    • 写真のように 第11回 写真にできることはまだ残されているのか!? 展評 「見るまえに跳べ 日本の新進作家 vol.20」東京都写真美術館

      「即興 ホンマタカシ」展を取り上げたのであれば、同じ東京都写真美術館で開催中の 「見るまえに跳べ日本の新進作家 vol.20 」を取り上げねばなるまい。毎秋恒例の都写美の「日本の新進作家」展だが、今年は久々に粒ぞろいの作家と作品を集めた、好企画だった。「今年は」と語るのは、当然そうではない回もあるからで、ぶっちゃけ昨年とか一昨年の企画はあまりおもしろくなかった。もちろん、ひとりふたり、光る作品を出品している作家もいるわけだけれど、今年のように粒ぞろいとまで言わせる年はもう10

      • 写真のように 第10回 ある同時代性の話、「写真」と「漫画」 展評 「即興 ホンマタカシ」 東京都写真美術館

        最初に言い訳を。2023年の秋は忙しかった。この年の秋は展評に書いておきたい写真展や写真集がいくつもあったにも関わらず、まったく書けなかった。11月から手間の掛かる煩雑な仕事を引き受けたり、12月の初めから新宿のゴールデン街で人生初の写真と文章による創作個展をおこなったり(「寿命の縮み食事」という食エッセイ+iPhone写真による展示でした)とかなかなか落ち着いて書く時間が取れなかったというのがその理由である。それでも10月5日から東京都写真美術館で始まった「即興 ホンマタカ

        • 写真のように 第9回 毒消し草は○○の夢を見る

          写真集・写真展評 渡邊耕一『毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー』(フォトシティさがみはら) 私が住む東京西部の町田市に隣接する神奈川県相模原市は、毎年秋に文化事業の一環で写真賞を選出する「フォトシティさがみはら」というフォトフェスティバルを開催している。カメラメーカーの日本光学が相模原市にレンズ工場を持っていたことから、同社の支援で2001年から始まった賞ですでに23年も続いている催しである。若手写真作家に対して積極的に賞を与えたり、受賞作家の作品を買い上げて収蔵す

        写真のように 第12回 フェティッシュの矛先 写真集評 清水裕貴『岸』(赤々舎)

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          6本

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          写真のように 第8回 柴田敏雄の1980年代の初期作品集と夜の写真について

          写真集評 柴田敏雄『DAY FOR NIGHT』 さる10月1日(日)まで東京・中目黒のギャラリー「POETIC SCAPE」で開催されていた柴田敏雄の作品展「DAY FOR NIGHT」を見た。展示されている写真のプリントは作家自身によるプリントも美しく素晴らしいものであったが、会場で購入した写真集『DAY FOR NIGHT』(DEADBEAT CLUB)が良すぎたので、今回はこの本を紹介したい。同時に、作品のテーマである「夜の写真」についても考えてみたい。 「夜の写

          写真のように 第8回 柴田敏雄の1980年代の初期作品集と夜の写真について

          写真のように 第7回 いまなお続く好敵手と“挑発”の問題

          展評 「挑発関係 中平卓馬×森山大道」 終了間際の展覧会、神奈川県立近代美術館 葉山で開催されていた「挑発関係 中平卓馬×森山大道」に滑り込んできた。美術館のある夏の逗子・葉山はあまりに風光明媚な場所で毎回行くのを楽しみにしているのだが、さすがに場所柄、季節柄海水浴客でごった返すことを考えると、盛夏の時期は避けざるを得ないな、などと先延ばししているうちに会期終了目前になり、慌てて東海道線に飛び乗り逗子駅から山裾を這うように走るバスに乗り、逗子マリーナの先にある美術館へ駆け込

          写真のように 第7回 いまなお続く好敵手と“挑発”の問題

          写真のように 第6回 石内都の銀座の写真とその「エモさ」について

          第6回 展評 石内都「初めての東京は銀座だった」 東京・銀座の資生堂ギャラリーで開催されている写真家・石内都の写真展「初めての東京は銀座だった」を見に行った。石内のような実績のある作家が、インバウンドで賑わう銀座の一等地で写真展を行うこと自体はそれほど驚くべきことではない。しかし、展覧会の内容、具体的にはテーマ(タイトル含む)と展示手法と演出(作品の配置・照明)については良い意味で驚かされた。40年を越えるキャリアを持つ作家のそれとは思えないくらい視点がフラットで現代的、ひ

          写真のように 第6回 石内都の銀座の写真とその「エモさ」について

          写真のように 第5回 写真集だけではわからないこと 展評「石内都展 見える見えない、写真のゆくえ」(西宮市大谷記念美術館)

          写真家が表現するメディウムといえば写真集だが、それだけで彼らの意図を十全に理解することはできないし、それに留まる性質のものでもない。写真家・石内都の写真展を見るたび、写真の潜在能力とその深さを思い知る。これまで、国内外石内の展示を見てきたが、その自由闊達な展示空間の使い方と作品の選択にはいつも驚かされる。平面の写真を3次元空間に解き放ち立体的に見せる天衣無縫な想像力、と言うべきか。石内の展示はそれ自体がマジックであり、つねに鮮烈な視覚体験に満ちている。折しも全世界がコロナ禍に

          写真のように 第5回 写真集だけではわからないこと 展評「石内都展 見える見えない、写真のゆくえ」(西宮市大谷記念美術館)

          写真のように 第4回 静止した時間が再び動き出すとき 展覧会時評:「写真の都」物語 名古屋写真運動史:1911-1972(名古屋市美術館)

          さる2021年3月28日を持って終了した名古屋市美術館開催の『「写真の都」物語  名古屋写真運動史:1911-1972』(以下、写真の都物語)について書いておきたい。本展を取り上げる理由は二つ。きわめて綿密なリサーチを基に企画・実施された2021年前半における屈指の充実した展示であったこと、そして図録の完成度と充実度が半端なく良かったことだ。本稿では全六章からなる同展の展示を振り返り、同展で取り上げられた写真作家と作品をかいつまんで解説し、最後に同展の意義について論じたい。

          写真のように 第4回 静止した時間が再び動き出すとき 展覧会時評:「写真の都」物語 名古屋写真運動史:1911-1972(名古屋市美術館)

          写真のように 第3回“自撮り”ポートレイト作品の役割を考える 展評:「澤田知子 狐の嫁いり」展(東京都写真美術館)

          序文 写真家・澤田知子による、久々の国内における大規模な個展「澤田知子 狐の嫁いり」が、東京・恵比寿の東京都写真美術館(以下、TOP)で始まった。澤田は“内面と外面の関係”をテーマとし、自身をモデルに髪型・メイク・衣装(コスプレ含む)をさまざまに変化させたセルフポートレイト作品を発表している。本展は、デビュー作から近作に至る「顔」をモティーフにしたポートレイト作品を組み合わせ、会場全体を新作として構築した。また、澤田はSNS上で隆盛を極める自撮り=セルフィーの元祖のひとりでも

          写真のように 第3回“自撮り”ポートレイト作品の役割を考える 展評:「澤田知子 狐の嫁いり」展(東京都写真美術館)

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          第2回 “見られる”社会への処方箋としての“待つ視線”  〜考察・田口和奈『エウリュディケー』〜 写真と絵画、二つの技法で作品制作を続けている美術家、田口和奈の作品集『エウリュディケー』(fig.1)が第45回木村伊兵衛写真賞の候補になった。田口にとって初の作品集となる『エウリュディケー』は、写真と映像など視覚表現への鋭い示唆を含み、かつ現代のITにおける視覚にかかわる問題と、その本質を浮き彫りにする佳作である。今回は、作者である田口とのメール交換を交え、『エウリュディケー

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          第1回 野村浩「メランディ」に見る「小さな父」とその可能性 中目黒のギャラリーPOETIC SCAPEで開催されていた、野村浩の新作個展「メランディ」がさる4月3日をもって幕を閉じた。新型コロナウイルスの流行とそれにともなう世界規模の混乱によって、会期短縮を余儀なくされたのはとても残念だが、それでも初日と最終日と二回見ることができたのは幸運だった。また、コロナ禍という特異点がなければ得られなかった気付きもあった。ここでは、野村浩の新作「メランディ」について、妄想を交えて膨