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No.369 MOTTAINAI

 ケニヤ出身のワンガリ・マータイ女史は、2004年に、「持続可能な開発や民主主義と平和への貢献」が認められノーベル平和賞を受賞した人物です。

 翌、2005年(平成17年)、京都議定書関連行事に出席し、日本語の「もったいない」という言葉に大変感動しました。その理由は「もったいない」という日本語には環境保護の3R(リサイクル・リユース・リデュース)など、地球環境の脅威を減らす考え方が一言で表現されていたからだといいます。彼女は、その年から「MOTTAINAI」を世界共通語として広めるキャンペーンを始めました。あまりに強い意志の女性であったので、夫がコントロール不可能であると国に訴えて、離婚させられたというエピソードもあるくらい一途な女性のようです。

 そのマータイさんは2011年(平成23年)に71歳で病没しました。環境分野の活動家らしく、環境に配慮して、棺には木材を使わぬようにと遺言しました。そこで、棺の骨組みには竹を使い、ヒヤシンスとパピルスの茎を編み込んで作ったそうです。支える人々の行動も素晴らしく、私などの頭ではまったく追いつけません。

 よその国の人から「MOTTAINAI」を世界共通語にしようと推奨され、その精神性を逆輸入した形の我々日本人です。1980年代から顕著になった大量生産大量消費の「使い捨て」の時代はとっくに終わったというのに、各種の「落とし物管理センター」には、落とし主がなかなか現れないのだそうです。「豊かな時代」の残像が脳裏に焼きついていて、行動を妨げてしまうのか、麻痺させているのでしょうか?一度豊かさを体験すると、なかなか元の生活や、元の意識には戻りにくいもののようです。

 ものに愛着をもって大事にする心、辛抱して使い切る心は、いずれ生まれ来る子孫へのプレゼントに変わるものとなるのでは?「MOTTAINAI」のアルファベットも良いけれど、「もったいない」のひらがな文字に映る心を感じていたいお年頃の私です。

 えっ、それなら漢字の「勿体無い」ならどうなのかって?「語源由来辞典」を見ると、
 「もったいないは、和製漢語『勿体(もったい)』を『無し』で否定した語。勿体の『重々しさ』『威厳さ』などの意味から、もったいないは『妥当でない』『不届きだ』といった意味で用いられていた。転じて、『自分には不相応である』、『ありがたい』『粗末に扱われて惜しい』など、もったいないの持つ意味は広がっていった。」
と説明がありました。

 さらに調べると、室町時代の国語辞典『下学集』(かがくしゅう、1444年成立)の「言辞門」によると、「勿体」とは「正体無し」という意味とあり、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表していると教えられました。中国由来の「勿体」には仏典の匂いがしますが、日本語の「勿体無い」と転化することで「惜しみ、愛しむ気持ち」を併せ持つことになったのでしょう。日本人の心とマッチする言葉となったのです。

 ものの溢れる豊かな日本社会にあって、忘れられがちな「勿体無い」は、皮肉にも逆輸入され、世界に有名になってしまいました。その本家は中国ですが、元祖「勿体無い」を創始した日本人としては、言葉遺産としてだけではなく、生み出した心も受け継いで行きたいものです。「勿体ない」は、500年も前から言い伝えられており、まさにSDGsの先駆けだったのかもしれません。

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