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No.948 その子は、臨床心理士に。


在職中に作文課題を出すことがありました。
これは、30年近くも前に課した「肉親との絆」という題に応えた高校1年生の女子の作文です。自分という者をとらえようと、ある出来事から掘り起こして自己を観照しています。その精神のありようにひどく心を打たれた作品です。サブタイトルは「無題」でした。ご一読ください。

「無題」
 夜、ふと目覚めると自分が泣いていた。でも、その原因が自分でもわからない。――とても不思議だった。それは子どもの頃からわりとあって、今でも時々。
 私は泣かない人なのに、でも無意識のうちにそうなっているのは、私が泣きたいから?いつも泣くことの出来ない強がりで弱虫な自分を、少しの間だけ解放してくれるきっと何かがある。見えないけれど存在している、もう一人の自分の心が。
 これを二重人格と言うのかな?
 穂門(故郷の地名)に帰った。それなのに、何故か肩に力が入っていた。――とても息苦しかった。夜、灯台で星を見たらやっと落ち着いて、瞬きするのも忘れるくらい夜空へ引き込まれていく自分が心地良かった。
 「なれし故郷を放たれて、夢に楽土を求めたり」
 何故だろう。私にはこの詩(歌)が心に残っている。それより私に近いのかな。でも、私にはわかっている。私は、穂門が嫌で出て来たんではない。それどころか、私はきっと穂門が好きなのだ。でも、それを認める勇気がない。だから帰れない。
 人が死ぬのは一瞬で、どんなにいい人でも、名誉ある人でも、するべき事のある人でも死は同じで、それは命の終わりであって、私にとって悔しい出来事だった。失ってしまった大切な人の為に、自分は今まで何をした?何が出来た?悲しみや苦しみを乗り越えた人は、強く優しいと言うけれど、私は、弱い人間のままだった。耳に残るのは、最後に交わした言葉だけ。
 このあいだ始めたと思っていた水栽培のクロッカスは、日々、上へ上へと茎や葉を伸ばしている。そのまっすぐな姿を見ていると、気分がいい。花言葉は三つくらいあって、「焦燥」という意味はピンとくるけど、まだ「青春の喜び」は実感できず、「あなたを待っていますなどと言う言葉は……。
 観葉植物の世話は、花と違って、私にとって楽しい。なぜなら、花は散ってしまうが、観葉植物は生きる限り成長を続ける。花のように美しく咲くことはない。ただ、緑の小さな葉を増やし続けていく事に何故か惹かれている。もしかして「花がない」という共通点がある?
 私は、いつも明日は晴れればいいと願っています。――でも、雨が好きです。あまのじゃくですね。

生徒作文

「肉親との絆」がハッキリとは示されませんが、失った人への愛惜と後悔にも似た癒されぬ思いが、故郷の自然と二重写しになって複雑な心情を吐露しています。そんな中、越境して学びながらの下宿生活で、愛でる植物の生長に安息と癒しを覚えながら前向きに生きようとする彼女の心と言葉が行間ににじみ出て、読む者の心をしみじみと打つのです。
 
文中の、
「なれし故郷を放たれて、夢に楽土を求めたり」
とは、ドイツのロマン派音楽を代表する作曲家・シューマン(1810年~1856年)の歌曲『流浪の民』の一節です。日本語の歌詞は、石倉小三郎(1881年~1965年)による訳詩だそうです。原詩はドイツ語で「der Nil(ニール)」、つまり「ナイル川」のことだそうです。私は、教え子のこの文章を読むまで、『流浪の民』の詩を知りませんでした。その石倉小三郎の『流浪の民』の訳詞も併せて紹介して終わりたいと思います。

 「流浪の民」
 ぶなの森の葉隠れに
 宴(うたげ)寿ひ(ほがい)
 賑(にぎ)はしや
 松明(たいまつ)明く
 照らしつつ
 木の葉敷きてうついする
 これぞ流浪の人の群れ
 眼(まなこ)光り髪清ら
 ニイルの水に浸されて
 きららきらら輝けり
 燃ゆる火を囲みつつ
 強く猛き男やすらふ
 女(おみな)立ちて忙がしく
 酒を酌みて差しめぐる
 歌い騒ぐそが中に
 南の邦(くに)恋ふるあり
 悩み払う祈言(ねぎごと)を
 語り告げる嫗(おうな)あり
 愛(めぐ)し乙女舞い出でつ
 松明明く照り渡る
 管絃の響き賑はしく
 連れ立ちて舞ひ遊ぶ
 既に歌ひ疲れてや
 眠りを誘ふ夜の風
 慣れし故郷を放たれて
 夢に楽土求めたり
 東(ひんがし)空の白みては
 夜の姿かき失せぬ
 ねぐら離れ鳥鳴けば
 いづこ行くか流浪の民

石倉小三郎訳詞『流浪の民』

※画像は、クリエイター・すえぽん🍩旅と援農とドーナツさんの、タイトル「楽しんでブログを書けるのかが勝負。」の1葉をかたじけなくしました。「佐伯市の観光地」の説明がありました。お礼を申し上げます。