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No.1175 感謝教の教祖様、ふたたび

推理小説作家の松本清張(1909年~1992年)は、生涯に700以上の作品を残したといわれています。戦後、風俗小説で有名な丹羽文雄(1904年~2005年)も多作の作家でした。
 
その丹羽文雄は、1986年(昭和61年)に82歳でアルツハイマー型認知症に罹りました。すでに60代後半には、その兆候が見え始めていたといいます。私も70歳を過ぎ、あれやこれや思い当たる節があり、戦々恐々としながら生活しています。
 
随分前にTV番組でアルツハイマー病に罹った丹羽文雄を見たことがあります。とぼとぼと足摺りしながら歩く小説家の脇を娘さんが支えながら書斎に入って来ました。世に送り出した数百冊の小説がずらりと並んだ書棚の画面は圧巻でした。
「これ、みんなお父ちゃまが書いたのよ!」
と耳の傍で声をかけたのですが、当の小説家は、少し驚いたような、もの珍しそうな表情で書架に並んだ本を見つめているだけでした。すでに、呆けておられました。
 
「ファザコンです!」
と自称する料理研究家の娘さんは、献身的に父・文雄を介護しました。その娘さんが、
「父は、何事にも『有難う』『有難う』と口にする『感謝教の教祖様』と呼びたくなるほどでした」
「観音様に近づいているようでした」
と生前語っていました。強い印象を残した言葉でした。しかし、母が老人ホームに入り父が認知症となり、介護疲れやストレスのために彼女はアルコール依存症になりました。そして、父よりも4年早く2001年に病により急逝しました。

その番組は、1990年代後半の放映だったと思います。私は40歳代半ばのことでしたが、その時の番組の衝撃は、今も心に残っています。
 
「90歳になっても100歳になっても小説を書くんだ」
と意気込んでいた多産の小説家・丹羽文雄は、
①原稿用紙は手書きです。構想・構成・表現力に磨きをかけました。
②体は頑健で、ゴルフをよくしました。
③社交的で、多くの知友がいました。
④健康に気遣い、酒はあまりたしみませんでした。
⑤原稿の締め切りをきちんと守ったといいます。
 
このように、指先を使い、深く思考し、交流も広く、酒に溺れず、身体もよく動かし、脳内シナプス君は激しく活動していたはずです。どう考えてもボケないタイプだと本人も周りも思っていたことでしょう。それでも、彼は認知症を避けられませんでした。そのことが凄くショックでした。
 
古希を過ぎ、「老い」と対峙し、「呆け」に抗いつつ生きる身の私に、「恐れ」の感情はいや増します。呆けてしまえば、それが成るか成らぬか分かりませんが、
「『はい』『はい』と素直に我に従いて君はやさしく呆け給いぬ」
『平成万葉集』(中央公論新社、2009年刊)におさめられた神奈川県の77歳の女性が詠んだ歌のような世界に憧れてしまいます。
 
あの番組から四半世紀が経ちます。丹羽文雄は、人々にその生き方を問いながら2005年(平成17年)、100歳で病没しました。4月20日は、彼の祥月命日だそうです。


※画像は、クリエイター・きょうりゅうのたまごさんの、タイトル「言葉のない世界を生きている1歳児と言葉を失っていく認知症の父との間で」の1葉をかたじけなくしました。その1歳の子どもさんのために考えたひっかけるおもちゃだそうです。お礼申し上げます。