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598 二つの話が、私たちに語り掛けるものは?

フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソー(1712年~1778年)が教育論『エミール』(架空の孤児エミールを育てる教育論)を出版したのは1762年のことでした。
 
1762年と言えば、日本では江戸時代中期にあたり、伊能忠敬は17歳(伊能家を継ぎ、ミチと結婚)、杉田玄白は29歳(その9年後に『解体新書』出版)、平賀源内は34歳(その14年後にエレキテル発明)、田沼意次は43歳(その5年後に側用人、更にその2年後には老中格)といった歴史上の人々が生活していました。

さて、ルソーは、上記『エミール(上)』(今野一雄訳)第2編で、こう述べています。
「子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、それをあなたがたは知っているだろうか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。」
 
これは、「子どもをダメにする方法」の代名詞のようにして紹介されがちです。つまり、
「何でも子どもの欲しがるものを与えてやること」
だというのです。親が自分の思い通りになると誤解した子どもは、わがままになり、こらえ性がなくなり、やがては不幸を招くと言うのでしょう。
 
確かに、無理に辛抱させなくても家庭環境が許すなら叶えてやりたいとする親御さんは増えました。今日的な子育ての在り方をみると、子どものわがままに辛抱強く付き合える親が増えて来たなという印象があります。しかし、必ずしも子育てが失敗しているように思われないのは、野放図に子どもの要求に応えなかったからでしょう。
 
それでも、やはり、幼い頃からの甘やかし過ぎは、温床で育てた苗木と同じで、厳しい環境下では育ちにくいと思われます。そして、社会に出た子供は、親の過保護の元で生きるようにはいきません。子どもの頃から「思うようにならない」ことを経験する中から、自分の芯を作ることも大事であるように思います。その意味で、「何でも手に入れられる状態にしている」子育ては、やってきた未来に帰すべき子どものためにはなっていないのではないかと思われます。
 
ルソーの指摘は、西欧にのみ通じる話ではありません。甘やかされて育ち、金銭感覚に疎い二代目、三代目が憂き目を見る話は、日本でもありがちなことで首肯できるお話です。もちろん、子どもに好き勝手をさせた事だけが原因ではないでしょうが、これも等閑視できない元凶の一つでしょう。やはり、飴と鞭は子育てには必要なようです。
 
ところが、逆に、子どもに無関心であり、放任して(又は、気付いていても)悪さした子供を叱らなかったためにダメにしてしまった話があります。『天草本伊曾保物語』(イソップ物語の翻訳版、1593年刊)の中にある「母と子のこと」がそれです。読み易いので、古文のまま書きます。
 
「ある童(わらんべ)手習いにやるところから友達の手本を盗んでくれども、その母はこれを折檻もせいでおくによって、日々に筆、墨などを盗んできて、『盗みほどの面白いことはない』と思い、成人するに従うて、後(のち)には大盗人(だいぬすびと)となって、その罪が顕(あら)わるれば、守護のところに渡され、成敗の場に曳(ひ)かるるに臨うで、その母 後から泣き慕うを かの盗人声を聞いて、警固(けいご)の武士に『我が母に密かに言(ゆ)いたいことがある、側に呼うで下されい』と言うたれば、母は何心(なにごころ)も無う悲しみの涙を抑えて近づけば、『我が口へ耳を寄せさせられい』と言うほどに、すなわち耳を寄せたれば、片方(かたかた)の耳を食らい切って、大きに怒るによって見る人 各々肝を消し、『さてもあの盗人は前代未聞の奴めぢゃ、盗みをするのみならず、我が母に食らいつくはまことに畜類にも劣った』と言えば、盗人万民の中でいかにも高声(こうしょう)にののしったは、『我が母ほどの慳貪(けんどん)第一な者は世にあるまじい、我がこの分になることは かれが仕業ぢゃ、故をいかにというに、我 幼少の時、友達の手本 墨、筆を盗んでくれども、遂に一度も折檻を加えいで、そのまま盗みの癖を棄ていでこの分になった。我を誅する者はすなわち母ぢゃ』と言うて斬られた。」
 
盗み癖が高じて大盗賊となった息子は、「自分がこのようになったのは、悪さをした子どもの頃に叱ってくれなかった母親のせいだ。悪いのは母で、懲らしめられるのも母だ」と言って、母親の耳を齧り取ってしまったのです。恐るべき責任転嫁は、大人になってまで続くのです。それは、子どもの頃に悪いことは悪いと戒め、時には叱りつけて正してやる親としての育て方を放棄していた責任の重さから招いたものでしょう。互いがそのことに気づいた時には、既に最悪の結果が待っていたのです。
 
そもそも、「イソップ物語」とは、今から2500年以上も前の、紀元前6世紀ごろに、古代ギリシアの奴隷だったアイソーポスという人が、人々に語った寓話だと言われています。子育てで大切なことは何かとは、大昔からの人類共通の悩みであり知恵でした。
 
 国は違いますが、孔子も、今から2500年ほど昔の中国の思想家です。彼は弟子の子貢に
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」
と諭しました。
「何をするにも、いき過ぎると、それがどんなに良いことでも、むしろ不足したり不満足な状態と変わらなくなる」
というのです。
 
「やり過ぎず、さりとて、やり足りず」
「出過ぎず、さりとて、出遅れず」
「丁度良いのが、丁度良い」
というのでしょう。偏りのない平衡感覚は難しい事ですが、その加減はTPOによって各自が考えて実行しなければならないことなのでしょう。
 
甘やかし過ぎてはいけない、さりとて、放任し過ぎてもいけない。偏り過ぎずにバランスを保つことの大切さを、二つの話は説いているように思うのです。人類の続く限り…。