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No.1022 ワンダフルな生き方?

老人が、昼間なのに懐中電灯をともして歩いています。
「天気の良い昼間なのに、何してるの?」
と道行く人が尋ねると、
「この世は、闇じゃ!」
と答えたという哲学的な話を高校生の頃に聴いたことがあります。
 
一昨日の、大分合同新聞のコラム「東西南北」に興味深い話が書かれてありました。以下、厚かましくも紹介させていただく次第です。

 身なりにかまわず、片付けや掃除をしない家は「ゴミ屋敷」になる。そんな認知症が進行した状態を「ディオゲネス症候群」と言うらしい。ある人物の名前からとったものだが、古代ギリシャの有名な哲学者だというから驚く▼ぼろをまとい、つえでホームレスのように町をうろつく。たるの中で暮らし、コップなどしか持たない究極のシンプルライフ。昼日中にランプを灯して「ああ、『人間』はいないか」と叫ぶ。「犬の哲学者」と呼ばれたディオゲネスだ。奇行と毒舌で知られ、市民からは軽蔑の一方、畏敬の念を持たれた。アレキサンダー大王が訪れ、「何か欲しいものはないか」と問うと、権力も意に介さず「日が差さない。じゃまだからどいてくれ」。子供が水を手ですくって飲むのを見て、「そうか」と言ってコップも捨てた▼自ら「世界市民」を称す。国家や民族、伝統や習慣など社会的規範に縛られない。際限のない富への欲望を戒め、欲望に振り回されない生き方を示す。その言動は時代を超え、欲望むき出しの現代人にも刺さってくる▼冒頭のような不名誉な名前の使われ方をしているが、本人はどう思うのか。そこに見えるのは共に孤独ながら自由に生きる裸の人間である。高齢者の認知症は不幸ではなく、ある意味、髪が人間に与えた祝福だというかもしれない。(T)

大分合同新聞「東西南北」2023年10月4日の記事より

古代ギリシャ語で「犬」のことをキュオーン(kyon)というそうです。その形容詞キュニコス(Kynikos)は、「犬の、犬のような」という意味になるそうで、このキュニコスという言葉で呼ばれた哲学者が、ディオゲネスです。
 
その多くは、環境を壊さず、金銭欲や名誉欲もなく、戦争をせず、過去に固執したり迎合したりせず、自らを潔く受け容れ、命ある限り精一杯に生き、最後は静かに死んでいく犬たちです。そんな犬と人間を比較すると、
「犬の高潔さが、道徳的には圧倒的に優れている。」
と哲学者で東京大学名誉教授の一ノ瀬正樹氏は、おっしゃったそうです。
 
紀元前5世紀~紀元前4世紀に生きたディオゲネスですが、今から2,400年も前の遠い古代ギリシャの時代にも、そのように考えた一派(キュニコス学派=犬儒学派)が存在したのですね。「高潔に生きる」ことの意味を考えさせられる人物でした。真似は出来ませんが、志を持つ事なら少しは…。


※画像は、今年5月に15歳で虹の橋を渡った我が家の愛犬チョコが4歳の時の1葉です。大分の焼酎「いいちこ」のお湯割りに、鼻を近づけたシーンです。私を幸せにしてくれた相棒です。