見出し画像

僕がOkinawan Identityを獲得するまで〜①三線との出会い 

三線との出会い

1999年の1月にカリフォルニア州のモントレーに留学が決まった僕は、母の知り合いから三線を習うことにした。

小学生の頃、学校の三線クラブに入って三線を弾いてる友人を見ても、何か古くさいものというか、なんでクラブにまで入ってやりたいのかと、サッカーなどスポーツが好きだった僕は全く理解ができなかったのだが、これから沖縄を離れると思うとなぜか習いたくなった。

ちょうどその頃THE BOOMの島唄が流行っていて、僕にも「伝統文化」の三線が、少し身近に感じるようになっていたのもあるかもしれない。

先生は週に1回ほど家に来て何度か教えてくれた。
三線の弾き方や工工四(クンクンンシー)という楽譜の読み方など基礎的な事を習って、初心者が大体最初に習う曲だという安波節(アハブシ)が弾けるようにはなったことで、指の押さえ方とか音の鳴らし方がある程度わかるようになった。

母も1972年の沖縄が日本復帰する1ヶ月前、福岡に移住するとなった時に琉舞を半年ほど習ったということなので、親子似ているというか、やっぱ沖縄から出て異国に行く(当時日本に行くにはパスポートが必要だった)という事はウチナーンチュにとって自分の文化など見つめるきっかけになるのかもなと思った。

留学して一年半後に初めて帰沖した時、僕はあまりにも沖縄に飢えていた。
沖縄に帰りたくて帰りたくて仕方なかった。1年周期では帰りたいと思ってたけど、帰るなら夏に帰りたいので1年半待った(笑)

その半年が僕には長かった。
※①ウチナーガーキ(沖縄渇き)だ。
沖縄エネルギーが枯渇したみたいな感じで、高台から海を眺めてはあの向こうに沖縄がある、と海で繋がってる事に少し気を紛らわせた。

沖縄病という言葉があるらしいが、まさにそれだなと思った。

いずれ詳しく書くが、沖縄に飢えた理由の一つに、異文化に触れ、既にIdentityが揺さぶられていた僕は、なんとしても三線を持って帰る!と5~6000円くらいの
※② カンカラ三線を国際通りに探しに行ったが、コレというのに出会えず家に帰った。

アメリカに戻る前までには絶対買いに行こうと思っていたら、叔母の※③スエコおばさんが、「胴の裏の方が破れてるけどこれで良いなら」って本物の三線をくれてとても嬉しかった。

アメリカに持って帰って、酒を飲みながらよく弦をてんてんてん♪って弾いて音を鳴らした。特に何か曲を弾くわけでもなく、ただ弦を弾いて音を鳴らすだけ。
それだけで心地よく、沖縄恋しい気持ちが慰められた。



※①ウチナーガーキ(沖縄渇き)は、沖縄の事を喉が渇いたみたいに欲する事。
例えばシシガーキ(肉渇き)は肉をしばらく食べてなくて肉食べたくなってる時に使う言葉。

※②カンカラ三線は缶を胴にして作られた三線で、戦争時代に蛇革が手に入らない時代に生まれたもので今ではカラフルにデザインされたカンカラ三線がお土産として売られている

※③スエコおばさんは、YouTubeでサトウキビ刈りの動画で出てきます

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?