倉橋ヨエコで峠を越える

倉橋ヨエコというミュージシャンがいる。
いや、正確にはいた。若くして引退してしまった人だ。

音楽に詳しい人ならwikiなど見なくても知っていると思う。
でも僕は音楽に詳しくなかったので、妻に教えてもらうまで全く知らなかった。

僕と妻がまだ結婚する前、レンタカーを借りて旅行に行くことがあった。
当時(10年以上前)のレンタカーのオーディオは、今のようにBluetoothスピーカーなどついていない。CDプレイヤーだけである。
彼女はお気に入りのCDをバッグに何枚も詰め込んで車に乗り込んできた。
そのうちの一枚が倉橋ヨエコだった。

ところで僕らのドライブは北関東(栃木とか群馬とか)をグルグル回ることが多かった。
山がちの地形なので、一般道を走っているといつの間にか山道に入っていて、いつしか小さな峠を越えている。
山道を走るときはちょっと緊張する。右に左にカーブが続くし、見通しも悪いからだ。
体が右や左に揺れるGはちょっと楽しかったけれど。

どういうわけか、倉橋ヨエコは山道でかかることが多かった。
他にもたくさんのCDがかかっていたのに、山道となると倉橋ヨエコの曲になったのだ。
ジャズ基調の曲だからか、倉橋ヨエコの粘っこい声と歌い方のせいか、山道を右に左に走るときのリズムによく合った。

盗ーられちゃいましたー かわいいあの子は

こんな歌詞が出てくる「盗られ系」という曲がある。
この歌詞が『ローラー買いましたー』に聞こえるな、などとぼんやり思っていた僕に、ふと、彼女が言った。

「この主人公って女でね、”あの子”も女の子って設定らしいよ」
「え?それどういうこと?」
「だから、男にとられたんだよ」

そのあと僕は「ふ~ん」とか言って、会話はそこで終わったと思う。
今まで運転に集中していたこともあり、歌詞の内容をろくに聞こうとしてこなかった。
でも彼女に言われてから、僕は倉橋ヨエコの曲の歌詞を注意深く聞くようになった。

言えない気持ちを卵とじ お弁当に詰めまして 行こう行こう行こう ねえ 行こう行こう あの子ん家
「卵とじ」

あなたの中には2人居て 1人もあたしを好きと言わぬ
「金魚想う」

よく聞けば、思いを告げられぬ片思いの歌ばかりだった。
倉橋ヨエコの曲は、どれもアップテンポで、陽気で、声も明るくて芯が強くて。
なぜ悲しい歌詞を、こんなに明るい曲調で歌うんだろう?
曲がりくねった山道を走りながらずっと考えていたが、答えは出なかった。

横に座っている彼女は、いつの間にか眠っていた。日が傾いてきていた。
先の見えない曲がり角を何度も何度も曲がるうちに、いつしか僕のなかに切ない気持ちが沸いてきた。
ああそうか、悲しいけど、明るくふるまっているのか。「あの子」の前では明るく楽しい友達なのか、この主人公は。
それは、切ないな。
夕暮れの山道はいつまでも続いた。

それから何年かして倉橋ヨエコは引退した。
彼女は妻になった。
そして、いつのまにかレンタカーに乗っても倉橋ヨエコをかけることはなくなった。その理由は聞いたことがないし、僕も無理にせがんだりしなかった。

今でもレンタカーで山道を走ることがある。
右に左にハンドルを切って、体が揺すられるうちに、僕の頭のなかにはほぼ必ず倉橋ヨエコのあの歌声が流れてくる。
僕の脳内で倉橋ヨエコの曲と山道を走るときの体感が完全に結びついてしまっているらしい。

そんなとき、陽気なような悲しいような、切なくてそして懐かしい気持ちがあふれてきてしまう。
その気持ちをなんとかしなくてはならなくて、僕は横に座っている妻に「倉橋ヨエコが聞こえる!」と、冗談めかして話しかけることにしている。


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