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妻とピアノとミラクルロマンス

僕はピアノを弾けない。習ったこともない。

小学校のころ、学校行事の一環で学年全員で合奏したことがあった。
90人からの大合奏。普通であれば、大多数の子供はリコーダーを吹くか打楽器を鳴らすぐらいしかできないだろう。
ところがうちの小学校の音楽の先生は熱心な人で、マーチングバンドのクラブを率いてそこそこいい成績を収めていた。
つまりトランペットやらトロンボーンやら合奏映えする楽器の演奏要員は確保できる算段があった。
そこにピアノなどをお稽古で習っている子を含めれば、それなりに厚みのある楽団になる。
残った演奏できないズはリコーダーかカスタネット、タンバリンに割り当てられる。
そのとき僕は何を血迷ったか(小学校のころの僕はしばしば血迷っていたのだが)アコーディオンに立候補したのだ。
鍵盤など一度も引いたことがないのに。

一方の妻は、かつてピアノを習っており、小学校の合唱コンクールで伴奏をやるタイプの子供だったらしい。
今もときおり電子ピアノを持ち出しては、趣味的に弾いている。

あるとき僕は妻との連弾に挑戦したことがある。
といっても連弾用の曲を弾いたわけではない。右手と左手を分担しただけだ。
これを厳密に連弾というか僕は知らない。まったくピアノの経験がないので。

きっかけは、妻が連弾が好きだと聞いたことだったと思う。
軽い気持ちで一緒にやるのはどうかと話したら、思いのほか妻が喜んだので引くに引けなくなった。
とはいえ両手弾きは無理なので、何かの曲の右手と左手を分担しようということで話がついた。
そして選んだ曲が「ムーンライト伝説」だった。
僕もなじみのある曲が良いだろうとの配慮だ。妻に付き合ってセーラームーンのアニメを観たので。5シーズン201話ほぼすべて! そう、妻はセーラームーンのファンである。
そして、旋律よりは簡単だろうということで、僕が左手パートを担当することになった。

未経験者には何もかも難しかったが、特にやばかったのが「ミラクルロマンス♪」のところ。
音が行ったり来たりしながら徐々に駆け上がっていく上に、黒鍵が混じる。他は二音の繰り返しだから覚えればなんとかなるが、ミラクルロマンスは指の可動範囲が広いのでいつも小指がひきつる。
『ミラクルロマンスはやばい』これはピアノ未経験で「ムーンライト伝説」を弾いた人あるあるだろう。誰かと共有したい。

それでも一週間ぐらいやっていたら、テンポは怪しいもののキーは間違えずに押せるようになった。

正直よくやったと思う。

僕はピアノなどの鍵盤楽器に強い苦手意識があった。
あの大合奏の練習時、アコーディオンの練習をしている僕のところに、音楽の先生がやってきた。
「あなたは打楽器にうつりなさい」
五線譜と鍵盤の対応関係すらおぼつかない、運指がどうとか以前のレベルの楽団員を先生はよしとしなかった。
あのままやっても本番までにうまくできるようにはならなかったと、自分でも思う。
しかし当時の僕にとってこの「左遷」はかなりショックなできごとだった。練習中にその可能性すら見限られた、それほど見込みがないのだ、と。
それ以来、僕は鍵盤楽器に苦手意識を持ち、鍵盤楽器を弾きこなす人にコンプレックスを持ってしまった。

そのコンプレックスがより強固になったのは、小学校の合唱コンクールである。必ず一人、ピアノを弾ける子が伴奏者になる。僕にとっては、クラスで唯一歌わず、その演奏を披露することが許されたピアニストである。特別な、選ばれた存在に見えた。
他のどんな楽器も、学校でこれほどわかりやすい形で能力の有無が示されることはない。ピアノが弾けないということは、木琴が弾けないことやフルートが吹けないこととはわけが違う。ピアノを弾けることは特別に良いことで、弾けないことは特別に良くないことだと、僕はより確信を深めていった。
(もっとも妻、合唱の伴奏を「やらされる」当事者にとっては、あれは良くない思い出らしい)
そんな僕が左手パートのみとはいえ一曲分ピアノを練習できたのは、妻への責任感と、喜んでもらって点数を稼ぎたいという気持ちによるものだったろう。

ワンコーラス通してできるようになったので妻と合わせてみた。
音を合わせるのは楽しかった。間違わないようにとのプレッシャーこそあったが、それもネガティブなものではない。
さんざん練習したので自分の担当分の音のイメージが強い。そこに妻のパートがかぶさってくると、知っている曲なのに意外な感じがする。でも不快ではなくて、調和しているため心地よさが勝つ。伴奏パートを強く意識しながら弾くから、よく知っている曲なのに新鮮味がある。
ピアノを、鍵盤を弾くのが楽しいと思った。

今でもコンプレックス自体はあるし、その裏返しでピアノを弾ける人をうらやましいと思う。ただ、前よりは苦手意識はなくなった気がする。
なぜならピアノが弾けない人から、「ムーンライト伝説」の左手パートのみ弾ける人になったからだ。

[妻とピアノとミラクルロマンス]


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