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【短編小説】 ミルクティー

私の日常。
それは時計の秒針が進む音と、キーボードを叩く音だけが響く無機質な世界。
顔を上げると私以外に誰もいなかった。
私がこの世界に存在する意味はあるのだろうか。
ふと、そう思ったとき急に可笑しくなって一人声をあげて笑った。
乾いた笑い声はこの世界の中に、すぐに溶けて消えていった。
「どうでもいいよ」
私は誰もいないその場所で、誰かにささやくように呟いた。
椅子にかけていたジャケットに袖を通し、くたびれた革のカバンを持って、無機質な世界から退場した。
外に出ると、車のヘッドライトと行き交う人々が賑やかに街を騒がしていた。
さっきとは違う、鮮やかな色があちらこちらで弾ける世界。
私は一本の細い線を引くようにその中へと入っていく。その線は決して交わることはなく、私が通った後にはすぐに他の色で塗りつぶされる。
この世界に私の色をつける場所はない。そもそも私自身が何色なのかもわからない。私は鮮やかな色をした世界から段々と遠ざかり、暗がりへと歩をすすめた。

電車に揺られて自宅の最寄り駅まで帰ってくると、そこにさっきまでの賑やかさはなく、濃淡のない暗い色のみが広がっていた。
私は何も考えずにいつも通りにその中を歩いた。
自宅まであと少しのところで、ポツンと佇むレトロな建物が目に入ってきた。住宅街に似つかないレンガ調の壁に、緑の葉を下げた蔦が地面から二階の窓まで張りついていた。
「こんな建物あったけ?」
建物の存在にも驚いたが、それよりも私はその建物が放つ色を不思議に思った。
その場所は、異色の外観をしているのに無色だった。
この暗がりの中で唯一、色が無くただそこに存在しているだけの建物。
私は興味のままにその建物の方へと向かっていった。
重い扉を開くと、中にはテーブルが三つと四人がけのカウンターが並んでいた。カウンターの中にはおじさんともおじいさんとも見てとれるような、マスターらしき男性が一人でカップを磨いていた。
「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」
私は言われるがままにカウンターの一番奥の席に腰掛けた。
カウンターの上にはメニューが置かれていなかった。私は周りをキョロキョロと見渡したが、壁や他の席にもメニューらしき物は見当たらなかった。
「あの、ここは……」
私が声をかけるとマスターはカップを磨きながら答えた。
「何にもないし、なんでもある」
要望があればなんでも出すという意味なのか、私は少し困惑した。
「じゃあ、オススメを一つ」
私がそういうと、何も答えず無表情のまま何かの準備をし始めた。
しばらく待つと、目の前に湯気が立ったティーカップが置かれた。中身の色と匂いから察するにミルクティーのようだった。
「ここに来る人はね、みんな『オススメをください』と注文するんだよ」
マスターの声は低く落ち着いていて、安心感のある声だった。
「ここのオススメはミルクティーなんですね」
「そういうわけじゃない。その人が今望んでいるものを出すのさ」
そういうとマスターは再びカップを磨きはじめた。
普段ミルクティーを飲むことは滅多になく、特段好きでも嫌いでもなかった。そのため、今の私が望んでいるというのはわからなかったが、せっかくなのでカップを手に取って一口すすった。
「……美味しい」
ボソリと呟くと、マスターはわずかに微笑んだ気がした。私は温かいミルクティーをゆっくりと一口ずつ飲んだ。
しばらくすると、カップを磨く手を止めてマスターが言った。
「人はさ、忙しい日常の中にいるといつのまにか忘れてしまうんだ」
私は少し間を置いて尋ねた。
「何を忘れてしまうんです?」
「色んなことをだよ。それらは全てどうでもよくて、そして大事なものだ」
マスターの言葉の意味がわからなかった。
「どうでもいいのに、大事なんですか」
「そう、どうでもいい。でも忘れてはならないんだ」
それは私に向けた言葉のように感じた。
けれども、それが何であるかはわからなかった。
「なぜ、忘れてしまうんでしょうか」
マスターは微笑みながら答えた。
「そんなの簡単さ、どうでもいいからだよ」
論理が破綻しているように思えるマスターの言葉に、私は苛立ちを覚えた。
しかし、マスターの微笑む表情とその雰囲気には言葉を成立させる妙な説得力があった。
「どうでもいいのに、それが大事だというのが納得できません」
私は少し反抗するように、ぬるくなったミルクティーに目線を落としながら言った。
「どうでもいいからこそ、だよ。そこに気づいたときに初めて ”本当に大事にしたいこと” がわかるのさ」
「どうしたら気づけますか?」
「もう気づいてる」
私は思わず、え?と声に出してマスターの顔を見た。
「あなたは気づいてる。僕からしたらここで出すものは、味なんかどうでもいいんだ。飲食店のマスターが言うことじゃないけど」
そういってマスターは、入り口の扉に掛かった看板を指した。そこには ”CLOSE 23:00" と書かれていた。気づけば中に入ってから一時間も経っていた。
私は残ったミルクティーを口に流し込み、「ごちそうさまでした」とお礼を言ってカバンから財布を取り出した。
すると、マスターはカウンターから出てきて私に向かって言った。
「お代は大丈夫。それより、ミルクティーは美味しかったかい?」
「はい、とても」
微笑んだマスターは "手を出して" と私に言った。私が指示の通りに手を前に出すと、その手の中に何かを握らせた。
「はちみつのキャンディだ。よく眠れる」
マスターの言葉で、最近は何だか寝付けない日々が続いていたことを思い出した。
私は受け取った小さな黄色の包み紙をポケットにしまい、ペコリとおじぎをして店を出た。
自宅までの色が何だか、いつもよりほんの少しだけ明るく感じた。
家に帰り着いた途端に私は急激に眠くなり、貰ったキャンディを舐める間もなく、ベッドに沈み込んだ。そしてそのまま人生で一番深い眠りについた。

翌朝、私はアラームが鳴る前に目が覚めた。とても長い間眠っていたような、不思議な感覚だった。
私は昨晩の出来事を思い返してみたが、どうも現実味がなく夢でもみていたのではないかと思った。
シャワーを浴びて身支度を済ませた私は、いつもより少し早めに家を出ることにした。そして昨日入ったお店の場所を改めて確認しに行った。
自宅から数分のその場所には、確かにレンガ調で蔦に覆われた建物が佇んでいた。
「夢じゃ、なかったんだ」
呟いた私は、夢ではなかったことに何故か少しガッカリして、駅に向かって歩き始めた。
歩いている途中で、道路の脇に咲いた黄色いたんぽぽが目に入った。
ハッとなった私はポケットを弄った。しかし、昨晩手渡されたはずの黄色の包み紙に入ったキャンディはどこにも無かった。
「やっぱり、夢だったのかな……」
私は訳がわからないまま、再び駅までの道を歩いた。
駅に着くと自販機の前に立ち、いつも通りにエナジードリンクのボタンを押そうとした。そのとき、一つ下の段にミルクティーが並んでいることに気がついた。
私は少し迷ってミルクティーのボタンを押した。
ペットボトルの蓋を開けてミルクティーを飲んでみたが、やはり特別美味しくは感じなかった。
"味なんかどうでもいいんだ"
私は昨日のマスターの言葉を思い出した。
「昨日飲んだミルクティーはあんなに美味しかったのになぁ」
そう呟いた瞬間、私はふと気がついた。
昨日美味しいと感じたのは、忘れていたからだ。私にとってミルクティーの味なんぞ、どうでもいいことだから。
「どうでもいいこと、けど大事なこと……」
私は口に出して唱えたあとに、ふふっと笑った。
そしてスマホを取り出して会社宛にメールを送った。
”本日、お休みいただきます。”
私はスマホをカバンにしまうと、来た道を再び歩いて自宅へと向かった。
いつも暗い色の一色にしか見えなかった世界は、鮮やかに輝いていた。

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