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舞台上の見えない何か 星組「VIOLETOPIA」

 4月初旬、星組公演「RRR/VIOLETOPIA」を観劇した。ショー「VIOLETOPIA」は演出家指田珠子の大劇場デビュー作である。彼女は、これまでに「龍の宮物語」(星組)、「冬霞の巴里」(花組)、「海辺のストルーエンセ」(雪組)を手がけており、私はどれも映像で拝見した。

指田珠子の作家性


 彼女の作・演出作品を初めて見た時に受け取った印象は、既存の「宝塚らしさ」から少しずつはみ出していこうとする姿勢だ。特に「冬霞の巴里」でのおどろおどろしく大胆なメイクには驚かされた。スターが派手なメイクを施すことがあっても、それは顔を華やかに見せることが第一の目的であることがほとんどである。もちろん毎公演、役に沿ったメイクを施すが、一見美しさとはかけ離れたようなメイクがされているのはあまり見たことがなかった。衣装にもこだわりが見られた。先に挙げた小劇場の3作品とも、衣装には贅沢に布が使われている。柄物のプリントや刺繍、さまざまな生地の重ね。これらは耽美な印象を与えるとともに、指田珠子にしか出せない世界観を演出した。

 また、以上のような視覚的なイメージのみならず、ストーリー展開にも独特の性格がある。血縁のしがらみやそれによって生まれる愛憎をテーマに、舞台となる年代の社会状況(「龍の宮」であれば飢饉、「冬霞」であれば貧困の中の無政府主義)を背景に展開するストーリーは、耽美さや抒情性から一歩離れ、現実を内包っする。宝塚歌劇の作品では、よくフランス革命のような歴史上の出来事が素材として用いられるが、その多くが物語を形成するための単なる一要素(つまり都合の良い道具)として扱われる中、指田珠子作品では社会への批判的な視線を垣間見ることができ、そういう面でも新しさを感じる。

 宝塚歌劇の作品は、基本的に座付きの演出家によって制作されるため、同じ演出家の作品を複数観劇するとその演出家の個性というものが見えてくるものだ。しかし彼女の作品の場合、1作見ただけで強烈な個性が浮かび上がってくる。もちろん、他の演出家の作品からも個性は感じられるが、彼女の作家性は目に見える形ではっきりと表出し、強く印象に残る。

 この作家性が大劇場作品ではどのように表出するのか、そしてそれは宝塚らしさからはみ出していく姿勢のあらわれなのではないかという問いと期待を胸に東京宝塚劇場へと向かった。

「VIOLETOPIA」を見る

 さて、「VIOLETOPIA」は期待通り、はたまた期待以上の作品だった。

 まず、オープニングからこれまで観劇したショーと出演者の身体の使い方が違うように感じた。ゆったりとした動きだが、「GRAND MIRAGE!」(花組)の陶酔を誘うような動きともまた異なり、まるで誰かに操られているような「心ここにない」ぎこちない動きだ。今作に限らず、指田珠子作品の登場人物はまるでフランスの球体人形のようである。彼女たちは宝塚のスターとして立っているというより、スターを演じている操り人形のように見えた。

 冒頭でそれが示されたことで、以降のシーンも全て「誰かに操られている世界」であると私は認識した。出演者、裏方、演出家をも超えた目に見えない何かが舞台を突き動かし、舞台上の喜びも悲しみも全て俯瞰している。そのことを最も強く感じたのが第7場、舞台上にはただ一人礼真琴が残り、それまでショーに登場した他の人物たちが残像のように消えたり現れたりする。最後にはスポットライトの下で各々が、各々のパートを踊る。ここで出演者たちは、観客のために踊っているというよりかは、見えない存在の視線の下「再生」されているようである。狂乱の後のひんやりとした感触を味わった。

 そして何より、これは演出の範疇外かもしれないが、最後パレードで最初の集団が大階段を降りてくる際、階段から舞台上にまで長く伸びた出演者たちの影が忘れられない。2階席から眺めていると最初の方は出演者の姿が見えず、ただその影だけが細く伸び、それが何とも恐ろしく、舞台を支配する「見えない存在」が一時目の前に現れたかのように錯覚した。

 「VIOLETOPIA」には副題として「レビューシンドローム」が付いている。TOPIAはユートピアでもあり、ディストピアでもあり、その世界は依存症をも引き起こす。いわゆる「ヅカオタ」の舞台に対する病的なのめり込み方を客観的に見つめた作品とも言える。そして、舞台上では光と影が表裏一体であるということも示している。しかし、宝塚という舞台の影の部分が大きく表面に出たこの時期に、このような内容を上演することの危うさは否めない。影の部分をショーで取り扱うことでエンタメとして昇華させてしまうことの危うさである。自己批判的な構造を持っている作品であるからこそ、そこはエンタメとして扱ってほしくないという気持ちがあるが、少なくとも私は(演出家自身に対する報道も踏まえた上で)モヤモヤとした感情が残ったことは確かだ。

 今後、彼女がどのような作品を生み出していくのかは分からないが、作家性の際立つ演出が今後の宝塚の作品全体への新しい刺激となることを期待すると共に、演者とスタッフたちを尊重した作品作りをしてほしいと思う。


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