冬と海

青磁色の岩絵の具をビンから取り出し小皿に移す。ひやりとした実習室の空気に鼻先がつんとする。色落ちした桜の葉が風に吹かれて心なしか寂しい気持ちになる。他の学生が誰もいない午前七時。ひとりで小皿に膠を垂らし指先で絵の具と混ぜる。来週提出の課題に取り掛かろうとしていた。

 大学に入学して初めて日本画に触れた。絵を描くことは好きだったのだが、目標としていた大学には入れず、京都の山奥にある芸術学部に入学した。最初から日本画を描きたかったのかと聞かれれば違うと答える。試験の結果が思わしくなくて仕方なく入ったのだ。それでも課題の提出は迫ってくるし、志望校に入りなおす気力もない。卒業後の目標が定まっていないから先のことはわからない。大学生活に絶望して辞めたくなるほどのきっかけもない。だから講義を受け、課題を提出して単位を取る。よくもなくわるくもなく、平凡な大学生を続けている。

 筆を持ちデッサンから描き起こした作品に色を塗る。西芳寺の苔だ。先生の紹介で特別に写生をさせてもらうことができた。見学に事前申し込みがいるところだから、じっくり描くことができたのは幸運だった。そよぐ風、鳥のさえずり、枝葉の間から差し込む光。それらが頭の中で再現できれば準備は完了。あとは指先が線を描き弧を伴って和紙にあのとき記憶した色彩を呼び覚ましてくれる。

 筆を持つと思考は一旦外に追いやられる。その間に誰かが頭の中に入ってきて、さらさらっと丁寧に色を塗っていくのだ。すべての作業が終わるまで紙の上で何が起きているのかわからない。その誰かが終わったことを報告してくれるまでは。

 色を塗り終え、ふと時計に目をやる。八時を過ぎていた。一息つく。この作業を繰り返し、夜の九時頃までやる予定だ。食堂が開く時間になるのを待ってから朝食のために席を離れる。道具を整理して、ツナギにこびりついた絵の具を見てそろそろ洗濯の時期かと思う。扉の開く音がして実習室に人が入ってくる。西川和美。同級生で人一倍熱心に絵を描く。大体、俺か彼女のどちらかが朝一番に実習室に来る。今日は俺の方が早かったのだ。彼女は俺がいることを確かめると、やれやれという顔をして言った。

「私の負けね。ラーメン奢るわ」

 彼女とは賭けをしている。朝、実習室に入り先に来ていた方の顔を見て、相手よりいい絵が描けると思わなければ負け、描けると思えば勝ち。今日の俺は淀みがなく、大胆な構図を難なく描ききる尾形光琳と寸分違わぬ精悍な目付きをしていた。と言ってもそんなもの自身でわかるはずもなく「今日のあなた、本物の光琳みたいよ」というよくわからないお世辞を彼女から聞かされたからだ。

「いいからラーメン奢れ。もたもたしてると孕ませるぞ、この豚野郎」

 もちろんその瞬間に彼女の拳が飛び、視界が真っ白になって痛みと罵声でことごとく弱気になってしまうのだった。ジョークだよ、ジョーク。ごめんやで。俺のラーメン。

「朝からくだらないこと言わないでよね」

 俺を鉄槌で打ちのめした西川は怒りが収まらないといった様子で、コツコツとヒールの先で床を叩く。朝からやりすぎたと反省する。

「ごめんて。ほんと、ただの冗談だから。なんならこっちがラーメン奢るから」

「もう。さっさと行きましょうよ」

 ヒールには白い小さなリボンがアクセントとして付いている。西川は男勝りな性格だけれど女の子らしいかわいさも持ち合わせているのだ。本人は気づいていないだろうけど、周りからはガーリーな人物として理解されている。その証拠にほら、今日だって襟元にフリルが付いている。

「なにチラチラ見てるのよ。食堂、行かないの」

「今日もおしゃれだねー。ニコニコ」

 ありったけの笑顔、それとちょっとの羨望を含めた調子で褒める。

「なにそれ。ほんとに思ってるの?」

 機嫌が直るなら安いもんかな、と思ってでまかせを言ってみる。いや、嘘。ごめん。さすがにそこまで性悪じゃないです。いつ見てもおしゃれだし、そのセンスに感服する。洋服から鞄から小物まで何もかもがバランスよく調和して西川を輝かせているのだ。どこで買ってるんだろう。ま、それはいいか。

「サマンサタバサ」

「はぁ、何?」

「なんでもないよ。もごもご」

 小声でつぶやいたブランド名はハズれたようだ。他に知ってるのはマリー・クワントくらいだけどそれは西川の趣味じゃない。同級生であそこまでファッションに気を使う人物はいない。

 パステルカラーのコートにピンクのプリーツスカート、ライトグリーンのストッキング姿で、くるくる巻いた髪はハチミツみたいに恍惚としている。おまけに頭にはちょこんとティアラが乗っている。どう考えたってあの見た目は墨や絵の具にまみれて作品に向き合う格好には見えないのだ。俺なんか毎日ツナギだヨ。ところが一転、見た目に反して作品の質は高い。どこまでも古典を守り、その枠を飛び出そうとしない。西川の場合はモチーフから技法まで、何もかもが江戸時代と変わらないのだ。人間て不思議だね。

「ほな、いこっか。ラーメンはんが待ちわびてはるわ」

「その似非関西弁やめなさいよ。なんか胡散臭いんだけど」

「そんなことあらへんよー。バイト先の店長に習ったもん。ほんまもんの関西弁やぁー」

「あなた実家、東京でしょ」

「うん。あきる野」

 ほらね、と得意げな顔。

「せやかて姉さん、そらないわー」

 そんな冗談を言いながら実習室を後にする。途中でクラスの何人かとすれ違う。「課題進んでる?」なんて、挨拶もそこそこに大学にやってくる学生の流れと逆方向に歩く。毎日のことなので意識しなくなったけど最初は俺らだけ変な人たちみたいに見られてたっけ。朝の九時から食堂に行く人はいないからね。手? 繋いでないよ。べ、別に付き合ってるわけじゃないんだから!

「友達だよ」

「なんか言った?」

「いやいやなんでもない。気にしないで」

 俺は読者であるあなたに語りかけることができるのだ。物語の中にいるけど、そちらに声をかけられる。

「前から思ってたんだけど」

「うん」

「たまに変なこというよね。誰もいないのに勝手にしゃべったり」

「そんなことあったっけ。ちなみにさっきの話は西川には内緒ね」

「ほらそれ! 完全に独り言の域を越えているわよ。ほんとは頭おかしいんじゃないの」

「大丈夫だよ。読み書きとツイッターくらいはできるし」

「そんなの私だってできるわ。そんなことじゃなくてもっと根本的な。たとえばこの世界の根幹に関わることよ」

「コンカンニカカワルコト?」

「なに日本語がわからない外国人みたいな反応してるのよ。根幹に関わることよ」

「たとえばどんな?」

「たとえば」と言って西川は黙る。言葉を探す。

「私たちは水族館の魚みたいなものなんじゃないかって」

「魚」と俺はつぶやく。

「水槽の中で私たちは泳いでいて、それを外から見てる人たちがいるの。面白がったり声をあげたり水槽を叩いたり。でもこっちからは向こうが見えないのよ。マジックミラーになってて。で、私たちはその水槽から出られずに一生を終えるの」

「なるほどねぇ」気のない返事をする。

「でね、あなたは向こう側と交信できる人なの。他にもいるのかも知れないけど、今のところあなた以外にそれができる人を見たことがない。って気がするわけ」

 西川の指摘は当たっている。俺はこの物語を読んでいる誰かに語りかけることができる。

「要するに俺の独り言は向こうに対するメッセージだと?」西川は頷く。「考え過ぎだよ」

彼女は眉をしかめる。家の中でどこのドアを開けるのかわからない正体不明の鍵を見つけた時のように。

「自身の疑問として社会の構造やあらがえない矛盾に向き合うのはいいことだと思うよ。ラスコーリニコフみたいに」

「だれそれ」

「ヒーローの名さ」

 食堂入り口のガラス扉は大きく開かれ、サークルの勧誘ビラがあちこちに貼られていて、公務員試験とか資格試験に向けた対策講座の案内が並ぶ。清掃人のおばちゃんがバケツやモップを携えてトイレの中に入っていく。朝の食堂は誰もいない。トレーを取り並べられた小鉢からほうれん草の胡麻和えとさばの味噌煮を選ぶ。西川は豚肉と大豆の炒め物と白いご飯、それと春雨サラダ。

「ラーメン、シルブプレ」

 小遣いをせびる子供のようにわざとらしく西川の前に立ちはだかる。

「わかってるって。待ちなさいよ」

 そう言って調理場に向かってラーメンひとつ、と声をかける。はーい、と返事がある。何気なしにラーメンが出てくるのを待っていると調理場から怒声がした。

「だから、ちゃうやん! そこで海苔を入れたらあかんねん。おまえの頭、死んどるんちゃうけ」

 見ると食堂の長と呼ばれる四〇歳ほどの男が俺と同い年くらいの男に辛らつな言葉を浴びせていた。

「新人かな。あのバイトの子」

 スキンヘッドでピアスを開けている。そりゃまぁ調理場に似合わない風体だ。どうなるのかと見ていたら長が彼を殴りつけやる気がないなら帰れどあほう、と叫ぶ。うちの大学ってあんなにハードボイルドだっけ。事の成り行きが気になってラーメンどころではない。西川も目が点になり唖然としている。そしたらどこからともなく「いい加減にしなさい、この馬鹿チンが!」と長を非難する言葉が飛んでくる。声がする方を見る。レジの前に置かれた招き猫だった。

「だからダメだって言ったでしょ」

 猫さんは自分が招き猫かどうかなんてお構いなしに当然の如くべらべら喋る。どうなってるんだ。

「いつまでそんなやり方を続けるの! そのバイトさんは物覚えが悪いのよ。私はずっとここから見ていたからわかるの。何度も根気よく粘り強く教えてあげなきゃ出来るものも出来るようになりゃしないわよ。いい加減にするにゃん!」あらやだかわいい。長はそれを聞くと、しゅんと大人しくなる。

「ほんなこと言うたって、あかんもんはあかんやん」

 長はぶつくさつぶやいていたけれど思い直したようにバイト君の肩に手をあて「すんまへん」と謝った。

 その言葉は謝罪の気持ちなどまったく感じられないものだったけどバイト君は長の気持ちを感じ取ったようだった。

「なんか、丸く収まったみたいね」

 西川が言う。確かに二人は手を取り合って楽しそうに玉ねぎの皮むきを始めた。あまりに睦まじく見えたのでちょっと仲間に入りたいな、と思い始めた矢先。猫が言う。

「あなた達、いいバイトがあるんだけどやってみない?」

 あーあ、なんか不吉な感じ。

 人生を振り返ってみても取り返しのつかない問題は経験してないし、救いようのない明日が始まるのを震えながら待ち続けることもなかった。それだというのに目下これから起こるであろう大事件に臆病になっている。

 手順はこうだ。時間厳守で深夜二時に宝ヶ池から北山に抜けるキツネ坂に歩いて行き持参したチクワの穴に割り箸を通して少々のカラシを塗って歩道に置いてから大きな声でおーいチクワだよと東の山に向かって合図するとボヘミアンという喫茶店で働く山口という女性が木々をかきわけて降りてくるので彼女にお待ちかねのチクワですよとリッツ・カールトンで勤務して七年になるベテラン配膳員のような丁寧な物腰とおもてなしの心を感じさせるホスピタリティ全開の給仕で割り箸を持ち上げ一口食べさせてあげるのだけどその際にやってはいけないことが二つあってそのうち一つが彼女の目を見てはいけないということで理由は恥ずかしがりやで人にチクワを食べているところを見られると無性に追い詰められた気持ちになり逆上して相手を殺してしまうからなのだけどそんな危険な相手にも臆せずに箸を持ち続けることが生きてお家に帰る秘訣であるらしいよもうひとつは山口さんの体に触れてはいけないということなんだけどそれっていうのも彼女は全裸で山から降りてくるのであっちからそっちまで男にとっては嬉しい丸見えの状態らしくて体から放つ匂いが甘いバニラエッセンスと変わらなくてチクワを食べさせているうちになんだかエッチな気分になってきて見るべき場所をガン見してしまいそのうち我慢ができなくなってそっと手を伸ばしてあっちをなぞってしまいそれが祟って彼女があぁん声を出してなんだかその気になってきちゃってチクワがどんどん短くなっていくのを眺めてるうちにあ! 触っちゃダメなんだったって思い出すんだけど時すでに遅し山口さんもその頃にはどんどん乗り気になってきちゃってチクワを食べたあとに物欲しそうに何かを探し始めてもうそうなっちゃうとあれだよね自分のチクワもパンパンに膨れ上がってて今にも緊急発進する勢いでスクランブル待ちの状態になってるわけだから発進しちゃいますかせっかくだしってズボンを脱いではいどうぞってなことになるのが当然なのですがそれをやってしまうとゲームオーバー山口さんにパクッとやられてあそこから血が吹き出して絶命ですよ死ぬんです。

 招き猫が言ったのはそういうことだ。もちろん西川は女だからMyチクワがないんだけど女の場合は山から清水という男が降りてきてチクワを食べさせてくれるらしい。それがとてもおいしくて病み付きになってしまうので注意しなくてはいけないのだ。でもなんでチクワ?

「チクワは我々猫にとっての好物であるだけでなく異界とこちらをつなぐための儀礼に使われる神具のようなものだにゃん」とのことでどうしても必要であるらしい。

 西川はそんなおかしなアルバイトをやる意味がわからないと言って断ったので俺が引き受けることになった。そりゃそうだ。見ず知らずの人にチクワ食べさせるのは百歩譲って頑張るとしても見ず知らずの人のチクワを食べるのは俺だって嫌だ。

「無理。意味がわからない。招き猫だからってなんでも許されると思ったら大間違いだかんね」

 やかんから湯気がでるほどの怒りを見せ付けた西川は招き猫を持ち上げて叩き割ろうとしたんだけど俺とスキンヘッドのバイト君に寸前のところで制止される。命からがら俺の手の中で一命をとりとめた猫はしっぽを丸めて完全に彼女に白旗をあげた。

「ごめんにゃん」

 ちなみにバイト君はそのバイトに挑戦した経験を持つ猛者だった。あと一秒遅かったら全て失っていたそうだ。なぜだか突然に母親の顔が思い出されエッチな気分が失せてしまって助かったのだ。それを聞いて安堵すると同時に戦慄する。もし母の顔を思い出してもエッチな気分が消えなかったらどうしよ。大事なものを失うだけじゃなくて親に対する抱いてはならない感情が沸き起こっていることの証明になってしまう。

「気をつけるにゃんよ。山口さんは対象者の記憶を掬い取り母性を最大化して母親の顔に変わることもあるし変わらないこともある」

 どっちかわからないけど怖い。俺は極度のマザコンじゃないはずだけどどうなんだろう。お母さん教えてよ。

「ラーメンできたー」

 調理場から声がする。そういえば腹が減った。

「最後にこれだけは言うわよ。あなたが山口さんの誘惑に勝てたら進級できるのよ。三回生に」

「……進級」

 いや、進級が危ういわけではないし、そんな危険を冒してまで手に入れるものが進級だなんてちょっと悲しい。

「なにかの間違えだよね」

 確認すると招き猫はやはり間違えていたようでお詫びと訂正を行った。

「ごめんにゃん。誘惑をやり過ごせればもとの世界に帰れるにゃん」

「もとの世界?」西川が聞く。

「そうにゃん。あなた達はこの世界の住人ではないのよ。向こうの世界からこっちに迷い込んだ不思議の国のアリスなの。カワイソス」

「私の考えてることは間違ってなかったのね。どうも変だと思ってたのよ。この大学に入ってから世間の感覚とはズレてきてる気がしてて。だって卒業後の進路で六割が不明っておかしいじゃない!」

 たまたま通りかかったキャリア支援課のおじさんが耳をふさいで去っていく。

「ねぇ、帰りましょうよ。私たちの世界に」

 なんだか全てが嘘っぽい。これって夢かしら? でも西川の涙は本物だ。

「就職したいのよ。私だって」

 涙ぐむ彼女を崖から蹴落とすようなことは言えない。ここは奮起して山口さんと一戦を交える覚悟を決める。

「連れて帰るよ。老害を蹴散らそう」

 なお、老害という発言に深い意味はなく、本文との関連性も低い。ここでは便宜的に老害という表現を用いているがその真意は読者を楽しませたい並々ならぬ思いと語呂のよさを考慮した結果であることをご理解頂きたい。

「ありがとう」

 女性の涙は強い。すっかりその気になってしまった俺はローソンでチクワを買った。餞別として招き猫が首から下げている鈴をくれた。

「無理っぽかったらこの鈴を鳴らすにゃん。何かが起きるにゃん」

 鈴だけじゃ不安だからもしものためにナイフを買った。自宅アパートの前で練習と称して振り回していたら警察が来て騒動になってずいぶん長い時間拘束されて辟易した。警察の人ってどうしてあんなに頭が固いんだろう。こっちの言うことを何にも聞いてくれない。山口さんなんていないって言うんだよ。そんなわけないのにね。

 どきどきしながら時計を見る。午前 一時三〇分。そろそろ出かけよう。あー、そういえば今日は課題が進んでないや。全部招き猫のせいだっっ!

 国際会館を通りすぎて宝ヶ池プリンスホテルの灯りに出くわしたあたりで先に進むのをやめた。アパートを出てから肩に重いものがのし掛かっている気がしたし、底冷えの京都でひときわ厳しい岩倉の寒風がやる気を削いだ。

 これから何をしようとしているんだろう。

手にはチクワと割り箸が入ったビニール袋。西川にカッコつけた手前、やるしかなくなってしまったのだ。もちろんカラシも買った。あとは招き猫から教わった手順で山口さんを待つだけなのだ。しかし次の一歩を踏み出す左足が出ない。完全に止まってしまった。

 もとの世界に帰るってどういうことだろう。

この世界はこの世界だし俺はこの世界で生まれた。そっちに言葉を投げかけることは出来るけどそれ以上のことは何もない。そっちの世界にいたのだとも思わない。西川と招き猫の壮大な妄想に乗り掛かってとんでもない茶番に付き合うことになったのではないか。自問する。

「今日って四月一日だっけ」

 スマホを見る。ばっちり一二月一二日 午前 一時四五分。なんてことない。ただの金曜日だった。

 ラインが来た。

「やっほー。今どんな感じ?」

 クソ寒い深夜に何を馬鹿げたことをやっているんだ。とふと思う。あいつはエアコンのついた部屋で森永ココアを飲んでいるに違いない。インスタグラムでも見ながら。ちきしょーおしゃれだな。インスタ。早く登録しなきゃ。

「キツネ坂に向かってる。寒いわー。トンネルの手前まで来たよ。もう少し」

 簡単な嘘をついてポケットにしまう。それから考える。

 山口さんなんているのか。

 それにもとの世界にどうやって帰るんだ。山口さんが案内してくれるとでも言うのだろうか。全裸で山から降りてくる怪しい女にそんな大役は任せられない。隙を見せたら食われそうだ。第一あの招き猫は何なんだ。なんで招き猫が喋ってるの? みんな普通にしてたけど異常だ。本来なら我先にと写メしてツイッターにアップするだろう。招き猫が喋ったwwwと。間違ってないよね? 今は何でもシェアする時代だって池上さんが言ってたし。まぁいい。事実は小説よりもなんとやらだから招き猫が喋ることもあるだろう。ここは京都で鳥獣戯画が描かれた場所だから古来からおかしなことに馴れているのだ。誰も驚きやしない。こんなところにいたらおかしくなりそうだ。

 諦めず浪人して東京藝術大学に行けばよかった。なんたってあそこは首都であり頂点なのだ。日本における芸術の中枢。やはり夢を諦めるべきではなかった。岡倉先生、許してください。京都の端で燻ってるなんて情けない。もっと絵を描かなくてはいけない。

ラインが来た。

「頑張ってね。信じてるから。こっちは落ち着かないので半身浴してまぁす」

 腹が立ってきた。こっちは死ぬかもしれないのに呑気なやつだ。怒りはあらぬ方向に飛び火した。操縦士が消えたジェット機のように制御不能になって言うことをきかない。例えば性欲としての応酬だ。帰ったらあいつでマスターベーションしようと誓う。絶対に。

 シチュエーションはこうだ。舞台は高校で俺は教師で西川は生徒。放課後の教室で始まる密のふれあい。あいつは言う。先生、もうやめて。制服を汚さないで。替えがないのよ。なんちゃって。いや待てよ。これはもう飽きた。次は西川が母親で俺が息子になろう。ばぶばぶおっぱい欲しいでちゅ。お母さんばぶばぶ。うふふふ。これでいこう。気づくとすっかり足取りは軽い。あっという間にトンネルを抜ける。やっぱりいいよね。母性ってやつは。そういえばお母さん元気かな。ずっと会ってない。それはそうと少子化なんとかしたいなー。俺でよければ全力で手伝うのに。

 悶々とした気持ちが頭を支配していることを悟ったときには既に囚われていたのだ。甘い香り。バニラエッセンス。きた。と、思う。強烈なる甘美。鼻を塞いでも口を塞いでもとどまることのない匂いが進入してくる。気体とは思えないほどの厚みをもって周囲を深い香りで沈めている。息を呑む静寂。人通りもなければ車も走っていない。彼女の領域に近づきつつある。さっきのエロスは山口さんの放つ匂いのせいだったのだ。ヤバイ、お母さんのことを考えてしまった。

 ふと思いついて来た道を振り返る。消えていた。道路も街路樹も街灯も何もない。地続きのはずがすっぱりと切断され背後には断崖が広がっていた。もう後戻りはできない。

 チクワを袋から取り出しゆっくりと割り箸を通す。手が震える。カラシを塗る。いっそのことチクワが見えなくなるほどベタベタに塗ってやろうか、と思う。それを見た山口さんは言う。

「ちょっとー、やめてよこんなの。辛くて食べられないじゃないのぉ」

 なんてケラケラ笑ってくれたらどんなにいいだろう。

「チクワはだめになっちゃったけど連れてってあげる。帰りたいんでしょ、もとの世界。私ってけっこう親切なんだよ」

 なんて言ってくれたらどんなにいいだろう。そこそこのハッピーエンドだ。もとの世界とやらに帰るかどうかは別にしても。

 どれくらい塗ればいいのかわからないので常識的な範囲に留める。多いことに文句を言う人はいるけど少ないことに不満を言う人はいないはずだ。できた。歩道に置く。

「おーいチクワだよ」

 そのまましばらく待つ。

 ……。

 何も起こらない。

 ……。

 あれ、あれって。

 ……!!

 木々が揺れて人影が現れる。掻き分けて降りてきたのだ。間違いない。山口さんだ。招き猫の言った通り体を隠すものは何もない。すらりと伸びた手足に白い肌。肩まで伸びた髪は赤茶色で乳房は大きく腰回りはくびれている。まつげは上を向き目はきれいな二重瞼。輪郭は成熟した女性を思わせるふっくらとした面長で鼻は日本人のそれとは大きく違う。高くて細い。尻は肉付きがよく垂れておらず陰毛が薄いため歩くたびに陰部が目に入った。端的にいって申し分のない美しさだった。

 想像と違う。もっと化け物みたいな人物を想像していたのだ。でも現れたのは全裸の美女であった。彼女は何も言わず近づいてきて目の前で歩みを止める。目のやり場に困ることはない。恥ずかしげもなく裸体を晒す潔さと非を感じさせない素振りに惹きこまれる。その美しさから目を背けることができない。見惚れてしまう。

 彼女は膝をつき、俺を見上げる。目玉は茶色い。白目は濁りのない新雪を思わせた。舌を出して下唇を舐める。動物が獲物を仕留め、これからかぶり付こうとするときの仕草。濡れた唇に月明かりが反射して宝石を散りばめたように光る。誰に言われるでもなく割り箸を持ち上げ差し出す。

 彼女は顔を傾けて齧る。その食べ方は繊細で様々なことに注意を払っているように見えた。チクワは少しづつ減っていく。その様子から目が離せない。しかし見てはいけないのだ。見ると殺される。一流の画家の筆さばきが美しいように彼女の食べ方もまた美しい、それ自体が芸術に思える。一瞬だけ動きが止まる。俺は直感で死を想像する。やはり見てはいけなかったのだ。

 彼女の背後に蠢く影がいた。細かな黒い砂鉄が音もなく高速に動き、何者かになろうと形をつくっていたのだ。顔のような部分には目玉がぎょろりとこちらを睨む。咆哮が轟いた。叫ぶと同時に目を閉じる。その行動は正しかったのか、閉じたところで間に合わないかもしれない。持っていたチクワを落としそうになる。まわりを何かが取り囲みぐるぐる回り始める。それは首筋を通り抜け、足首に纏わりつき手首を冷たくした。見てはいけなかったのだ。

 だんだん息が苦しくなる。喉の奥が痛む。内側から締め付けられていく。万力が取り付けられた感覚だ。ぎりぎりと締め上げが行われる。鈍痛に耐えられない。楽にしてほしい。次第に考えることができなくなる。失敗したのだ。単純な言葉が浮かぶ。この世を構成する最小限の言葉。苦しい。美しい。苦しい。美しい。苦しい。美しい。

 さよなら。 

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