静かなる夏

完全に好みのタイプだった。黒髪に白い肌に薄い唇、化粧気がなくて目はつり上がり気味で珊瑚みたいに儚い指先がヨーグルトを持ち上げてレジ袋に入れる。仕事帰りのいつものコンビニ。俺は天使を見つけてしまった。

「お弁当は温めますか?」

偉そうにふんぞり返りながら俺の仕事にケチをつける課長の声とは大違いだ。壺の中で喋ってるようなくぐもった不明瞭なトーンにうんざりしていた最悪の一日を吹き飛ばす癒しのささやき。

「弁当はいいから、疲れた俺を温めてください」

思わず出そうになった言葉を押し止める。新しく入ったアルバイト。昨日までのおばちゃんの笑顔よりも断然いい。一言、

「お疲れ様です。今日はゆっくり休んでくださいね」

なんて付け加えてくれたら小麦粉とか日焼け止めクリームとか必要ないものだって買う。お釣を受けとるときに手が触れた。マシュマロみたい。もう、あれだ。この数分間で明日も頑張れる気力が湧いてきたし、売上に貢献するためにプレミアムビールを一本多めに買う。読まないと思ってた新聞だって買ってもいい。なんならオーナーに頼んで時給をあげてもらう交渉だってする。

そんな俺の盛り上がりをよそに女は電子レンジから取り出した弁当を袋に入れて、ありがとうございますと言う。袋を受け取りちらりと女の顔を確認する。目が合った。胸がざわつく。透き通る瞳に吸い込まれそうだ。まつげが宙を舞う蝶のように羽ばたく。俺はこの女に心を持っていかれそうになる。

去り際に頭を下げて自動ドアから外に出る。腕時計は十時を過ぎていた。これから飯と風呂、それからテレビを見て寝る。明日も仕事。こうして家と会社の往復でなんとなく歳をとっていくのだ。自宅に続く平坦な道を歩く。最寄駅から歩いて十五分。毎日歩く。駅に駐輪場がないから歩くしかない。それに駅から離れると家賃が下がるから多少の我慢をしている。いくつか不満はあるけれど俺はこのあたりが気に入っている。駅の近くはショッピングセンターやカラオケ店が昼でも夜でも人を集め騒々しい。歩道に溢れる人間は歩くのに邪魔なのだ。急いでいるときや疲れているときに横一列で歩かれたら迷惑だ。でも駅からしばらく歩けばそんなことはなくなる。

人がまばらになっていく景色を見るのが好きだ。自宅に近づくと公園があり街路樹が増え、道幅は広がる。問題は自宅前の道路だ。交通量が多い交差点に抜ける道として車がひっきりなしに通り深夜には暴走族が駆け抜ける。それだけじゃない。初めに比べれば馴れてきたが夏になると公園に若者が集まってきて花火をしたり明け方まで騒いだりするのだ。でも学生時代は俺も似たようなことをしていたから仕方がない気もする。騒音に悩むと言ってもカーテンを閉めてベットに潜り込めばやり過ごすことができるし、引っ越すほどのものではないから住み続けている。

 入居者用ポストが並ぶ中から自分のポストをあける。目新しいものはない。一人暮らしの男に届くものなんて宅配ピザとブランド品の買い取り、デリヘルのチラシくらいだ。それらをまとめて床に置かれたポリバケツに捨てる。みんなが捨てるものだから中にはチラシの山ができていた。何だってこんなゴミをポストに入れるのだ。何日か放っておくと開けたときに雪崩のように襲ってくる。そうならないように毎晩ポリバケツに移す。世の中には頼んでないのに余計なことをして仕事を増やす連中がいるのだ。

鍵を開けて中に入る。散らかった靴を蹴飛ばして場所をあけ、スーツを脱いでネクタイを外す。寝巻きや飲みかけのペットボトルと昨日の弁当容器がそのままになっていて片付けなくてはと思う。もし俺にさっきのアルバイトみたいな彼女がいて、家事をやってくれるなら生活が潤うはずだ。休日にまとまった洗濯をして掃除をしているうちに夕方になることもない。その時間になれば出掛けるなんて面倒だからベランダでビールを飲むだけで一日が終わる。そんな休みが楽しいと思うか? 合コンやら婚活パーティに顔を出すのに疲れたし学生時代の友人はとうの昔に家庭を持った。三十五だ。あと一ヶ月で三十五。買ってきた弁当を食う。噛んで飲み込むだけ。味なんてない。安い油とプラスチックの匂い。口直しにヨーグルト。捨て忘れていた容器と一緒に処分してから風呂に入る。湯船に浸かって天井を見上げてぼんやりする。鏡に映る姿を見て腹が出たと思う。そりゃそうだろう。米と揚げ物しか食べてない。みすぼらしい体を洗い、後退してきた髪を洗う。安い石鹸とシャンプー。リンスは切れた。風呂からあがり冷蔵庫からビールを取り出す。

ふとアルバイトの女が頭をよぎる。

店の制服から伸びた柔らかそうな腕、少し太い眉に整った輪郭。耳を羽毛でくすぐる声に電子レンジを操作するときに見えたうなじ。なだらかに盛り上がる胸の膨らみ。堪らなくなってヨーグルト容器をゴミ箱から取り出す。それを見ながら自慰をする。女が取り扱った容器を擦り付け、レジの光景を思い出す。無理やり服を脱がせて下着をずらし壁に両手をつかせる。後ろから突き上げて存分に楽しみ熱くなった下半身を女の口にねじ込んで丁寧に頭を撫でてやる。

舌が絡み付く様は兵士の緊張を解こうとする淑女の奉仕だ。女はみずから腰を動かす。脚を広げて激しく求める。導かれるままに硬直した一部が何度も女を打つ。乳房と割れ目が交互に俺を刺激して沸き上がる情事が頂点に達する。瞬間、粘液を放つ。ヨーグルト容器に注ぎ込む。血管が脈打ち体液のぶんだけ容器が重くなる。照明を反射して上澄みが光り混じることない臭気が鼻をつく。俺は無気力になる。嫌気がさして無惨な気持ちでゴミ箱に捨てる。ぬるいビールを飲んでくそったれと呟く。気づけば日付が変わっていた。

白い雲がビル群を覆う晴れた日。空気は軽く、吹き抜ける風が頬をからりと過ぎていく。午前の仕事を切り上げ昼飯を食べに出た。いつも一人だ。連れだって出ていく同僚からは付き合いのわるいやつだと思われている。俺は他愛もない会話が嫌いだ。旅行の話や競馬の話なんか面白くない。出かける予定はないし賭け事はやらない。仕方なく話を合わせるのは神経をつかうのだ。それでも大体の人間は楽しそうに振る舞う。飽きずに同じ面子が肩を揺らして定食を掻き込む。その無意味な付き合いが嫌いだから一人で外に出る。飲食店が集まる地下街。小さな沖縄居酒屋に入る。カウンター席は埋まっていたので個室に通される。そこにはすでに人がいて俺は見ず知らずのサラリーマンと向かい合って座る。相席は避けたいのだが今日ばかりはどうにもできない。店員がいなくなると向かいの男が口を開く。

「混んでますね」

男は突然と話しかける。豚のしょうが焼きを箸でつまんで一口かじり白米を食う。噛みながら俺を見る。奇妙に思いつつ返事をする。

「そうですね。混んでます」

俺はこの男を知らない。道を聞かれることはあっても相席したときに話しかけられたのは初めてだ。

「ここはいい店なんですよ。しょうが焼きがうまい。食べたことありますか」

ある、と答える。ここは付け合わせのキャベツもうまいのだ。見た目から想像するに男は二十代で俺よりも若い。額が狭く、眉との距離が極端に短い。指が二本入るかどうかだ。目や鼻や口が中央に集中していて顔のパーツが真ん中に吸い寄せられた造りをしている。整髪料をべったりと塗りつけ柑橘系の香水をしていた。店員が注文を取りに来る。豚バラ定食を頼む。店員が持ってきた水を飲む。

「よく来るんですか」

俺が尋ねると男は答える。

「週に三回くらいですね。それ以外は彼女が作った弁当を食べます。毎日のように外で食べると飯代がかかりますからね」

そう言ってまばたきをした。

「あなたは?」

「俺は週に一、二回です。あとは他の店に行きます。ここはなんたって安いからいいですね」

男は頷く。箸を持ったまま汁椀を持ち上げる。

「安くてうまいことは重要です。サラリーマンは大変な仕事だからしっかり食べなくてはいけない。戦うためには栄養が必要だ」

 男はそう言ってしょうが焼きを頬張る。

「仕事は忙しいですか」俺は聞く。

「忙しいです。それと同時に気持ちが滅入ります。上司につつかれお客に責められる。各所の食い違いを取りまとめ、誰も損をしないようにしなくてはいけない。それは難しい仕事です」

男はどうしたものかと首を振り味噌汁を飲む。ワカメを啜る。

「そちらはどうですか」

俺は質問に答える。

「似たようなものです。仕事は忙しい。そして給料は上がらない。めでたく上がれば税金も上がる。収入が増えても取られる金は増えるんです。おかしな世の中ですよ」

「まったくです」

豚バラ定食が来る。丁寧に皿に盛られた旨そうなテカり。横に添えられたキャベツに胡麻たれがかかっている。このたれが特に好きなのだ。キャベツから始めて次に味噌汁。それから豚バラに箸を伸ばし、米を食う。男はしょうが焼き。喋るのをやめて食事をする。店ではラジオが流れていた。夏にぴったりの曲をリクエストして欲しいとDJが陽気な調子で話す。俺も男もどちらも喋らなくなったのでラジオから流れる曲に耳を澄ます。先に食べ終えた男は手拭きで口元を拭う。水を飲み俺を見て言う。

「またどこかで」

立ち上がり去っていく。俺はさようならと言う。男が残したら皿を見る。きれい平らげ米粒ひとつ残っていない。俺は食欲がなくなっていることに気づく。まだ半分も食べていないのに奇妙な男のせいで昼飯が台無しだ。人間が食事をした後とは思えない整然とした食器を眺める。機械が一定の作業を正確に手順通りに完了させたようにそれらは目の前に置かれている。神経質な人間が得意とする、はみ出すことを排除する強固な姿勢がそこにあった。またどこかでと言われたがどこでだろうと会いたくはない。俺は会計を済ませ店を出る。男を思い出すと微かな震えが背中を走った。

会社に戻り広告代理店が送ってきた資料に目を通す。うちの会社が秋に売り出す炭酸飲料のキャンペーン提案だ。それを精査して、売り上げ目標が実現できるかを考える。予算と商品特徴、打ち出したいイメージは事前に伝えてある。メールに添付されたファイルを開く。

コンチキ飲料株式会社様 『超ド炭酸ゼット』販売キャンペーン

青色の帯に白文字でそう書かれている。あらかじめ伝えた内容が盛り込まれた企画コンセプトの文面、消費者の傾向。ターゲット層である十代の中高生向けにキャラクターを作り、ツイッターと絡めるらしい。他社の類似キャンペーンでの実績と今回の効果予測。なかなか景気のいい数字だ。俺の仕事は内容確認と代理店との調整。社会的に好ましくない表現や自社の印象を悪くする要素が含まれていないかを留意する。それだけじゃない。社内のデサイン部に連絡をして会社のカラーや指針から外れていないかを聞き取る。キャラクターが着ている洋服や表情ひとつを決めるにもしかるべき手順を踏まなければ先に進めないのだ。だが、どれだけ頑張ってもキャンペーンの成功なんてやってみないとわからない。俺が考えた所でどう転ぶかわからないのだ。さらに言えば新商品の売れ行きは俺の仕事とは関係ない。味がよければ売れる。不味ければ売れない。それだけだ。仕事だからやめたくなってもやめられない。広告予算を使わなければ仕事をしていないと思われてしまう。ちゃんと宣伝しないから売れないのだ、という会議での野蛮な指摘を回避するための言い訳をこしらえているにすぎない。そもそも秋に売り出して売れるのか? 売れるわけがない。炭酸なんて今日みたいな夏の暑い日に飲むものだろう。まったくどうかしている。でも開発担当者は言う。売れないのは商品のせいではない。市場がまだ成熟していないからだ、と。まったく、どいつもこいつも人のせいにしやがる。そいや俺もそうか。仕事なんて結果よりも働いている姿を誰かに見せるためにやってるんだよ。みんな。

「おい、岡崎」

課長が呼ぶ。俺は返事をする。

「おまえ、あれ見た? 飲料動向」

「まだです」

「なにやってんだ。仕事をしろ仕事を。おまえ、一番そういうの大事な時期なんじゃないの」

いちいち気に障る言い方をする。俺は仕方なく、はいと返事をする。

「けっこう次の炭酸、販売に力を入れてるからさ。コケると空気わるくなっちゃうわけ。わかるだろ?」

ちゃんと読んどけと言われたので入り口近くの棚に置かれた『月刊 飲料動向』を手に取る。特集、健康飲料の衝撃。近年の健康志向の高まりを受けて、お茶やカロリーオフ飲料が台頭。若年層の減少に伴い炭酸飲料の販売額が低下している。今後は消費者がより健康志向に傾くものと思われるため、これまでの常識に捉われない新商品の開発が求められている、だそうだ。この状況で炭酸飲料を売り出して売れるのか。違う、売れるようにするのが俺の仕事だ。それをおまえはわかってない、と振り向いた先でこちらを見つめる課長の視線がそれを物語る。わかりました。やりますよ。

俺は背筋を伸ばし、仕事に取りかかる振りを見せる。でも頭ではコンビニの女のことを考えていた。

珍しく早く帰れたのだ。パッケージのリニューアルを進めていた商品が無事に生産体制に入り一区切りついた。俺は晩飯を買うためにコンビニに寄る。昨日の女はいない。レジにはオーナーのおやじが無愛想に立つ。弁当に飽きたのでカップ麺を選んでいたときだった。奥にある通用口から女が出てきた。私服だ。黒のレギンスタイツにベージュのハーフパンツ、薄手のパーカーを羽織り花柄のシャツを着ている。焦った様子でおやじに頭を下げる。

「本当にすみません、今後は気をつけます」

「まぁ、入ったばかりだからいいけどさ。急な事情でも途中で抜けると他のアルバイトさんに迷惑だし、私もすぐに来れるかわからないから。気を付けて」

礼を言って女は足早に店を出る。深刻な表情。ただならぬ光景に興味がわく。時計は八時前。急いで帰る時間じゃない。女は交差点で信号待ちをしている。俺は女が気になる。何もやましいことはない。自動ドアが開き、俺は外に出る。信号が変わり女が小走りにバス停に向かう。その後ろを追う。バス待ちで十分。到着したバスに乗り込む。香水やタバコのにおい。

仕事帰りのサラリーマンや学生で込み合う車内。女は後ろの席に座る。俺は通路に立ち、景色を見るふりをしながら女を窺う。スマホを握ったきり顔を上げない。何かを熱心に打ち込んでいるようだ。職場までは電車通勤だからこのバスがどこに行くのか知らない。時折、運転手が停車を告げる。バス停に留まるたびに人が乗り込んできて窮屈になる。誰も聞いていないアナウンスが流れる。十五分くらい走った所で女が立ち上がる。通路に並ぶ乗客をかき分け運賃を払う。俺もそれに続く。

知らない街。飲み屋や飲食店がなくて静かだ。降りたのは俺と女だけ。すぐ早足で進む女に着いていく。ずっと後ろを歩くと警戒されてしまうから時折立ち止まり距離をあける。女は俺に気づいていない。バス停から三分ほど歩く。四階建てのアパートの一階。鍵を開けて部屋に入る。俺は建物を眺める。新しい。敷地内に駐車場と駐輪場があってランエボが一台、自転車が四台停めてある。これからどうしようか考え始めた矢先、男の怒鳴り声がする。外にいても聞こえる大きさに身をすくめる。女の入った部屋からだ。はっきりと聞き取れる声で口悪く罵る。

ふざけるな、殺してやる。

状況が飲み込めないまま騒ぎが収まるのを待つ。ところがそんな気配はない。一方的な男の声が響く。いい加減弱り果ててきたとき、玄関扉に何かを叩きつける音。女が叫ぶ。

助けて。やめて。

繰り返される衝撃音。俺は何を見ているんだ? どこにでもある変哲もない扉。おかしな所はない。普段なら気にもとめない扉の向こうで何かが起きている。まわりに人がいないか確かめる。夜の住宅街。外灯の明かりに羽虫が飛び交い人の姿はない。衝動的に女が危険に晒されているのだと感じる。このまま何もしなければマズいことになりそうだ。警察。いや、でも俺は女と関係がない。どうする。なんて言えばいい。通りかかったらアパートの部屋から男女の争う声がした? 女が襲われている? どう説明したらいい。女はどうなる。俺はどうしたらいい。

偶然バスに乗り合わせたんだ。

俺はそう言い聞かせる。たまたま乗ったバスで知らない街に降りて飽きるまで歩いただけ。カップルの痴話喧嘩だ。警察を呼ぶなんて大げさ過ぎる。時間が経てば自然に終るし警察が入れば二人の関係が今より悪くなる。そうに違いない。無関係の俺が首を突っ込むべきじゃない。歩いた道を引き返す。遠くでセミが鳴いていた。

何も起きないはずだ。ニュースになるような事件が目の前で起きるわけがない。駅で見かける酔っ払いの騒ぎと同じ、その瞬間だけの衝突だろう。気にすることはない。一度だけ振り返る。耳の奥を突き刺す怒声と叫びが消えている。

俺は家に着くなりテレビをつけた。報道番組を順番に調べて何も起きてないことを確認する。よかった、何も起きていない。自分の判断が間違っていなかったことに安心する。カップルの喧嘩に警察を呼ぶなんて馬鹿な真似をしなくてすんだ。腹が減っていることに気がつく。まだ何も食べていないし、急いで帰ってきたので何も買ってない。だがまた外に出る気にもならない。なんだか疲れてしまった。つまみにしようと買っておいたチーズが残っているのを思い出す。冷蔵庫を開ける。アルミ箔に包まれたチーズが三つ残っていた。あとはパンがある。朝食にしている食パンを焼き、ジャムを塗る。間に合わせの夕食だ。

テレビを見ながらパンをかじりチーズを食べる。飲み物を用意するのを忘れていて急ぎでコーヒーを入れる。台所にはコーヒーカップが二つある。ひとつは俺の、もうひとつは別れた女のものだ。付き合ううちに二人の習慣を作ろうという話になり毎朝コーヒーを飲むことを提案された。コーヒーは仕事中に自販機で買うことはあったが毎日は飲んでいなかった。習慣と言えるものがなかったから丁度いいかと思い、コーヒーを飲むようになったのだ。なぜコーヒーかと尋ねたことがあった。精神を安定させる効果があると言う。他にも疲労を取り除いたり集中力を高めたりするらしい。確かにいい香りがする。俺はすっかりコーヒーが気に入り、淹れたての匂いが気に入っていて立ち上る湯気と二人の時間を楽しみにしていた。そんなことを考えながらも目はニュースに釘付けだ。何事もなくスポーツの話題に入ったときに体の力が抜けた。自分でも思ってる以上に何もせずに帰ってきたことが尾を引いている。でもこれではっきりした。今日は眠るだけだ。

どういうわけか夢を見た。俺はベッドに寝ていて隣には犬がいた。チビという名で目覚めない俺の横にきて鼻をヒクヒクさせている。尻尾をふり顔を舐めたり乗り掛かったりして俺を起こそうとするが眠ったままだ。あまりにも俺が起きないものだからチビは諦めてどこかへ行ってしまう。チビ。子供の頃に飼っていた犬。雑種の野良で学校帰りに拾ってきた。チビが去ってからも俺は眠り続ける。次にやって来たのは理子だ。唯一付き合った女で事情があり別れた。抱き合って迎えた朝でも彼女は俺より先に目覚めてコーヒーを入れてから起こしに来た。隣に腰掛け、起きてよと俺を揺らす。でも起きない。理子は悪戯を思いついた顔をして俺に近づいて唇を合わせようとする。ところが直前で思い直して離れてしまう。ためらうように首を横に振りベッドから立ち上がって歩き始める。理子は寝ている俺に向かって何かを呟く。音が聞こえない。なんて言ったのかわからないまま理子が離れていくのを見つめる。なぜ俺は起きないのだ。理子が離れていく。早く目覚めるべきだ。早く。

打ち倒れる音がした。

理子が意識を失ったように床に突っ伏したまま動かなくなる。俺は抱き起こそうとするのだが体の自由がきかない。ベッドに視線を移す。寝ている俺は相変わらず起きないのだ。再び理子に目をやる。横たわる理子を見下ろす男の姿。こちらに背中を向けている。誰だ。男は突然理子を蹴りあげる。彼女の体が一瞬だげ浮き上がりだらりと体勢を変える。俺は声をあげる。止めに入ろうともがく。男はしゃがみそれから理子を殴る。理子は動かないし俺は起きないし俺は動けない。やめろと叫ぶが男はやめない。理子の口元を赤い液体が流れていく。璃子が壊されていく。

ふいに軽くなった体を強引に突き動かし男に飛びかかる。ふざけるな、この野郎。何をしている! 勢いに押されて男はよろめく。腕を掴んで一撃を打ち込もうと振り向かせる。男は俺だった。思わずその場に凍りつく。俺だ。理子を殴り付け蹴りをいれたのは俺なのだ。

目覚めたときはいつもの部屋だった。額に汗。エアコンが止まっていた悪い夢を見た。すぐに眠れそうにない。明かりをつける。起きて水を飲む。蛇口を捻り顔を洗う。ソファーに腰掛けて感情を落ち着かせる。

もっと理子を大事にするべきだった。

昔のことがいくつも思い出されてきてどうしようもなくなる。でもこれ以上考えるのはよす。考えすぎて眠れなくなってしまう。蛇口から水が垂れてそれがずっと続いている。自然に止まるのを待つのだが台所のシンクにポタポタと続く。よせばいいのに理子のことを考えてしまう。

俺は理子に暴力を駆使した。彼女が約束を忘れたり俺の期待を裏切ったりするからだ。指示通りに動けば失敗しないし間違いもないのにその通りにできない、やらない。そのたびに俺は彼女を諭す。ごめんねと言うのだがそのくせ悪びれもせずに同じことを繰り返すから腹が立つ。なぜラインの返事をすぐに返さない、なぜ俺の好みの服を着ない、なぜ俺を理解しようとしない。

俺と同じだけ俺を愛するべきだ。

あいつがそうであれば暴力は必要ないのに。そうせざるを得ないのは理子に問題があるからだ。俺は悪くない。あいつが切り出した別れた話まで思い出されてきて悲しい。さっき見た夢のせいだ。思い出したくないことがいくつも湧き出て制御できない。理子のこと。別れるときに理子が言った言葉。

私じゃあなたを幸せにできない。

なんだよ幸せって俺が言うことが気にくわない顔はやめてくれ、俺に不満があるならどこかに行けばいい。戻ってくるな! 理子理子理子。また眠れなくなる。理子、どこにいるんだ。お前には俺が必要だろ? 俺の他に理子を理解できる人間はいない。理子の他に俺を理解できる人間はいない。そのことを付き合っている間に悟ったのだ。俺は理子が羨ましかった。新潟で育った理子は進学で東京に出てきた。家は裕福で父親は自動車ディーラーを経営していた。庭に灯籠があるという広い家に住み、地元では有名な女子校に通っていた。そんな話を聞き、俺は自分のことを話すのが恥ずかしくなる。  

俺は中学のときに両親が離婚した。離婚のことを周囲からからかわれ苛められるようになった。母親と暮らしていたからマザコンだのバツイチだの言われるようになった。どれも子供のくだらない悪口なのだが当時はそのことで心を病んだ。意味もなく母親に八つ当たりをしたりなぜ俺を産んだのかを問いただしたりもした。結局は母親を困らせて俺もやるせなくなるだけだったのだが、それが生きていくためには必要だったし、そうすることでしか学校を続けられなかった。それすらできなければ、早々に夜の街に飛びだして生活が随分と荒れたはずた。

お母さんのせいだから。

母親は印刷会社での仕事を終えて帰ってくるなりそう言った。一人で夕食を済ませた俺は床に寝そべり龍馬が行くを読んでいた。見上げると母親は涙を流して顔は紅潮していた。俺は責める気にならなかった。離婚の原因は父親が仕事で自宅を離れることが多かったからだ。きっと俺が仕事をすることに空虚さを感じているのはそのせいなのだ。仕事のせいで個人の生活が犠牲になってはいけない。誰に教えられたわけでもないけれど母親の泣き顔からそんなことを感じた。

別れてから理子の携帯に電話をしたことが何度かあった。でもある日案内の音声が流れ、この電話番号は使われていないと言われる。これまでは呼び出し音が鳴り続けて理子は電話に出ないだけだったのに。ついに番号が変わったことを残念に思ったし見放された気持ちになってしまった。理子はなんとも思ってないのだろうか。俺から連絡があるかも知れないとは考えなかったのだろうか。でもこれは仕方がないことだ。俺たちは別れた。所持品を減らし、住むところを分け、少しずつ決別の準備をした。その結果が今なのだ。簡単に現実が変わるわけではない。俺と理子の関係が戻ることはもう二度とない。前を向くべきなのだ。

一通り考えを巡らせたら落ち着いてきた。どうにか再び眠りにつくことができそうだ。ベットに横になり時計を見る。三時だ。時間を確認したら一気に眠くなり、そのまま眠ってしまう。明日の朝にはすべて忘れているといい。知らない街で見た出来事も理子のことも子供時代のことも何もかも。電気のスイッチを切るみたいに一瞬で思考は途切れた。

翌日。雀の飛び回る音で目を覚ます。目覚ましのアラームはまだ鳴っていない。いつもより早く起きてしまった。またよくない夢を見るのではないかと疑っていたのだが何も見なかった。ただ早く起きたのは眠りが浅かったからだろうか。もう一眠りできる時間はない。ベッドから起き上がり顔を洗い髭を剃る。テレビをつけてニュースを見る。いつもと変わらない朝だ。

コーヒーを淹れてパンを焼く。ジャムを塗りそれを食べる。サッカー選手が電撃結婚した話題に始まり四国のダムが枯れかけている話、アメリカで起きた銃の乱射事件で二十人が死んだらしい。移り変わる映像。淡々と伝えるアナウンサーの声が深刻さを含んでない。彼のなかでは切迫した出来事は起きていないのだ。スタジオにカメラが切り替わる。経済産業省に勤めてから作家に転身したという男がコメントする。それに覆い被さるように落語家が喋り、アイドルがそんなの難しくてわかんなーいとおどけて見せる。俺はコーヒーを飲む。星占いを見ながら歯を磨く。二日連続で四位になる。紫の花が今日を乗りきるポイントだそうだ。次は猫。沖縄で暮らす猫を取り上げた一分ほどのコーナー。飼い主と散歩をするのが日課になっているという三歳のマル助ちゃん。青い海と砂浜。ハイビスカスをバックにマル助ちゃんの欠伸のシーンが流れて女性キャスターがいってらっしゃいと笑顔になり番組は終了。ネクタイを閉めて外に出る。

鍵を閉めようとした所で隣の部屋の扉が開く。中から大学生くらいの男が出てくる。俺は何も言わずに頭を下げ挨拶をする。続いてもう一人、さらに一人、懲りずにまた一人が出てきて全部で四人が部屋から出てくる。八畳のワンルームに男が四人だ。部屋の主は中国語で早く行くようせかす。エレベータまでの通路を俺のわからない言葉で話ながら進む。時間を気にしつつ中国人たちの歩みを見守る。エレベータを待っているあいだ中何かを喋っている。エレベータが着いて四人が乗り込み俺の入る隙間はない。早くしてくれ。一人が鞄に付けているキーホルダーに目がいく。紫陽花。花びらの間から銀色の金具部分が光る。どこで買ったのか知らないが体を動かすたびにそれが揺れてエレベータは降りていく。今日を乗りきるポイントが俺から離れていった。

駅につく。作業着を着た男の次に並ぶ。駅は混雑していてホームには大勢の客がいた。電光板には別の路線を走る電車が車と衝突したと書かれている。どうやっても定時には会社に着かない。早く起きたのにこれだ。俺がツイてないのか悪い予兆なのか判断に困る。拡声器で駅員が状況を説明する。不通が解消される見込みはないと言う。仕方なく別の駅まで行く。会社に連絡をして遅れることを伝える。遅延証明書? そうだ忘れてた。引き返して駅員から受け取りまた移動。誰もが同じことを考える。移動先の駅も混雑していてここでも順番待ちをすることになる。なんとか出社できたのは昼の二時だった。息をつく間もなく課長からの呼び出し。

「岡崎、ちょっと」

代理店が作った資料をもとにして俺が出した書類を見せられる。

「これ見てたんだけとさ、説得力に欠けると思わないか? この数字、どう思う」

正直に答える。

「難しい気がします」

「これで部長に持ってくのは無理だ。オッケーもらえると思うか。俺は思わないね。それどころか考慮漏れだとかなんとか言って突き返されるに決まってる」

なんとなくわかっていたことだ。どうしたら課長を納得させられるのかを考えなくてはいけない。そこに正解があるのかないのかは別の問題だ。正解ではなく、誰もが疑問を持たなくなる状態、それが仕事での正解ということになる。俺の提出物はまだそこに到達していない。内容を見直してみると伝える。課長は例のくぐもった声で頼むぞと言う。自席に戻りキーボードを叩いていると隣に座る山口が話しかけてくる。

「どうだった」

「やり直し」

俺は差し戻された書類を見せる。山口はそれを手に取りさっと目を通す。

「いいんじゃないの? 悪くないと思うけどな」

「こっちを変えればあっちが違う、あっちを変えればこっちが違う。それの繰り返しだぜ? いつまでやってるんだって話だよ」

山口は笑う。

「上司目線ってやつだろう」

俺はよくわからないという顔をする。「なんだそれ」

「立場が違うって話だよ。俺たちより上の人間だから見ている領域が違うんだ。諸葛亮が兵士と同じ視点で動いたらどうなる? 簡単に争いは終わりだ。全員殺されちまう」

「まぁわかるよ」

歴史好きは何だって三國志で説明したがる。世界は武将と策士で回ってると信じこんでいるのだ。俺は歴史に詳しくないから相槌はそこそこに資料の修正に取り掛かる。代理店の担当者に電話をかけ、打ち合わせをしたいと連絡をする。こっちも大変だが向こうも大変だ。いつ呼び出しの電話があるかわからない。代理店の担当者はひどく疲れているのだ。目に力が無く、髪は乱れている。ちゃんと休んでいるのか。前回の打ち合わせでやけに汗をかいていたから暑いのか聞いたらお気遣い無くと返された。エアコンを強めにつけているのに玉のような汗を拭くのは病気だろうか。俺から言わせれば仕事のやり過ぎだ。せっかくの人生を俺の父親のようにしてはいけない。仕事をすることで失うものもあるのだ。でもそんなことは別の会社の人間にわざわざ言うことではない。担当者はいつものように明るく答える。

「それでは明日の二時はいかかでしょう。こちらも資料を手直して参りますので」

「はい、それで構いません。ではお約束の時間によろしくお願い致します」

声は張りがあって健康そのものだ。でも顔色はよくない。俺が呼び出さなければ今日はさほど忙しくなかったかも知れないのだ。また顔を会わせると思うと相手に悪い気がしないでもない。世の中にはどれだけの人間が仕事を抱え込み疲れ果てているのだろうか。わかるはずがないことだが、つい考えてしまう。朝から走り回りまた忙しく過ごしてしまうことになる。唯一の楽しみは帰りにコンビニに寄ること、女の顔を見ることだ。

仕事が終わりコンビニに寄る。バイトの女に会いに行く。なぜ見ず知らずの女に惹かれて、わざわざバスに乗り家まで後を着いていったのかわかったのだ。女は理子に似ていた。横顔や姿勢、立ち昇る雰囲気が似ている。俺は理子の幻影をあの女に重ねていた。ガラス越しに女が店内にいることがわかる。中に入り雑誌を簡単に眺めて買い物かごにビールを入れる。弁当を選んで結局、冷やし中華とおにぎりを買うことにする。読まないけど新聞も買う。レジに並ぶ。先にいた老人の後ろから女を見る。

怪我をしていた。

手首には青黒いアザが広がり額にガーゼ。唇が切れて変色している。俺は自分の目が壊れたのかと思う。疲れたせいでおかしなものを見ているのだろうか。中指で目頭を押さえて少しだけ目を閉じてから開く。やはり女は怪我をしていた。弱々しくかろうじて仕事をしていた。それは使役された動物のように見えたし使い古された日用品のように見えた。

俺の中で一片のひび割れが起きる。

急激に昨夜のことが頭を駆け巡る。女の叫び、男の怒鳴り。俺はひびが広がるのを止められない。女を見ていると理子を傷つけられた気持ちになる。女が理子に似ているせいだ。女が俺の視線に気づく。

理子になんてことをしてくれたんだ。

老人が去る。レジが空いたのに気づかないまま見つめあう。

「お待ちのお客様どうぞ」

女は視線を外し俺はレジの前に立つ。

「やられたんですか」

驚いたように女は顔を上げる。

「あの、なんですか?」

「その怪我、大丈夫ですか」

「あ、はい。すみません。大丈夫です」

謝る理由なんてない。俺は誰がやったかを知っている。あんたは悪くない。

「知り合いに似ているから心配になって。それ、どうしたんですか」

女は聞こえないふりをする。アルコール購入のためのタッチパネルを押すように言う。金額を伝える。

「痛いですか」

女は一歩後ろにさがる。俺を見て不安な顔をする。目の奥に理子の表情を垣間見る。俺はわかったのだ。夢の中で理子が言ったことを。俺がやるべきことを。

「痛くないです。お金は」

「よかった」

財布を取り出す。支払いをしてレジ袋を受け取り店を出る。夜だというのに明るい。月が近い気がする。黄檗が降り注ぐ、蒸し暑い夜道を歩く。自転車で駆けていく高校生とすれ違う。風が起こり首のあたりが一瞬だけ涼しくなる。

俺は女の家に向かうバス停にいた。

この街に降りるのは二回目だ。雑踏から遠く離れた静かで落ち着く場所。レジ袋を手に下げたまま女が歩いた道を行く。喉が乾いたからビールを開ける。ぬるったらしくて飲めたものじゃない。まるで俺みたいだ。車が走る通りを右に折れ住宅地に入る。そこから坂を登ればアパートに着く。時計は九時。アパートの裏に回り、部屋の明かりが消えていることを確認する。まだ誰も帰ってない。

アパートの駐車場で時間を潰す。道を歩く人影があればすぐにわかる場所に立つ。エアコンの室外機やテレビの音がする。人の気配はない。誰もいない架空の街に来た気分だ。冷やし中華を食べる。汁を飲む。おにぎりを食べる。汗が止まらない。蒸し暑い夜の中で理子のことを考える。

彼女は俺が働いていた飲料卸会社に派遣社員として入社した。俺の部署に配属されて一緒に仕事をするようになった。最初は把握していなかったが、入社後一週間ほどで仕事ぶりが噂になった。たどたどしいパソコンスキル、書類不備や計算違いが頻発した。慣れていないからだと寛容だった周囲の受け止め方が変化したのは三週間経っても週明け提出のデータ作成を忘れるからだった。金曜までの集計を月曜の昼までに提出する、そのサイクルを守れない。主任が理由を聞く。話があちこちに広がって収集がつかなくなり、見かねた女子社員が要点を問うと彼女は白状した。期日までにできないことを知られないために忘れていたと言っていたのだ。誰もが派遣元に連絡して別の人間を頼むだろうと思っていた。だが部長が彼女の懇願に負けた。他社でも断られ続け次に行くところがないと言う。職務能力の低さは承知しているし努力しているからしばらく待って欲しいと願い出たのだ。部長は大学を出て数年の彼女に自らの娘と重なる部分を感じて強く言えなくなった。そして俺に役が回ってきた。関係ができたのはそれからだ。

「ごめんなさい」

日に何度も聞かされ、口癖なのか本心なのかわからない。俺は簡単な仕事を頼む。パソコンを使わない仕事を依頼する。経理に回す領収書の取りまとめやコピー取り、古くなった業界紙の処分、ファックス整理。雑務に徹してもらう。期待していた仕事とかけ離れた事柄に部内では疑問の声が出た。それをかわすのも俺の役目だった。

「もう少し様子を見ましょう。よくなってると思いますから」

俺だって好きでやってるわけじゃない。それなのにあいつは派遣の肩を持っていると言われるようになる。ついに我慢ができなくなり言った。

「いつまで続けるんですか」

理子は困惑した。言葉にしにくそうに一言だけ返す。

「病院に行きました。障害の可能性があると言われました」

俺はどう答えていいかわからない。社内の誰にも打ち明けていないと言う。

「時間がかかると思います。でも、希望が見えました」

俺は彼女に寄り添おうと決めたのだ。職場の外でも悩みを聞くようになる。家庭環境や生い立ち、人との関係。どんな本を読んで育ったか、好きな場所はどこか。

私が育った港町です。

年末にその一文と海を背景に小さく笑う彼女の写真がスマホに届く。翌年の週末。理子に思いを伝えた。二人で暮らし始める。より互いを知る。理子は両親にとても大事に育てられた。一方、俺にはいい思い出がない。なぜ離婚したのだ。なぜ仕事に時間を割いたのだ。それは必要なことだったのか。もっと家族でいたかった。もっと笑いたかった。もっと一緒にいたかった。

理子はいいな、みんなに愛されてる。

それを聞いて理子はありがとうと言う。俺は過去が頭をもたげる。幸せそうな理子。愛されなかった俺。だから理子には俺を愛してほしい。俺の期待する愛を与えてほしい。でもうまくいかない。理子の職場が倒産して彼女は俺の会社を辞める。それが原因で通院を放棄して治療も滞る。

「もういいのよ。疲れちゃった」

治療と再就職がのしかかる。次第に俺とのやり取りも蔑ろになる。理子は俺の励ましを聞こうとしない。投げやりになる。俺はそれが耐えられない。理子はもっと前向きな人物で困難があれば時間がかかるが立ち向かっていく性格だったのだ。俺は理子の変化に戸惑う。どう接すればいいのかわからなくなってしまう。

どうするんだよ。このままか。

私の問題なのよ、あなたは関係ない。

喧嘩が増えて聞き分けのない子供みたいな言い訳に俺は怒る。手を上げる。理子はどんどん卑屈になる。

「私の不幸が伝染したら困るでしょ」

困るって言ってよ。

自分でもどうしていいかわからなくなっていて、理子が口答えするたびにそれを封じるための暴力、暴力、暴力。理子は泣いていた。俺は理子のためだと思ったのだ。二人が幸せな生活を送るためには治療が必要だったし俺の考えを受け入れて欲しかった。それが進まないことに苛立ち、理子に手を出した。初めて理子を殴った日。俺は自分が何をしたのかを正確に覚えている。拳が理子の白桃みたいな頬に触れて、体温を感じて同時に痛みがあった。殴るほうも痛いのだと知った。骨が当たった箇所が真っ赤になるのを眺めて興奮を抑えられなかった。泣きじゃくる理子。髪を振り乱してわめく姿を眺めていた。冷静になるまでに若干の時間がかかる。腫れた所を冷やさなくてはいけないと思い立ち、冷凍庫から保冷剤を取り出しタオルで包む。理子に手渡し謝ったのだ。理子に対する暴力はもうしないと決めた。でもそれは一度だけで終わらなかった。何かの枷が取り除かれたみたいに躊躇もなく俺は理子に暴力をふるうようになる。悪いことをしているとは思わなかった。むしろ感謝されるべきだと感じていた。

俺は二人のためにやっていたのだから。一人では動こうとしない理子を俺が導いていた。導いていたのだ。そうでなければあの異常な暴力の毎日が説明できない。日に日に理子は俺に近寄らなくなってしまう。手を差し伸べるとそれを払いのけ、触らないでと言う。涙ぐむ侮蔑が俺をさらに怒らせる。俺がおかしいのか。抜け殻のようになった理子を見るのが辛くなり追い出した。理子から連絡が来ることはない。俺たちは別れた。こんな形で別れが来ることを誰が予期できただろう。理子も俺も支えあっていた。抜け落ちた部分を補完しあっていたのだ。それなのにどうだ。ちょっとしたきっかけで積み上げたものが崩れ始め、崩壊を止めることができなかった。二人は散り散りになり俺は振り返りたくない記憶が増えたのだ。理子だってそうだ。理子は悪くない。仕事に取組み、周囲の軽蔑を乗り越えようとしていたのだ。なぜだ。なぜ、俺と理子は離れることになってしまったのだ。考えれば考えるほど深みにはまっていく。俺の思いは女に向けられる男の暴力を憎む気持ちになっていく。女を救うこと。女を救うことで俺は理子を救おうとしている。

男が帰ってきたのを見逃さなかった。駐車場に突っ立ってるのに飽きてアパート前の道を行ったり来たりしていたときだ。すれ違った男が鍵を開けて入っていく。顔はよく見えなかったが確かにあの部屋だ。俺はバイトの女を不憫に思う。どんな理由が女を痛め付けるのだろう。男は女に何を求めているのだ。男が入ってからあたりはまた静かになった。女の帰りを待つ。パトカーが通りすぎる。赤色灯が家々を照らす。警察官がこちらを注目する。俺はそれを受け流す。

女が帰ってきた。コンビニで見た通り手当の跡が痛々しい。女に気づかれないように離れた位置から見つめる。肩からかけたバッグの装飾が外灯を反射する。水面を漂うルアーみたいな揺らぎと光が俺の目を刺激する。女に声をかけようか迷う。俺はあんたを助けに来た、そう言うと女はどんな反応をするだろう。早いことはわかっている。女に提示できる条件が不足している。男が動かなければ俺も動けない。助ける理由がまだ弱いのだ。俺は待つことにする。女が男に押さえつけられ、ねじ伏せられ抵抗できなくなれば十分だ。俺が女を救う。女が鍵を開けて部屋に入る。

心臓が早く動くのを感じる。呼吸が浅くなる。湿りを含んだ空気がワイシャツを通り抜け体にへばりつく。汗を拭う。俺は部屋のドアに近づく。いつ男が怒り狂い女が助けを求めてもいいように。でも悲鳴は聞こえない。雑言もなければ慟哭も届かない。何も起きない。俺は不思議に思う。待てばいい。待てばいいのだ。だけど静寂はさらに濃さを増す。俺は下唇を噛む。読みが外れた。

理不尽な暴力を期待したのだ。

男の屈折した要求が行き場をなくして女に向かうことを望んだ。女の嘆きと悲痛に支配された表情をこの目で見たい。そこから女を助けることが俺の救いになるはずだった。理子を追い立てた過去から開放されるはずだったのだ。男が女を力でねじ伏せる不条理を俺がぶち壊す、そのはずだった。でもきっかけは起きないまま外で立ち尽くす。自意識が発熱して光を放つ。飛び立とうとして地に墜落した操縦士の無念のようだ。部屋の中はどうなっている。

男と女は何をしているんだ。糾弾は女を苦しめないのか。帰るなんて嫌だ。このまま帰ったところで何があるというのだ。なにもない。俺は成し遂げなくてはいけないのだ。急に何かが割れる音がして俺の心を捕らえる。ドアに耳を当てる。中から話し声がする。それを聞き漏らさないように注意する。部屋の中で起きていることに意識を集中させる。

「なにやってんの」

「ごめん、片付ける」

「それ、前も言ってなかった?」

「うん」

「うん、てなんだよ。やっぱり謝る気ないだろ」

「そんなことないよ。ごめん」

「あ、なんかイライラしてきたわ」

俺はニヤけてしまう。出番が近づいてきた。すかさず男が凄む。よしよし。女の叫びを待つ。早く女を痛めつけるのだ。

「痛いって、やめて」

男が畳み掛ける。女は言い返す。それをドア越しに聞く。大きく息を吐く。俺は決心する。

呼び鈴を鳴らす。

部屋が静かになる。男も女も黙り混む。俺は構わず呼び鈴を鳴らす。誰も出てこない。覗き穴を覗き込む。ドアをノックする。なぜ出てこない。しばらく待ち再び呼び鈴。

ドアが開く。

その顔は忘れない。昼飯を相席した男だ。顔に付いているものがすべて中央に集まるあの男だ。男は驚いた様子で聞き取れない声あげた。俺も驚いたが引き返すわけにはいかない。おまえがやっていたのか。

「あんた、女がいるだろ」

男は突然のことでうまく対応できない。帰れとだけ言い閉めようとする。俺はドアに手をかけこじ開ける。男は力ずくで閉めようとする。女が誰? と聞く。んだよおまえ人の家になにしに来た。助けに来たんだ、女を。は? 頭おかしいだろ何のつもりだ。おまえが女を殴るからだ、殴ってない。怪我をしてる。知らねぇよ、勝手にぶつかったんだ。んなわけない。警察呼べ、警察だ。女が慌てる。俺は女に声をかける。呼ぶんじゃない、あんたをここから連れ出す。ここにいると傷つく。いい加減にしろ、とっとと帰れ。男が唾を吐きかける。俺はそれを顔に受けて酸っぱい匂いがこみ上げる。どうするの、どうしたらいいの。呼べ呼ぶな呼べ呼ぶな。呼んだよ! え、呼んだの? 俺は怯む。手を緩めた隙に男が飛び出してきて俺を突き飛ばす。負けじと奴の上着を掴み引きずる。揉み合いになりアスファルトの上を転げ回る。殴った数だけ殴り返され血が指先を染める。口が切れて頭痛がする。すべてが緩慢な動きに見える。男の一撃も激しく変わる攻守の視点もまわりの景色も何もかもがゆっくり進む。 

獣みたいに罵り合う声が響きサイレンの音がして騒ぎを聞きつけ住民が顔をだす。俺は止まらないし男も止まらない。警察官が割って入ってきて俺たちは引き離される。軍鶏みたいに首を突きつけて一触即発の緊張感。落ち着きなさいと警察官が慣れた様子で話す。俺は溜まった血を口から吐き捨て歯が折れていないかを調べる。

「頭のおかしい男だ、連れていってくれ」

男が言う。警察官は俺たちに尋ねる。通報した女はどこだと聞く。視界に女はいない。こちらを注目する人だかりの中にもいない。女はどこだ。消えてしまった。男も女を探す。

「あれ、あいつどこだ」

「電話しろよ電話」

俺が言う。

「くそ、なんて日だ。警察に突き出すからな」

そう言って男は部屋に戻りスマホを取ってくる。

「出ないぞ、なにやってんだ」

男は何度も電話をかけるが繋がらない。警察官が無線でこちらの状況を伝える。曇った声が無線機から聞こえてくる。一息つくと無性に喉が渇いた。俺は男に水をくれと頼む。女は帰ってこない。どこにいった。警察官が二人、手分けして別々に話を聞く。俺はどこから話そうか悩む。初めてここに来たときのことをどう話す。女の帰りを待っていた理由をどう話せばいい。説明に詰まり向こうを伺う。男はすらすらと言葉が続く。俺を指さし事情を訴える。それを聞いて警察官は頷く。正反対に俺はまったく答えられない。免許証を取り上げられ凶器がないかを問われる。そんなものはない。俺にあるのは理子への償いと暴力からの開放だ。でも話しが進まず俺は交番に連れていかれる。

「どうしてこんなことしたの?」

警察官に問われて俺は答える。

「昔の彼女に謝りたかったから」

警察官は理解できないと言った。あんたは疲れてるんだろうともう一人の警察官が言う。おかしい。こんなはずじゃなかったのに。俺は一日を振り返る。もっと言えばここ数日のことを思い出す。コンビニで女に出会い、理子を想い、男を打ちのめすために待ち構えていた。どこで選択を謝ったのだろうか。警察官に促されてパトカーに乗ろうとしたときにスマホが鳴る。知らない番号からだ。

「いま電話、大丈夫?」

理子。耳から入った声は瞬間的に懐かしい気持ちにさせる。忘れるはずがない。理子から連絡が入ったのだ。何度電話をかけてもでてくれなかった。ついには番号まで変わってしまった理子から電話がかかってきたのだ。これはチャンスだ。すれ違ってねじれてしまった俺と理子の関係を修復して、やり直すチャンスがやってきた。舞い上がった俺は男の方を向いて勝ち誇った表情で手を振り返事をする。女が消えた男をみじめに思う。俺はお前とは違う。俺は理子に選ばれたのだ。この電話がそれを証明している。

「ゆっくり話がしたい。迎えにいくよ、どこにいる?」

「怪我をした女の人が来たの。あなたに連絡しろって言うの。それでね、」

電話が切れて理子はそれ以来電話にでない。男が俺を見て笑う。警察官がアクセルを踏み入れパトカーは走り出す。

「間違えを正すには後悔することだよ。計り知れない後悔と向き合わなきゃ駄目だ。彼女もそれを望んでるんだろう」

ルームミラー越しに警察官が言う。聞きたかったのはそんな言葉じゃない。掴みかけた物は遠くに消えてしまったのだ。理子の声が耳に残る。俺は警察官に返す言葉が見つからない。黙って外を見る。窓ガラスに映る顔は夢でみた理子を蹴りあげた俺の顔そのままだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?