【短編(ドラマ)】すりきずが治るまでに
「体育のソフトボールで飛び込んで擦りむくなんて、情熱的ねぇ」
保健室の中、池下先生がコロコロと笑いながら私の腕に大きな絆創膏を貼ってくれた。先生は長髪を後ろで結んでいてメガネをかけている。そして少し甘い匂いがする。
「先生、消毒はしないんですか」
「このくらいの擦り傷なら、ちゃんと水洗いすれば大丈夫。消毒しちゃうと逆に治りが遅くなるからね」
「ふーん……。じゃあ、これで終わり?」
池下先生はニコッと笑顔で頷く。どうやらもう退室するしかなさそうだ。
丸椅子から立ち上がり、扉の前で深くお辞儀をして、その姿勢のままチラリと先生の顔を窺う。笑顔のまま、こちらを向いてくれていた。
「失礼します」
保健室の扉を閉めたあと、私は廊下でしばらく呆けていた。もっと長く話したかったし近くにいたかったけど、その術がなかった。
私は先生のことが好きだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ファーストフード店で、清美がハンバーガーを貪りながら冷淡な表情を私へ向けた。コーラで口の中のものを胃に流し込んで、彼女は人差し指をピッと前に出し、言い放つ。
「和葉はカワイイんだから、男子の方に目を向けるべきだと思うけど。池下先生は結婚してる……しかも女の人だよ? かなわない恋というか、なんというか」
「そんなの分かってる。別に付き合いたいとかじゃないの。ただの憧れ」
清美は椅子にもたれ、口をまっすぐにして鼻を鳴らした。
「まさかワザと……、ボール捕る時に飛び込んだんじゃないでしょうね」
私は右肘の近くに貼られた絆創膏を見た。少しだけ血が滲んでいる。腕を動かすと患部がピリピリと痛んだ。
「さあね。でも飛んだ時にほんの少しだけ、怪我したら保健室に行けるって思ったかも」
「それは重症ね。腕の怪我より、和葉のハートをケアしなきゃ」
「無理だよ、そっちの怪我は治る気がしないもん。入学してすぐに先生を好きになって1年以上、ずっと傷口が開いたままなんだから」
私たちはほぼ同時に溜息を吐いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
来週はインターハイの予選だ。私は1500メートルと3000メートルに陸上部の代表として出場する。
運動場のトラックに沿って走っていると、校舎の脇から池下先生が歩いて来た。
「よっ、傷はどうだい?」
「まだ1日しか経ってませんよ。治るわけないです」
先生は「そっか、そうだよね」と言って無邪気に笑った。その笑顔を見るたび、私の心臓はおかしな動き方をする。きゅっとなったり、ドクンと高鳴ったり。
「明日さ、3時間くらい空けてくれないかな。もし大会の練習で忙しいなら、また今度でも……」
「大丈夫です! 土曜日だから練習は午前中だけなので、午後は空いてます!」
ついつい食い気味に答えてしまった。でも何の用事だろう。
「なら、明日練習が終わったあと、保健室に来てほしい。キミを連れて行きたい所があるのよ」
そう言って軽く手を振り、踵を返して立ち去る。私は呆然として、その場に立ち尽くし先生の後ろ姿を見つめていた。
夜、頭の中がグチャグチャになり、朝方まで寝付けず。
右腕の擦り傷がジクジクと痛みを放ち続けていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午前中の練習が終わり、学生服に着替えて保健室の扉をノックする。すぐに出てきた池下先生は、人差し指で車のキーをクルクルと回している。
「さっ、ドライブしようか」
「どこかに行くんですか?」
「うん。まあ、車の中で話すよ」
先生のすぐ背後について駐車場へ。やっぱりほのかに甘い匂いがした。
赤い軽自動車を発進させ郊外へ出て、高速道路に乗った頃、先生はようやく喋り始めた。
「清美さんにさ、言われたの。和葉は先生のことが好きなんですって」
「え……」
「友達想いよね。キミが苦しんでるから、擦り傷なんかじゃなくて気持ちの方を治してあげてー、ってわんわん泣きながら」
私は俯いて黙るしかなかった。恥ずかしすぎるし、泣きたいのはこっちだ。音楽もかかっていないから、しばらく沈黙が車内を支配した。
どのくらいの時間が経ったか。先生が私の肩をトントンと軽く叩いた。
「もう少しかかるけど、トイレとか大丈夫?」
「……あ、えーと、はい。大丈夫です。でもちょっと喉が渇きました」
「そっか。じゃあ少し休憩しようかな」
いつの間にか高速道路を降りていたみたいで、そこそこ広い駐車場に入って車を停め、先生は車のドアを開けた。私もドアを開けて外に出る。
自販機の前で先生は、財布から小銭を取り出してこちらを向いた。いつもの笑顔。
「お茶かジュース、どれにする? コーヒーは飲まないよね」
「はい。……お茶でお願いします」
買ってもらったペットボトルの蓋を開け、ふと周りを見回すと、ここは山の中なのか深い緑に囲まれていた。景色なんて眺めてる余裕がなくて、どんな道を辿ってここまで来たのかまったく覚えていない。
「先生、ここって?」
「もう少し山の上まで行くと、展望台。そこでキミに伝えたい事があるの」
その言葉に私は動揺する。伝えたい事って何だろう。それで、またもや黙ってしまった。
再出発した車は狭い林道を進む。前から車がやって来たらどうするんだろうと心配になるほど、軽自動車1台分の幅しかない。
「もうすぐ……あー、やっと着いた」
駐車場なんて無くて、少し広くなった空き地のような場所に車は停まった。
車から外に出るなり先生は腰を摩りながら、弱々しい笑みを浮かべる。
「ここから少し歩くんだけど、ちょっとゆっくり行ってもいいかな」
私はハッとした。先生は……。
「先生、手を繋ぎましょう。転んだら大変」
「あ、分かっちゃったかな? ありがと」
片手を繋いで私が先頭に立ち、展望台まで慎重に歩いた。
「ふう。まだ全然大丈夫だと思ってたのに、案外しんどいものねぇ」
「子ども……ですよね」
先生はひとつ頷いて、景色を観る。
「3か月。時々つわりがあるけど、まだまだ動けるつもりよ」
「無理しないでください。言ってくれたら来なかったのに」
「……だから言わなかったのよ。一緒にここまで来たかったから」
先生は手すりに掴まって後ろ髪のリボンを解いた。爽やかな風を受けて長い髪がフワフワ揺れる。
「時々ね、ここに来るの。ほら、あそこに街が見えるでしょ。わたしが育った街」
私は先生が指差した方を向く。低い山々の間、遠くの景色にビルの少ない小さな街が見えた。
「社会に出るまではすごく楽しかった。ずっと卓球をやっててね、同じ部活の男子と付き合ったりもしたんだ。向こうは東京の大学に行ってそれきりになっちゃったけど」
「今はあんまり楽しくないですか?」
「大人になると色々とね、嫌なこともたくさんあるし。楽そうに見えるかもしれないけど、これでも一応先生だからそこそこ忙しいのよ」
「……楽そうなんて、思ってません」
先生はニコリとして、私の頭をそっと撫でた。
「ありがとうね。わたしのことを好きになってくれて」
私の視界が滲む。
「先生、お腹の音、聴いてもいいですか?」
「いいけど……。まだ何も聴こえないよ」
私は先生のお腹に右耳をつけた。音が聴きたいんじゃなくて、泣き顔を見られたくなかったんだ。でも、鼻をすする音でバレバレだった。頬を伝って、涙は地面にボトボトと落ちていく。
先生が差し出したハンカチで目頭を押さえながら頭を上げ、まだ滲んだままの景色を見つめる。先生と一緒に観たこの景色を、絶対に忘れない。
たとえこの傷が癒えたとしても。
〈終〉
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