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昨今のアウトプットについて思うこと

クレスウェア株式会社の奥野賢太郎です。1年以上投稿が空いてしまい、久々となると内容に気合を入れないといけないという義務感が生まれてしまいますが、今回は雑文です。

Web上での存在感が減った

最近、アウトプットが明らかに減っているためかWeb上での存在感が減ったと言われてしまうようになりましたが、そういった趣旨のコメントが寄せられるようになったことについて考察し、筆者とアウトプットという行為について改めて考察してみました。ここでいうアウトプットとは、Twitterにおけるツイート、NoteやZennなどのまとまった量の文章の投稿、技術系勉強会などでの出演、登壇を指しています。

なぜアウトプットが減ったのか、いくつか理由が考えられます。ひとつには単純にアウトプットに関わる時間が減少したから。これは、今までは捻出してでもアウトプットの時間を確保していたため、あまり妥当な理由ではないかもしれません。ただ、事実としてアウトプットに携わる時間が減少しています。これは背景に「仕事が忙しいから」が介在していることに限ってではなく、たとえ忙しくなかったとしてもアウトプットに関わる時間は減少しています。

もうひとつは立場の変化です。筆者は一応これでいて開発会社の代表・兼エンジニアという立場に就いており、開発案件の請負を主事業としています。日々の開発中の案件については、もちろん当方の一存で内容を公にすることなどできず、限られた技術トピックかつ一般化が可能なもののみオープンにしています。これでも一応内容については許可を取ったりしており、取引先の事業ドメインが含まれていないからといってあらゆることをアウトプットしているわけではありません。

また、立場的に発言内容の正確性が従来より求められるようになってしまったというのもあります。簡単にいうと、出任せを言うわけにはいかないということです。これはいかなる時もそうであるともいえそうですが、たとえば「自分は初心者なのでググって出てきた内容をまとめただけで正確性は不明です」といった技術記事は、筆者としてはもう書くわけにはいきません。ある程度は立場的な正確性・裏取りの実施が求められます。

この背景として、既存記事へ寄せられた評価や登壇などの積み重ねによって獲得した信頼との裏返しでもあるため仕方ないところではありますし、裏取りしない不正確な情報を広めたいという意図ではないです。また、これは筆者以外の方がどういった技術記事を投稿するかという是非については述べておらず、そのような内容が投稿されること自体を非難する意図ではありません。あくまでも筆者自身がどういうアウトプットをするかというポリシーとプライドに係る話題です。

そして、発言内容の正確性という話題にも関連しますが、昨今の世間一般のアウトプット、たとえば政治、金融、経済、戦争、医療、育児、教育、その他社会におけるありとあらゆる……について、感情的な揚げ足取りや主張だったり、対面であれば明らかに失礼であろう受け答えがあまりにも目立つことに辟易しているというのもあります。反応だけでなく元となるアウトプット自体がすでに非論理的で感情的であることもあります。

この手の話題については、この記事内での表現も気をつけないと同様のことを招きかねないのですが、有り体にいうとTwitterの任意の立場のアカウントによる任意のツイートと、それをちゃんと読解しないままの難癖・揚げ足取り・筋違いな主張や反論・感情的な罵詈雑言といった不毛なやりとりが(Twitterにおいては)日常化しているのではないかと筆者は感じており、この事実に対してたとえ筆者が直接関与していなかったとしても、その風潮自体がアウトプットから遠ざかる一因になってしまっています。(Twitterの場合、そういった話題に限らず技術情報を共有するにも文字数が少なすぎるため不正確な断片になりがちといった事情もあります)

つまり、アウトプットという行いが少なくとも筆者の中においては非常に要求の高い行為になってしまい、それを恒常的にこなすだけの体力・精神力が追いついていないという認識を持ちました。全情報について完璧な裏取りをして、あらゆる立場の全方面の視点に配慮し、一切の炎上なく一切の批判なくなんらかを書ききるという行為に対する精神的な重さがそこにあり、それに耐えてまでなんらかをアウトプットするのかと考えたとき、そこから遠ざかる判断に繋がってしまっていたのです。

では、なぜこの記事を?

そう思っているのであれば、この記事も書かずにアウトプットせずにおれば平穏かもしれません。しかし、そうであってもこの記事を書いて公開するという二律背反的な思考はなんなのか。誰に何を伝えたくてこのアウトプットを書き留めているのか。

ここに答えが出せていなかったので、いままで筆者はアウトプットを怠っていたのですが、ようやく答えが出せました。

なんのためか。それは誰かに伝えたい、誰かに読ませたいためではない、ということです。自分が「アウトプットする」という行為こそに実行する意義があるのだなと。

アウトプットは「思考の新陳代謝のようなもの」だと筆者は思っています。

アウトプットをしないことによって思考に曇りが現れ、思考の老廃物といったような形容しがたい感情に支配されてしまうことを身をもって知ったのです。思考の流れを阻害する塊が現れ、表現が平坦化し、鋭さを失った思考に支配される。これらによって思考の鈍りが積み重なっていくことに対して危機感がありました。

今までこのような状況に陥らなかったのは定期的にアウトプットを繰り返していたから。そしてここ最近に感じるようになった思考の曇りや濁りはアウトプットを断っているから。そのために、アウトプットはいかなる理由で遠ざかろうとも、その鈍りから開放されるためには継続せねばならないということです。これが筆者がアウトプットをする理由です。

そして、なにか文字に起こすのみであれば手元のメモアプリなど非公開な場で書いておわりにしてもよいかもしれません。それでもなお、わざわざ読ませるためではないといいつつこういったパブリックな場に出すのは、そこに「どうせならそのアウトプットを体系的に整理して、磨きがかけられた状態にしたい」という思考整理上でのプライドが勝ったことと「せっかく磨いたのなら見てもらいたい」という承認欲求が透けているにすぎないということです。

この記事は誰かには読まれるかもしれない、それでも全方面全員が満足する批評の一切ない完全に中立な記事を目指すわけでもない。あくまでも「自分の思考の新陳代謝としてのアウトプットである」という捉え方が、筆者にとってはアウトプットしやすさに繋がるかと思い今回の記事の作成に至りました。今回は以上です。


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