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三島由紀夫『 金閣寺 』と水上勉『 金閣炎上 』読みくらべ。

ひとつの事件をひとつの視点だけで見つめていては、二次元的な視点になってしまう。ひとつの事件を題材にしたふたつの本を読むことで、視点が三次元になる。 
 
金閣寺が燃えたニュースをしらず、金閣寺が禅寺だったことも知らなかった私が、ふたつの小説を読み、ふたつの小説の差異を見つけ、なぜ、若者は金閣寺を焼いたのか動機を考察しようと考え、noteを書こうと思いたった。 
 
筆はすぐにとまることになる。ふたつの本を読んでも犯人の動機はわからない。 
 
三島由紀夫も水上勉も犯人の動機にはたどりついてはいない。 
 
であるなら、ふたりの作家が書いた本の差異をくらべ、分析することで犯人の動機が見えてくるかもしれない。 
 
ふたつの本を読みくらべた結果、犯人の動機にかぎりなく肉薄できる鍵が書かれている本は、水上勉の『 金閣炎上 』だと感じられた。 
 
差異を分析するまえに、ふたつの本の共通項を書かせてもらう。 
 
金閣寺を燃やした犯人の名前や生まれ、家族構成などはおなじ。Wikiなど、ほかの文書にあたっておらず確認した情報ではないが、実在した人物の名前と家族構成だと思われる。 
 
犯人の特徴としては、やや病弱であり、吃音。 
 
犯人の実家は禅寺であり、父は結核を患っており若くして亡くなる。父は亡くなるまえに、息子である犯人を金閣寺の和尚にすえたいという野望のような宿痾があり、縁をたどり息子が金閣寺で修行をおこなえる道筋をつける。 
 
犯人は、金閣寺で修行をかさね、学校にかよい、悩み、病み、そして、金閣寺を燃やす。 
 
ふたつの本は、おおまかにこのような流れになっている。 
 
いよいよ、ふたつの本の差異に目をむけていこう。 
ふたつの本の差異は数多くある。そのなかで「視点」と「女性」 
ふたつの差異について書かせてもらう。 

視点 

三島由紀夫の視点は、犯人の視点に固定されている。視点がずれることもあるが、9割以上が、犯人の視点に固定されている。 
 
三島由紀夫の小説は、犯人の見たもの、感じたこと、考えたことを追体験できる。三島由紀夫の思想がはいりこんだ主人公ともいえる。 
10代から20代の主人公としては、賢すぎではないかと思わないでもない。小説のなかで、哲学者のように物事を深く考える。禅寺で修行している若者は、それぐらい賢いのかもしれないが。 
 
三島由紀夫の犯人のイメージは梶井基次郎。 
 
女性に懸想して、物事をふかく考え、病弱であり、ニヒリズムであり退廃的な人間のように感じられた。 
 
つぎに水上勉の視点は、水上勉の視点、つまり作者の視点に固定されている。ふたつの小説と書かずに、ふたつの本と書かせてもらったのは、水上勉の『 金閣炎上 』は、小説というよりもドキュメンタリー作品のように感じられたからだ。 
 
水上勉が足を運び、人の話を聞き、足と耳で書いた作品。それが『 金閣炎上 』 
 
水上勉は、犯人のまわりの人間に話を聞き、そこから犯人の動機にせまっている。水上勉の推測は書かれてはいるが、犯人の気持ちや動機は書かれていない。断定はせずに、観察と推論、事実を淡々と積みかさねることに徹している。 
 
犯人の様子を聞きに、日本だけでなく、アメリカにまで出向いた水上勉の勤勉さには頭がさがる。『 金閣炎上 』には、読者が犯人の動機を推察できる文章がたくさん書かれている。  
 
余談にはなるが、かの司馬遼太郎にも水上勉はインタービューをしている。なんのために、と思われた読者もいらっしゃるでしょう。金閣寺が炎上した時、司馬遼太郎は京都で新聞記者をしており、金閣寺の和尚にインタービューをしたという過去をもつ。 
その司馬遼太郎は和尚とのインタービュー内容は忘れたが、印象に残っている言葉があると語る。 
 
「また、燃やしたるからな」

そのような言葉が黒板に書かれていたそうだ。金閣寺が炎上したあとに司馬遼太郎が目にした言葉である。金閣寺が炎上したあと、犯人は金閣寺周辺には近づいていない。 だというのに、そのような言葉が書かれていたそうだ。 
 
水上勉の『 金閣炎上 』が足と耳で書かれた作品。であるなら、三島由紀夫はどのように小説を書いたのか。 
 
『 金閣寺 』の解説を読むと、金閣寺が炎上したのち、間髪あけずに連載がはじまったようだ。おおまかなに事件の概要をつかみ、三島由紀夫が犯人の心情を推測し書きあげたように思う。 
 
マッチョな三島由紀夫のイメージだが、よくぞ、弱い男の気持ちをここまで綿密に正確に書けるなと感心させられる。弱い男の私としては、犯人の心情に同情したり、行動に反発したり、まるで犯人を横で眺めているような気持ちにさせられた。 
 
金閣が炎上してすぐに書きだされた『 金閣寺 』の物語は、金閣寺を燃やし、生きようと犯人が決意し物語はむすばれる。
 
『 金閣寺 』に対して『 金閣炎上 』は、犯人が逮捕され、裁判にかけられ、収監され、出所し、死亡時の様子まで書かれている。そして、水上勉が、最後に犯人の墓を見つけ、犯人の母親の過去の姿を描写して物語は終わる。 
 
母親の話がでてきたところで、つぎの差異である女性に話をうつそう。 

女性

水上勉の『 金閣炎上 』は、母にはじまり、母に終わる。犯人についての文章のほかに、もっとも母についての文章が書かれている。 

禅寺のとついだ未亡人は、後継ぎがいれば安泰ではある。しかし、後継ぎに恵まれなかったり、金閣寺を焼いた犯人のように若く禅寺をつげない年であったりした場合は、悲惨の一言。着の身着のまま暮らしていた禅寺を追い出されることもあったそうだ。 

福井の片隅にある禅寺にとつぎ長男を出産するも、旦那とは死に別れ、息子は禅寺をつぐ年にたっしていない息子をもつ母は微妙な立場に置かれる。 
田舎特融の村社会からは浮き、息子の成長に期待しすぎ、息子との関係もギクシャクしてしまう。息子が立派に育つことだけを期待して母は生きていた。 

その息子は、金閣寺を焼いてしまう。燃えた金閣寺を訪れ、帰りの電車にのる。そして、母は、電車から飛びおりる。

水上勉は、犯人の母に同情しているけはいがある。水上勉は若くして禅寺に預けられ、母のもとから去ったことと関係があるように思われる。読者はどのように考えるだろうか。 
 
さて、一方の三島由紀夫の小説には、母についての描写は少ししか書かれていない。一行か二行ほどしか書かれていない。母の存在が希薄である。 

そのかわりに、母のほかに女性が三人登場する。水上勉の『 金閣炎上 』には、母親以外の女性についても書かれてはいる。金閣を焼く寸前におとずれた妓楼の女性について書かれているだけで女性関係が淡泊な犯人像が浮かびあがる。 
金閣寺を焼くまえに女性の肌を知りたいと思う男の性。梶井基次郎の姿が浮かぶ、水上勉の文章のなかにも。 

さて、三島由紀夫の小説に登場する女性の三人のうち一人は、水上勉の文章にも登場する妓楼の女性である。 

あとの二人は、犯人が福井に住んでいたときに告白し、ふられ、男性と駆け落ちしようとし命を散らす女性。出征する男性に母乳を飲ませていた女性の二人が登場する。 
 
母乳を飲ませていた女性とは、悪友を通して邂逅することになる。そして、女性と肌をかさねあわせようと、胸を見た瞬間に、女性の柔らかなで白い血の通った乳房が、犯人には金閣寺に見えた。 
 
その瞬間、犯人は、金閣寺を燃やすことを決める。女性の乳房が金閣寺に見えた、だから、金閣寺を燃やそうと決意した。 
 
動機は、これだけではない。しかし、三島由紀夫の小説のなかで大きなウェイトを占めることになる。 
 
乳房が金閣寺に見えた。だから、金閣寺を燃やすと決めたのが動機ダ。

ここで筆を置いては、いくらなんでもひどいように思われた。そこで、ふたつの本を読み、私なりに犯人の動機について考えてみた結果を書かせてもらう。 
 
金閣寺を燃やした動機のひとつ、それは金。金閣寺の金ではなく、銭、マニーの金。 

禅寺の修行はきびしく、質素倹約をむねとする。修行している犯人たち小僧にはわずかなお小遣いが支給される。制服なども和尚のおさがりを渡される。それを着て、学校に通うことになる。 戦後に学校に通えただけでもよいのではと私は思った。

ここで問題になるのが、修行をしている小僧たちは、質素倹約、お湯でのばしにのばした粥をすする生活をしているが、和尚は毎晩出前をとり舌鼓を売っている。 

今現在もそうではあるが、戦後の金閣寺も観光客から拝観料をとり、お金を蓄財していた。金閣寺で働いているのは、和尚と坊主のほかに、出家してない運営のお手伝いをしている人間もいた。お手伝いをしている人間の給料は高く、なにかと、坊主の行動に文句を言ってきたという記述もある。 
 
金閣寺は拝観料をたっぷりと蓄財していたというのに金閣寺の火災自動警報機器が壊れていた、修理にだしていたと書かれている。
金閣寺で稼いでいるくせに、金閣寺を守るために金銭をださない。観光で稼いでいるくせに、文化財に無頓着な我が国の現状とかさなるのである。沖縄の赤い城を想いうかべた。 
 
文化財に尊敬を持たない人も増えてきているように思う。我が国の文化財は大丈夫なのだろうか。 

純情にちかい潔白な気持ちをもつ犯人は、このような金閣寺の現状に不満をつのらせていたのではと考えさせられる。 
犯人は、金閣寺ではなく、質素ながらもしかと修行する禅寺に預けられていたのであれば、立派な僧になったのではと思う。しかし、歴史にもしもはない。 
 
なお、犯人を育てた和尚の弟子は、戦死したり、還俗したり、発狂したりした弟子ばかりだったと追記しておく。 
 
金閣寺の和尚になっても、欲にまみれた俗な生活をするしかない、と絶望につつまれた犯人は、俗にまみれた生活をおくる糧である金閣寺を燃やしたのか。

吃音というハンデもあり、世間から見捨てられたような寂寥感、苦しみをわかってくれない孤独感に絶望し、京都の小路にいきづまったように感じ、まわりを見渡すと楽をして金を稼いでいる人間がいる。その姿を見せつけられ、視野狭窄に陥り、自暴自棄から金閣寺を燃やしたのか。 
 
どちらも金閣寺を焼く動機になるだろう。おそらくどちらも動機になったと思う。私は、自暴自棄になり犯人は金閣寺を燃やした動機が強いのではと考えた。

 戦後の昭和におこった金閣寺の炎上だけではなく、平成から令和に起こった事件を思い浮かべると、若者から中年の暴走ともよべる事件をいくつか思い出せる。 

いま令和を生きる若者と中年のなかに金閣寺を焼いた犯人のような気持ちをもった人間がいたとしても私は不思議に思わない。日本という国に絶望し、不公平を感じ、日本に見捨てられたと感じている若者と中年は数多く生きているだろう。

ここで思いだすのは、司馬遼太郎が見たと伝えた。

「また、燃やしたるからな」
 
金閣寺を燃やした犯人の白くなった炭のうちにくすぶり続けた炎は、みゃくみゃくと今を生きる若者と中年たちの心の底で鬼火のように熱く静かに燃えているのかもしれない。 
 
さて、ただの素人が、日本文壇のなかでもっとも美麗な文章を書く文豪のひとり三島由紀夫と足と耳で情報をひろいあげる弱き人によりそった水上勉の本を読みくらべた感想を書かせてもらった。 
 
ひとつの事件を題材にしたふたつの本を読み比べるのは、とても疲れた。けれども、ふたつの視点から犯人を眺め、事件を俯瞰し、物事を考えた経験は、ひとつの本だけを読むよりも厚い読書経験ができたと自負できる。 
 
そして、金閣寺について書かれた二冊の本をプロが分析している。 
それが、酒井 順子著『 金閣寺の燃やし方 』 
 
つらつらと四千文字ほどの感想文を書いたのは、『 金閣寺の燃やし方 』と私の意見を比べようという大胆な目論見があったからである。 
 
金閣寺は三度燃える。 

そして、みなで金閣について語りあおうではないか。


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