見出し画像

今年学びたいこと、それは批評。

批評家という職業が、この世に存在する意味がわからなかった。 
批評家を毛嫌いし、社会のゴミ、もしくはクズだとも思っていた。 
自分で小説を書かず、絵を書かず、動画を作らず、人が苦労して作った作品の粗をさがし、これみよがしに晒しあげる批評家が大嫌いだ。 
ツマラナイ作品だと、けなすだけの批評家もいる。 
オモシロイ話をテメェで書け、描け、造れやと思う。 
私は、ツマラナイ作品を読んだり、見たりしても何も言わない。 
すこし前までは、ツマンネェと言っていた、反省。
いまは、王様の耳はロバの耳と心のなかで叫ぶだけにしている。 
 
なぜ、ツマンネェと言わなくなったのか。 
それは自分の尺度だけで作品を測り、その作品をツマンネェと批判することは、いちばん、最低でオゲレツな批評だと思うようになったからだ。
身長の高い芸能界のご意見番きどりの女性タレントが『 花火 』を読んで、意味ワカンネェと公共の電波で語っていた。
意味が、分からないのは、あなたが。
そんなふうに自分の尺度だけで、ツマンネェと批評している人、あなたの周りいにいない?
自信満々に自分の尺度だけで作品の優劣を批評しているが、その人の尺度は、しっかりとしているのかネと思う。
私自身の尺度は、ズレている可能性が高い、いや、かなり世間からズレてブレて解離していると思う。 
自分のもつ尺度だけで作品を批判するのであれば、神のような、絶対的な知識を身につけ、完の璧な尺度を持つ必要がある、と私は思う。 
 
ちなみに今の若い子たちは、小説や啓発本、漫画、映画の批評を読んだり、聞いたりしただけで、それらを読んだり見たりした気になるらしい。 
切り抜き動画が、はやる理由もわかる気がする。 
 
批評家の言葉にたよらずに、小説や啓発本、漫画を自分で読み、ドラマや映画を見て、感じ、味わうのが大事だと思っている。 
他人の意見を聞かず、頼らず、自分のなかだけで作品を完結させてきた、なので、批評家を必要としなかった。
 
では、批評家を毛嫌いしていた私が、なぜ、批評や評論の勉強をはじめようと思ったのか。 
 
ノーベル文学賞を受賞し、ハードボイルド文体の始祖、そして短編小説の名手といわれるヘミングウェイの最高傑作といわれる短編小説を読んだ。 
読みおわった私の感想は、ツマンネェだった。 
ヘミングウェイの小説は、ガスコンロのボタンを押した瞬間に飛びちる小さく蒼い火花のような刹那ともいうべきイベントを書き記している。 
アッというまに読みおえることができる。 
英語の教材としてとりあげられているヘミングウェイの短編小説を読んだ。 
小説のあとに、ヘミングウェイ研究家のひとりが解説を書いていた。 
その解説を読み、なるほど、合点、すばらしい小説かもしれないと思った。 
 
ゴリラやチンパンジーにスマートフォンをあたえても利用できないように、私がヘミングウェイの短編小説を読んでも理解できる進化段階ではなかった。 
 
ヘミングウェイの短編小説はシンプル。 
かぎりなく形容詞をけずり、登場人物もすくなく、その登場人物の解説すらも最低限。 
短編小説のあちらこちらに、批評用語でいうところの空所がある。 
文章で書かれていない情報を読者がおぎなう必要がある。 
ヘミングウェイの短編小説の魅力は空所にある。空所がおおければ、おおいほど、あれやこれやと読者は想像し、さまざまな解釈が生みだす。
そして、その解釈の差異から争いがうまれる。平和を願ったヘミングウェイの小説を読み争いがうまれる、なんとも皮肉な結果とはおもいませぬか。

 解説を読んだあとヘミングウェイの小説を読みかえすと、自由奔放な女性の姿からLGBTを読みとれる。
また別の短篇では会話のふしぶしからは、女性が妊娠しており、堕胎する必要などの情報がおぼろげに物語の空所の輪郭から見えてくる。
さらに、猫や山脈、お酒などがなにかしらの象徴のように感じられる。
しっかりと輪郭をつかもうと、何度も読みかえした。 
しかと理解したとは言いがたいが、ヘミングウェイの短編小説のシンプルなれど深淵ともよべるディープな一端にふれられるようにはなった、と思う。 
ヘミングウェイの短編小説を読む技術を批評家に教えてもらえた。 
批評家は、すごいと思うようになった。
 
ただし、評論家のアドバイスを信じきってはいけない、妄信してはいけないと思う。
アドバイスを参考にしつつ、自分の脳を動かしながらヘミングウェイの短編小説を読まなければダメだとは思う。 
脳を動かしながら自分の目で文章を読まなければ、批評を読んだだけで、小説や啓発本、映画を読んだり、見たりしたような気分になる人たちと同じではないか。 
 
批評家は、読者や視聴者に足りていない、読むための技術や知識を与えてくれる、さらに、足りていない経験も教えてくれる存在だと気づかされた。 
 
経験といえば、若いころに読みツマンネェと思った作者の小説を、40歳を超えてから読むとオモチロイと感じた経験がある。三島由紀夫や水上勉、芥川龍之介などなど。 
 
私も読んだ本の批評を書きたい。
その批評した本を読んでみたい、と思わせる魅力あふれる批評を書きたい。
なおかつ、その本を読んだ人と感想を共有し、さらに、新しい気づきや視点を提供し、もう一度その作品を読みなおしたいと思ってもらえるような批評を書きたい。 
 
それには、批評や評論の勉強をする必要がある。 
いろいろと批評や評論を勉強するための本を買い、いま勉強している。 
批評や評論を書くには、文字を目でなぞるだけでなく、脳をフルに活用する必要がある。 
文章の空所はないか、文字を分解したのち組みたてたり、象徴的な単語はないか、その単語はどのような意味をもっているのか、などなど、ありとあらゆる批評技術を駆使して、文章を切りわけ、文と単語を組みあわせ新しい命ともいえる文章を組みあげなければならない。 
 
批評を書き発表するということは、その文章を批評されるということでもある。 
誤字脱字がないように気をつける(なかなか誤字脱字は減らない)
ツマンネェと思われないように工夫をこらす。
さらには、書いた文章についての批評を想像し、どのような反論があるだろうか、反論にたいし先に文章で答えを書けないかと様々ななことを考えだすと、常に頭を動かさないのはモッタイナイと感じられてくる。 
 
作品について頭のなかでコネまわしたモノは、やがて実体をもってポトリと目のまえに落ちてくる。 
その落ちてきたモノをまた観察し、吟味し、情報が足りなければ、あたらしい情報をしいれる。 
そして、足したり、削ったりしているうちに文章ができてくる。 
つぎに、できた自分の文章を自分で評論、批評する。 
 
批評を勉強するメリットとして、自分のなかに評論家、批評家を育てられることがあげられる。 

どういうことか、他人の文章を批評するように、自分の文章を批評できるようになる。 
「ここオカシイよ、キミ」「この文章は冗長だよ、キミ」 
「なにが言いたいか分からないよ、キミ」などなど、ウンザリするほど自分の文章を批評できるようになる。 
 
書いた文章を他人に批評してもらえるのであれば、頭のなかで批評家を育てる必要はない。
けれども、書いた文章を批評してもらえないのであれば、頭のなかで批評家を育てるしかない。 
 
分析し、考え、推敲し、批評した文章は、ヘミングウェイほどの深さには達しないだろうが、批評を勉強するまえの文章よりは深いものになる、と思っている。 なればいいな。
 
2024年勉強したいことは批評。

そして、つねに頭をうごかし形容詞の空所を想像し、単語に懸想し、組みあわせを妄想し、林のように静かに本そのものの主題や本質について考える。 
コネあげたアイディアを文章に落としこみ、頭のなかの批評家に自分の文章を推敲してもらい、他人に最後まで読んでもらえる文章を書く。 

願うならば、読んでもらえた文章から、サムシングな影響を読者がうけたのであれば、これ以上の幸せはない。
 
さらに、去年よりもスキをもらえるといいな、スキを押してもらえると嬉しいな、スキを押してもらえるとハッピーです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?