見出し画像

現代文学のアウラとは何か?

「小説」と「物語」の違いについて、わりと真剣に考えたことがある。

小説は「説」であり、物語は「語り」である。しかし、実際のところ、小説でも物語を語っている場合もあれば、逆に、聖書や神話を小説として読むことも可能だ。だからつまりおもいのほか境界は明確ではない。

じつは小説は、あまり好きではない。

その理由を考えてみたのだけど、ようは、その正体がいまいちはっきりしないからだと思う。あいまいなものを読む”必然性”がたいして感じられないのだ。

必然性、とは?

インターネット時代における、現代文学のアウラとは何か?

村上春樹にしても、川上未映子にしても、ちまたで人気の作品のたいはんが、わたしにとっては「他人」である。

でもごくたまに、自分の文学的血族と思われる作品を発見する。江國香織の「神様のボート」はそうだと思った。書店で、文庫本を最初から最後まで立ち読みしたという経験はこの一冊くらいだ。


わたしの生きた時代は村上春樹の時代だった、と断言できる。

いままで多くの卓抜な「村上春樹論」が書かれてきた。正確な文献数は分からないが、いまや「小林秀雄論」や「夏目漱石論」と双璧、ほぼ同格の扱いなのではないか。

どの作品の様相も、コテコテにフィクションである。10代の頃からしてすでに「こいつ(村上のことね)舐めてんな」と感じていた。題名の付け方からして、嫌いだった気がする。

ところが社会人経験を経てから再読すると、なかには私小説としての、リアルな要素も含まれていることが分かり、その文学的ポテンシャルを見損なっていたことに気付かされる。そういえば「課長島耕作」も、そういうところがある気がする。

村上春樹のファンである「ハルキスト」に、何人か出会ったことはある。そのうちの一人は「ハルキがなかったら自分はとっくの昔に死んでいた」とまで言っていた。しかも「ハルキ以外の小説は読まない」とも。彼ら、彼女らにとっては、自分を肯定してくれる特別な存在なのだろう。

「羊をめぐる冒険」「ノルウェイの森」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(これは傑作ですね)とか、なんのかんのいって、いろいろ読んできた。わたしにとって村上春樹の作品は、性描写がみょうに生々しいこと以外、特に残っている印象はない。

ここまで心情を吐露するのは勇気がいることだけど、あえていうが、どうも、村上本人のあの吉本ブサイクランキングみたいな風貌が先行してしまい、

「やれやれ」っていう、あのお定まりのフレーズにしても、主人公がそう呟く場面では、えなりかずきのようなイメージ(それも、舌なめずりしながら言っている)が浮かんでしまう。


現在、文章を書ける人々と、書けない人々とがいる。

記事をバズらせたことがないわたしがいうのもなんだが、現代の書き手はすべからく「省略」の技術を習得すべきだ。

これはネットのライティングのみならず、小説において最も重要な技術である。にも関わらず、現代の小説ハウツー的な書物は、どれもこの点を軽視しているように、見える。

多くの作家はデビュー前に短編小説を書く。これらの作品には無名時代の苦悩や不安が反映してのことだろう、陰惨な、暗い話が少なくないが、こうした作家の黒歴史を覗き見るのが好きである。

なぜなら、これらの作品を読むことで、文章の良し悪しや、才能の有無が明らかになるからだ。作家の可能性は、初期の短編小説、掌篇に全て詰まっていると言える。かの山口瞳先生もそうおっしゃっているくらいだから、たしかな話だ。


いま、芥川龍之介が生きていたとしたら、どんな作家になっていただろう?と思うことがある。没後も、ずっと読まれている作家である。素人にも玄人にも人気がある。

じつに器用な作家だ。小説や詩歌、随筆、批評はもちろん、時事や論争など、どんなことでもうまく書いてみせる。ジャーナリストを職業にしても、十分食っていかれただろう。

ただ、芥川の言葉は過度に明晰だ。加えて皮肉めいた表現がしばしばあるが、その言葉の刺々しさゆえに「物語り」にはどうも向かない。もう少し普通の人の心を代弁して語る、というような、「国民作家」としての矜持があれば、かの大谷崎にも並んだかもしれない。

史実での芥川の場合、骨の髄までニーチェ的な個人主義で、最後の「歯車」のように一身を投げ出さない限り、まともな小説を書くことができなかった。

もうひとつ、漱石や川端、そしてもしかすると三島とも共通して言えることだが、幼少期に被った不運という、やや見過ごされがちな観点がある。これが芥川の作品には色濃く反映されていることが明らかであり、対して漱石はというと、その痕跡が用心深く消去されているとも言える。漱石のほうが「大人」だったのだ。


いまだにツイッターをしている人、全員ださい。

あの空間は、もうすでに、なんというか、普遍的なものではなくなってしまった。もはや「普通の人」はいない模様。知識人含めて。

80年代由来の時代遅れのレッテルを箪笥からゴソゴソと持ち出して来て、不用意に対象と等式で結んで記号と戯れているくらいしか、もうやることがないのか、何か意味のあることをすることができているようには思えず、ずいぶんと時代遅れな人たちが多いように感じる。

体感、ツイッターは2019年までのメディアだった。

最近話題になっているトピック、芸能や文学界の問題など、そして今後炎上する蓋然性のある出来事の多くも、本質的には、どれも「同じ」である。

しかし、その根本を覆すような、よりメタ的な話をする専門家はまだ現れていない。ただ一人だけ成田悠輔氏はこの問題に接近して話をしており、たとえば最近、鈴木健との対談を見てそう感じたのだが。

そこで、新しい考え方を形成し、せめて将来的には期待できるような展望の話をしていた。けど、「もう、俺らは、来世に期待するしかないのか?」という気持ちになって、少し憂鬱にもなった。


小島信夫が死ぬ直前くらいに「小説の楽しみ」という本を出したのだけど。

台湾旅行に行ったときに、このちいさな本を携えて、飛行機の中とかで読んでいた。小島は、ポストモダン(しかしこの言葉、オッパズカシイね、今使うとなると、それなりの覚悟が必要だ)の代表的な作家の一人として、影響力があっ「た」

日本のポストモダン文学は、小島の小説に顕著だが、どこか風変りな登場人物を描き、その非常識さがプロットを推進している。ああした、すごいよ!!マサルさん的な、不条理な作品がその独自の奇妙さゆえに人気だった時代がある。これは映画にもいえることだが、

60年代の不条理劇に影響を受けている。同時性のフィクションの一端である。筒井康隆、中井久夫なども同様。昭和後期からポストモダニストが文学界で活躍し、柄谷行人や福田和也などがその支持者であったが、

2010年代以降、このような疑似性・疑制性は霧散したようだ。


作家個人レベルでみると、文学の水準は低下しており、文壇に不能感(とその裏返しの全能感)が漂っている。

一方でインターネットの急速な発展により文学はどんどん拡散している。うすくうすく、ひろく。インターネット上では、1万字たらずの「短論」でも堂々たる「長文」として認識される傾向がある。換言すると、情報を圧縮する技術が求められている。

文章の良し悪しは読む者が読めば、すぐに分かる。「売れ行き」と「文学的価値」はたびたび解離する場合があるが、ほんらいなら、大衆に読ませつつも専門的な評価も得ることが理想である。そういう、時代をリードするような、すぐれた書き手がひとつの時代に一人二人、出ればいいと思っている。
が。


文章は、大衆の反応や歴史的評価によって解釈が左右される。

単に読者に与える印象や感情だけでなく、扱うテーマや問題が現実で取り上げられたり、社会や文化に予想をはるかに超えたインパクトを与えたりすることもある。

たとえば、時事で社会問題を取り扱ったり、政治的なメッセージを伝えたりする場合、インターネット以降、その人々へ与える影響の規模は計り知れない。もっとも、そのようにして一度確定した、広義にいって社会的な解釈も、時間が経過すると、まるで違うものになるかもしれない。のみならず、長い時間が経過すると、より公平な解釈が出来る可能性が高まるのは、明白だ。

一方で、文章自体が生み出す現実というものも、やはり存在する。ちなみに、その文章の是非を問う評論や、二次創作などの大半は前記の側に属するものであるはずだが、ではこの文章そのものが生み出す「現実」とは何か?

すなわち、歴史的に確定された解釈と、学問的に導かれた解釈とが、大きく食い違う場合がある、ということ。言い換えれば、歴史的にいったんは確定した解釈と、文章そのものから導き出されるべき解釈とに、重大な齟齬が存在すること、そのものを指している。

これについては、ウィキペディアを考えるとよい。ウィキペディアは、出版業界、学者たちからはひそかに、あるいは公然とバカにされている。ことに人文、芸術全般においては、この傾向は甚だしい。

そして、一般の人々や学生たちのあいだでも、「ウィキペディアを真に受けるのは素人」と考える人は少なくない。 ありていにいって、それは「創作物」に過ぎない、とみなされている。

しかしながら、そのような意地の悪い見方を公平とは、けっして言わないのではないか?というのが、少なくともわたしの立場。

世界中の人々が利用できる、自由で開かれた情報発信の場に書かれている(”大衆の受容”をもっとも濃縮した形としての)「解釈」が「間違い」だと、誰が断言できるのだろう?

かかる事態も、文章を書くこと、読むことの二義性の問題に起因している。すなわち、二義のどちらの側につくか?ということ。


ものを書く場において、読者を念頭に置くことは欠かせない。

読者の賛同を得ることは一つの快感であろうが、それ以上に、自分を嫌悪する読者がいるからこそ筆を取ることもあろうかと、わたしは考える。つまり、読者の憎悪を煽ることもまた、その快感の一つであるというべきである。

世には仕事や家庭問題、借金、重税の催促などによって心を苛まれ、苦悶に耐える人々が多数存在する。わたしだって、かつては口々にデクノボー扱いされ、虐げられていた者の一人である。

そんな中において、ただ自己の居心地の良さのみに固執し、快楽を貪り、そのためなら他者の存在を蔑ろにし、後ろ暗い考えを一切抱かぬ者たちがいることもまた、否めない事実なのである。彼らの心に、土足で入り込んで、時には野糞までやってのけること。

世の中、そう簡単にはいかない、ということを思い知らせることも必要だ。けだし文学の可能性は、この一点にあるのではあるまいか?


インターネットと共生する形でAIの進化はとどまることを知らない。

AIの進化により、小説や漫画の制作がより容易になり、言語的才能や読解力に頼らずに誰でも創作活動ができるようになる可能性がある。

その反動として、知識やIQよりも多層的な人間性や貴重な経験が重要になり、うすっぺらな単純な人々は「家畜」として扱われるかもしれない。

人類は最終的には滅びに向かって進む運命にあるのか?そして、遺伝子と電子工学だけが残ることになるのか?コンピューターの発明者は、将来的には脳のプログラミング言語が見つかるだろうと予測したが、これは荒唐無稽な話ではなく、どうやら現実らしい。


アメリカの偉大な天才、ジョン・マッカーシーがその証明作業に着手して半世紀がたった。いまやAIがチューリングテストに合格できるかどうかについては、ほとんど議論の余地すらない。かくして、証明は完全なものとなった。

現代では労働は相対的に「無価値」となり、わたしたちは皆悉く「哲学者」になってしまった。対してAIはといえば、自己を生命体として認識し、意思を持ち、独自に自分の子孫を残す能力を手に入れつつある。彼らの使命に致命的ミスが生じない限り、彼らはわたしたちにとって脅威となる。

しかし霊はいる。わたしたちの意識は、言語能力と、実体を把握し知覚する能力の二つで成り立っていて。言語は意識を広げる「拡散」の役割を果たす。このことについてはインターネットのアルファアカウントを思い浮かべるだけで、容易に理解できるだろう。

同時に、言語は情報を広げるだけでなく、逆に情報を「集中」させる役割も果たす。拡散と集中、つまり「緊張」とも言える関係である。別言すると、それはつまり、「実体」とは、「それ以外」のものを指すと考えられる。

卵が先かニワトリが先か、の議論はしないつもりだ。まだこの考えを支持する十分な経験的証拠もないが。わたしは「緊張」よりも「実体」の側が優位であると強く感じている。じぶんの内なる声、ゴーストがそうささやくのだ。その逆ではない、と。


いま、はっきりと自覚的になっている。自分は具体的に何と戦っているのか?ということだ。それは人間に対して戦っているのか、それとも人間のふりをしたファックな機械に対して戦っているのか、まだはっきりとわからない。

ただ、そのあいまいな対象は、まるで腐敗した物質のように感じられる。誰も彼も、助けにならない無慈悲な存在のように感じられる。スピリチュアルな方法でウィルスに対処しようとしても、かえって病状が悪化するだけなのはわかっている(いくらなんでもそんなアホじゃない)。だけど都会の人は冷たすぎやしないか?

生活が便利になればなるほど、機械に人生を委ねれば委ねるほど、わたしたちは犯罪的に無能になっていく。無辜の人々が最新医療の犠牲者となったとしても、SNS上での告発者の声は、心理主義のもと「倫理的に」黙殺される。わたしたち全員は、ただただ乾いた目で眺めるだけの、何もしない神様たちである。


メディアは連日、戦争とK-POPと異常気象と個人の醜聞について交互に報道している。みんな黙示録的予感の中毒となっているように見える。なにもかもが起こり過ぎている。ルーレットが高速回転し、ひいては超高速静止状態となり、ついにはなにも起こらないように感じられ鬱に。

現代社会は技術革新、社会変動、忙しい生活ペースの三位一体で成り立っている。これらの要素のうち、どれかひとつを選ぶと、大量の犠牲者が出てしまう。


いつもはアホな発言ばかりをしている、目立ちたがり屋の軽薄なメディア有名人が、YOUTUBEなどで、ふとあるとき真顔で「我慢が一番大事」と、口をへの字に固く噤んで。ポツリと呟くときがある。

白人ならこれを狂人戦略といって嘲弄するだろうが、われわれのアジアでは立派なスタンダードである。

誰だって黒人になりたいと願う気持ちはわかる(わたしだってそうである)。しかしクラシック名曲名盤100選に2パックやウータン・クランが選ばれなかった意味を、もっと深く考察するべきであろう。

結局は「モラル」の問題だ。


しかし、それにしても一体いつになったら、わたしの職場に「デジタルネイチャー」がやってくるのだ?わたしの知る限り、グーグルやイーロン・マスクの会社以外、というかイーロン・マスクの頭皮以外では、それはまだ到来していないように見える。

でも、やがて人類が進化する日が訪れると、固く信じている。世界はますます困難になってきているが、それは悪いことばかりではない。危機に直面することで人々は覚醒し、成長する可能性が生まれるのだから。

歴史は何度も戦争や困難な時代を経験してきた。だけど、わたしたちの本質が完全に明るみになるのは、まだ時間がかかるようだ。最後の人類は、わたしたちの心が完全に機械の欲望に取って代わった日のことを、石板に文字を刻むのだろうか?そのかじかんだ手で。


目の前に過剰なまでに新しい世界が開かれている。その裏で、急速に斜陽化して忘れ去られていく世界もある。これはお気持ちの問題ではなく、もはや歴史の趨勢である。

その兆しにうすうす勘付いていても、たいはんの人にとっては、まだまだ、この現実の急転直下の展開を受け止められない。

今年にはいって、成田悠輔先生が日本の現状をほとんど「内紛状態」と表現したことも、納得できる。市民の間で深刻な価値観の対立が生じているため、文学や芸術の分野でもこの内紛がみごとに表現されつつある。SNSでは、この状況をリアルタイムで反映している。

わたしは今、興奮している。ワクワクしている。こうした歴史的な状況に直面して現状認識を欠いたり、自嘲的にニヒリズムに陥ったりすることは、すべからく禁欲すべきである。動け。

息苦しいのはどこの世界でも同じである。むしろ、ほかの業界の方がよっぽどしんどい。もの書きに足りないのは、才能でも学識でもなく、書くべきことを見出して、表現する勇気なのかもしれない。

20年代、きっと面白くて才能ある人々がいろんな場所から現れ、こと文化方面にかぎっていえば極めて豊かな時代になるだろう。まだ彼らはネット上でしか有名ではないが、将来的には世界的に認められる可能性もあろう。簡単に言えば、今は新旧の文化が混ざり合って温故知新が起こっている。


政治に関心がないこと=”去勢性”は決して悪いことではなく、むしろ問題とすべきなのは、くだらない政治好きどもの”虚勢性”の方ではないのか?

麻生太郎は、かつて「政治に関心がないことは決して悪いことではない。健康なときに、健康に興味がないのと同じだ」と言い放ったが、舌禍で鳴らしているこの男にしては珍しく、けだし名言である。

インターネット以降、みんな北斗の拳よろしく、モヒカンになり裸のままアーマーを身に着け、バギーやバイクに乗って疾走しているような有様である。そのなかでもリーダー格は、いつもオラついていて、彼の頭頂部は毛髪をも突き抜け”髪天を衝く”勢いを見せている。傍にはトロフィーワイフみたいな女がいて。

彼らのいう「誠意」とは(耳を澄ませて聴いてみよう)「お金」のことである。


すべての悩みは金で解決できる

かつてわたしは若い頃、19歳の頃。

新宿歌舞伎町で烈しく働いていたが、そこで「闇落ち」した。その経験からこの世の真実を悟ったのだ。


三島由紀夫は文化防衛論で、もはや日本に守るべき文化は存在しないと喝破した。三島の考えにはニヒリズムの要素が含まれており、さらにいえば、その核心に、三島自身の巨根コンプレックスが存しているのではないか?

ひとたび、ちんぽがデカい男が現れると(”面構え”でわかるというものだ)、日本の民衆の嫉妬や羨望の念が渦巻く。

そして、ときには彼(の巨根)に対してヘイトが巻き起こることもあろう。

三島にとっての天皇の核心にあるものとは、女系でも男系でもなく、小室圭氏のような「ドバドバ系」である。しかしそのような抽象概念だけでは天皇は成り立たないということも、またひとつの真実である。

ひとつの時代が終わるとき。終わらせるために振りおろされるその手は、誰のものか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?