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人の陰謀論を嗤うな

この国に変化はいらない。
この国に進歩はいらない。
だから「若者」もいらない。

わたしはおじいちゃんとおばあちゃんが大好き、
この国は黄金の国。やんごとなき御方たちの政の国。各セクトの政治力学がすべて。
表現の自由?
cawaii?虹(二次)?そんな役立たずはいらない。おじいちゃんの○○○○はもう勃たないんだよ?…
芸術はつまるところ老人の道具。一握りの支配階級カーストのための名産品だ。

一部の若者たちは、この素晴らしき身分制を打倒すべく、ふたたび階級闘争的な運動が必要だと思っている。
愚か也。
「一度目は悲劇、二度目は茶番」てなもので、いまさら革命せよ、旧体制を打倒せよ、なんていわれても、白い目で見られるだけだ。

君は、あの外山恒一の政見放送を見なかったのか?あれ以上のクオリティーを要求するのは酷というものだ。

この国に議論は不要。
”リアル”の議論はタブー。

そんなことしなくたって、お偉方によってあらかじめ決められた暗黙のストーリーが手に入ってる。その文脈を忖度し、緻密に読んで、役割を果たすことが肝要である。大切なのはお歴々の "体裁”を傷つけないこと。

お上に議論を挑む、異議を唱えるだなんて、もってのほかだ。あとできっちり何かしらの”社会勉強”が待っているだろう。
わが邦がハラスメントのパイオニア、うんこ色のジパングとも呼ばれる所以である。

もしすべてが現状維持に留まるためにあるのだとすれば、この国の自由はいよいよファンタジックに極まってくるに違いない。

この国では言論の自由が保証されている、といわれている。
とくに「浅い」ことをいう自由、現状を全肯定する自由、なかんずく「この国がどの国よりもサイコーにリベラルでフェアであることを称賛」する自由は大いに推奨される。

だけど「深い」考えを表明する自由は...
断じて非推奨だ。なぜなら、この国の自由はファンタジーだからだ。ファンタジーに水を差すな。

高齢者が死ぬまで安心して暮らせる自由!
生きながら死んでいればいい自由!
ジャルジャルの夢なし大学生みたいな奴らにとっては居心地のいい自由!

...だから、わたしは”あいつら”がきらいなのだ。
”罰”を与えるべきだ。
人の、こころのなかに封印している感情を無遠慮にゲロみたいに吐き出しやがって。そんなの、みんなだって同じようなこと考えてるんだけど、ふつう、いえない。
そこにきてあいつらがかわりに熱弁する。
ひとまえでいっていいこととわるいことがあるのに。過激な言葉に傷ついている人がいるのに。
ところが、世間は「みんなが思っていることを言ってくれてありがとう!」ってなるんだから、すごい才能だ。うらやましいにきまってるだろ。
いまのユース世代はみんな真似したがっている。いまのいじめとか少年犯罪のパターンはぜんぶあいつらのやりくちだ。あいつらはその凄い才能で社会をそう啓発しようとしている!

…と、ここまで書きおわって、わたしは胸がグサリと刺されたように傷んでいる。自分で認めると同時に自分で慰めるしかなくなり「こんなことゆるされるはずないだろ!あいつらは若くして有名人になって、そのくせに常識ないくせして、いいたいこといわないと気が済まないガキンチョで、プゥ!」と咆哮した。前蹴りしながら。
わたしはあの”才気あふれる若者”が死ぬほどきらいだ。「野心、アリ」とみなした若手は全員、わたしの敵だ。
わたしは「若くて才能があって、うらやましいね」と、素直に言えない。死んでもいいたくないね。秀才が台頭したときだけ、胸の内にむくむくと闇の力がわいてくる。

世の、嫉妬についての議論はしばしば人間中心になりすぎていて、わたしは不満だ。
いいですか、
嫉妬は犬や猫でさえ持つ、原始的な感情なんですよ?ペットを多頭飼いしてる人なら誰でも知っているが、動物は自分の種族内で嫉妬することがある。自分より注目されている、可愛がられている他のペットを攻撃するのだ。嫉妬という感情は人類以前、言語以前から存在していた。もうひとつ、同じように原始的な感情として「命令」がある。犬や猫、馬でさえ命令を理解するだろ。彼らは話すことはできないが、命令は理解する。嫉妬や命令は、言語よりも古いものだ。こうした原始の感情、その原型は人間社会の外、自然界に存在するのは明らかである。けだし嫉妬の最も原始的な形は縄張り意識に違いない。どんな聖人君子でも、あの孔子様でさえ、誰かが自分の縄張りを踏み荒らすやいなや、鬼の形相になって報復するに違いない。だからつまり、その、、、わたしはまともなのだ

なぜ人々はある特定の人物を称賛するのだろうか。
コヤツ、デキル…、とみなした者に対して、民衆はカリスマのようになることを期待する。
そのように期待された者は当然のことながら期待に応えようとマッシヴに、アグレッシヴに努力し、自分を期待してくれている人々らに何らかの寄与をしなければならない。
かくして実力者同士の”与えること”の競り合いが起こる。
これは待望とは名ばかりの圧力と同義なのではないか?
しかし一方で、みょうなのが、称賛したからといって贈賄には当たらず、またその社会的価値が下がることもない。
周知の通り多くの人中に屹立した個の類いが人々の称賛に相応しくあろうと心をついやしている。
富める者は惜しみなく与え、ますます富む。
こんなベッタベタな話は太古の昔からあり続けていることであり分かりきっていることだ。かのようにわたしたちはじつは人間を類型で、つまり本質によって考えている。

したがってこの話は各界のもろもろの強者にあてはまるものだが、人々らは特定した”個”に勝者の称号を与えることによって、ことあるごとにそのような誰かを称賛し、
人々はみずからの権力を高めるためのこの寄与があたかも習慣以上の義務であることを他の者らに知らしめるのである。

ひとたび、ちんぽがデカい男が現れると(”面構え”でわかるというものだ)、日本の民衆の嫉妬や羨望の念が渦巻く。そして、ときには彼の巨根に対してヘイトが巻き起こることもあろう。

福田和也はかつて「左/右の定義を発見できたらノーベル賞を獲る」と発言をしていたはずであるが、わたしはとっくの昔に気づいていた。
左派はどいつもこいつも”嫉妬深い”のだ(さあ、ノーベル賞くれよ!)

左派は、おおまかには改良派と過激派がまっぷたつに別れてしまっていて、彼らが再びひとつにまとまることは原理上、不可能といってよく、このことは民主党政権時に白日の下に曝され、やっぱり左翼は内ゲバしかしないからとことんダメだということが判明した。

左派たちに残された帰結は、彼らが仰ぎ見る対象としての英雄主義くらいであろう。左派諸君はもっと現実を直視しよう!
 
一昨年、Twitterで「全共闘運動は実家が太い陰キャの青春ごっこ」とツイートしてバズった奴がいた。あいつ、今どこで何をしてるのだろうな…

リベ、左派どもからさんざん嫌味言われていたが。アレだって、当時だったら隊列組んでた側の奴だろうと思う。他のツイートで「(自分を)もっと叱ってくれ!」とか言ってたし、アツかったんだけど。あの件にかぎらず、遅かれ早かれ「わたしたちは何を信じ(て)るのか?」という実存問題が沸騰するだろうと予期している。ナショナリズム。いずれここ日本でも。20世紀初頭に間歇的に出た問いが、その本質を替えずに、時代の変化により形を換えて再燃する。
個人主義敵視の風潮と共に。その兆しとしての今日この頃。

...私たちは自分が信じていると信じているものを、本当に信じているのだろうか?信じているとすればどういう手続きでそれを信じ、信じていないとすればその代わりにいったいなにを信じて、わたしたちはこれまで生きて来たのだろうか?こう自問したとき、私は、「忘れたことと忘れさせられたこと」を書いたときよりずっと以前から、自分が何度も同じ問を繰り返して来ていることに気がついた。昭和四十四年の暮から昭和五十三年の晩秋まで、私は毎月「毎日新聞」に文芸時評を書いていた。それは三島由紀夫の自裁にはじまり、”繁栄”のなかに文学が陥没し、荒廃して行った九年間だったが、来る月も来る月も、その月の雑誌に発表された文芸作品を読みながら、私は、自分たちがそのなかで呼吸しているはずの言語空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じずにはいられなかった。いわば作家たちは、虚構のなかでもうひとつの虚構を作ることに専念していた。そう感じるたびに、私は、自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体を、知りたいと思った。現行一九四六年憲法第二十一条が、言論・表現の自由を保護しているところを思いだしてみれば、おそらく憲法すらこの虚構の一部分を構成しているに違いなかった。

江藤淳/閉ざされた言語空間

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