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欺きと幸せ

直感的にわかりにくいタイトルであることは認めます。
その上、ネガティブなタイトルは、読んで頂ける可能性を下げることも、これまでの乏しいnote体験で学びました。
それでも、書きたいから書きます!
(なにを、いきんでるんだろ?)

自分の私的思考を他人にわかりやすく伝える能力というのは、天性のものなのか、努力の賜物なのかは、まだ模索中の私には、わかりません。
兎も角、前段・例を3通り・後段の構成で、欺きと幸せについて、自分の考えを説明することを試みてみましょう。


この作文での、「欺き」と「幸せ」の個人的定義

あくまでも、この作文内での、「欺き」と「幸せ」を、先ず説明します。

「欺き」は、自分が、意図せず自分を騙しているという意味で使っています。自分では、自らをこういう人間だと思い込んでいます。しかし、自己に正直に向き合い、よく考えたり、自己分析してみると、実は自分で自分に嘘をついていて、その嘘に、何らかの理由があって、気づいていない、むしろ無意識かつ積極的に現実から目を背けている状態のことを、「欺き」と表現したいのです。

「幸せ」とは、その欺きを自覚していない状態と、欺きに気づいたり、自己分析してある程度の状況を把握した後の、精神状態、感情を表しています。

何のことかさっぱりわからないでしょうが、出来れば、我慢して、以下の3例に進んでください。

ひとつだけお断りしておきたいのですが、内容はあくまでも個人的なもので、よそ様に一般化する意図は全くありません。

運動能力

以前に「苦手の両面」https://note.com/omas_skizzenbuch/n/ne9f4c37995bdで述べたように、私は物凄く運動能力が低いです。しつこいですが、客観的に見て、年齢性別を考慮に入れた平均よりも、運動は下手です。所謂「運動音痴」が最もふさわしい言葉で、これは、一点の謙虚さの反映もない、身も蓋もない事実です。
運動に関して、真面目に授業はこなしたし、仕事場を含む色々な場面で、体力を発揮したり、動いたりするときも、いい加減な態度や嫌がる素振りを見せなかったので、社会的には、運動に関して、嫌な思いをすることは一度もありませんでした。
しかし、主観的にも、客観的にも、運動能力が低いので、内なる自己認識と現実が、ぶれず、「欺き」のない「幸せ」な状態です。

外見

ここは、個人的には、問題を抱えています。
私は女性なのですが、物心ついてからこれまで、「かわいい」とか「綺麗」という単語と無縁でした。普通、事実以外にも、お世辞とか気を引くために、子供の頃や若い時には、このような言葉を何度となく聞かされるのが、女性の大部分だと思いますが、わたしは違いました。
客観的にも、これらの言葉に該当しないのは、明らかです。主観的にも、「外見」では勝負をしないという戦略をとるのが、賢明でした。社会人になっても、汗を沢山かく仕事だからと言い訳し、化粧を全くしませんでした。投資に見合うリターンが無いのですから。客人の通訳や案内のためにスーツを着なければならない場合にだけ、口紅のみ引いて、同僚が「どうしたのですか?」と目を丸くしていた(失礼な!会社の名札付けて他人の前に立つんだから!)のを思い出します。
しかし、無意識のうちに、外見に劣等感を抱くという、コンプレックスな状態に、自分は気づいていませんでした。
このような無意識の劣等感をもつと、一生のうちに稀に聞く、お世辞である、「肌が綺麗だ」(そりゃ一日に5,6回も顔をジャブジャブ水洗いする仕事ですから)とか「日本語が丁寧で綺麗だ」(長い外国生活のあとは、嫌味にとられないよう、外来語は避けまくり、敬語を使い倒したので)が異様に耳に残るという、歪んだ心理状態になります。
年をとってから、ああ、自分はずっと前から本当は、「かわいい」とか「綺麗」って言われたかったんだなあ、それを自分で認めることが出来なかったんだなあとわかったのです。つまり外見に関する現実に即した自己認識はあったにせよ、自分の欲望と現実にずれがあったわけですね。
土俵を降りてから、理解できたのは、遅い!「幸せ」ではなく、滑稽でした。

知的能力

ここも、運動能力と同じように、先ずは学校生活が自己認識の一助となりました。
義務教育中は、所謂「お勉強が出来る」生徒でした。実技を伴わない勉強は大得意でした。母は、「井の中の蛙」にさせないため、当時の国立大の学生が行う難しいサマースクール体験や国立大付属校受験体験をさせて、世の中にはもっともっと賢い同年代の子供がいることを教えなければなりませんでした。
高校・大学・大学院・留学と、知的能力の選抜のお陰で、同じようなレベルの人たちと交流する機会が増え、また企業の研究者として、研究業務に携わって、職業人としては終わりました。
職業人として研究活動中は「幸せ」でした。会社の方針に沿う必要はありますが、知的能力をなんのブレーキも無く、全力で振り向けて活動できましたから。
知的能力を前面に押し出す仕事として、例えば棋士、研究者、小説家を挙げてみましょう。単純化すると、こういう職業は、能力を存分に発揮し、成果を挙げればいいので、自己評価うんぬんを気に掛ける無駄な暇はなく、将棋の勝ちを重ね、研究結果を発表し、作品を世に出すことに、途中の過程を含めて全力投球するればいいのです。自分の能力を超えることは元々出来ません。集中している間は、基本的に「幸せ」と言えると思います。
問題は退職してからです。「優越感」をもつことは恥ずべきことだという認識があります。「謙虚」は美徳という道徳観も日本は特に強いですが、国際的にもあるレベルより上の人には一般的です。優越感を見せるのは自分の損にしかなりません。しかし、これは私くらいの年齢の女性に特有だと思いますが、悪い意味での昭和気質の男性が、私が女性というだけで驚くような言動をします。無駄な謙虚さで、舐められるのはまっぴらなので、ここでは知的能力を誇示し、相手に警告しなければならない場面があります。自分を素直に出し、学ぶべきは学び、行動すべきは行動するのが、「幸せ」かもしれないと、文字通りもがいている状態です。
加えて、最近知った、ダニング・クルーガー効果という現象があります。乱暴に要約すると、能力の低い人ほど自分を過大評価するという恐ろしい事実です。無能ほど自分が有能だと思い込むという現象は、このような言葉で表すのは未知だったとしても、SNSを見ていれば感覚的に納得できます。ここから学べることは、自己の知的能力の現実と自己評価を一致させることが、いかに困難かということです。肝に銘じておかなければなりませんが、だからといって一致させられるわけではありません。

考察

ここまでを、まとめると、「運動能力」については、「欺き」はなく、「幸せ」な状態と言えるでしょう。事実と自己認識に差がないので。
「外見」は、抑え込んでいた欲望という「欺き」があって、「幸せ」というよりも滑稽な状態ですね。
「知的能力」については、どれ程の「欺き」が自分の中にあるのかもわからないという困った状態なので、「幸せ」どころではないといったところでしょう。

ここに「老い」という避けがたい要素が加わります。
「運動能力」も「外見」も「知的能力」も衰えていくのです。これは事態をもっと困難で、ぶざまなものにしていくでしょう。
衰えを認識して、自己認識と自己評価を、現実に呼応させて、下げていかなければならない訳です。希望の真逆、楽しくもなんともない見通しですが、これをずらせてしまうと、いわゆる「老害」状態になりそうです。
以前から、自分の弱点を認めるには、自分自身への「欺き」を排除しようとする強さとしなやかさがないといけないと感じていましたが、今後は増々、強さとしなやかさを失わずに、自己評価を適切に下げていけるかが、肝要となりそうです。

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