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「本当の自分」なんていない

コーチングを提供していると内省や自己理解についての質問をもらうことがあります。その中で、下記のような質問をいただきました。


「自己理解」と「自分は『こういう人間である』という思い込み」の違いはなんでしょうか? 自分のことを理解したいとは思いつつ、思い込みにとらわれてその先の行動が狭まることを懸念しています。単なる思い込みに陥らないための理解の仕方などがあれば教えていただきたいです!
原文を加筆修正したもの


なるほど「自己理解」と「思い込み」の違い。ちょっとおもしろそうなので、今回はこの質問について考えていきたいと思います。「自分も気になるな〜」と思った方はぜひ以降も読み進めてもらえると嬉しいです。それではどうぞ。


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「自己理解」と「思い込み」の違い。言葉を少しかえると「本当の自分」と「本当の自分と思い込んでいるもの」の違い、という認識でよいでしょうか。たぶんそうだと思うのでその前提で話しますね。


結論から言うと「本当の自分」なんてものは存在しません。なので、「本当の自分と思い込んでいるもの」も同様に存在しません。ちゃぶ台をひっくり返したかのような回答ですみません…。


ポイントは、自分にはいろいろな側面があって、かつ、「側面しかない」ってことと、その側面も変化するってことです。


僕でいうとですよ、スプラトゥーンを楽しいな〜と思ってるんですが、負けると悔しいのでスプラトゥーン嫌だな〜と思ってもいます。それに加えてスプラトゥーンやってると本読む時間も減ってよくないな〜と思う自分と、そんな生産性を意識している自分も嫌だな〜と思ってる自分もいます。


これらのどれが「本当の自分」なのか。答えはぜ〜んぶです。これと似たような話で、話す相手や環境によって自分の態度が変わることを嫌だな〜と思ってる誠実な人がいますが、これも「本当の自分」が存在する、という勘違いから生まれる苦しみだと思っています。この辺の話は平野啓一郎さんの「分人主義」の話ですね。リンク貼っておきます。




もう少し「本当の自分」なんていない、の話をしましょう。オープンダイアローグという精神療法がありまして、その療法に多大な影響を与えたミハイル・バフチンという人がいます。この人の思想がおもしろいんです。


意訳ですが「この世界に独立した個人など存在しない。他者との相互関係の中にのみ人は存在する。それはつまり、対話のなかにおいてのみ『わたし』が存在するということである」と言ってるんですね。


誰かと話している時にのみ自分という存在が立ち上がる。話す相手によって自分は変化するので、固有のわたし、つまり「本当の自分」は存在しないというわけです。


これと似たような話を最近知人に教えてもらいました。「諸法無我」という仏教の言葉で、その意味は「すべてのもの事は互いに影響をしあっていて、何一つとして単体で存在する(=我)ものはない」。これも「本当の自分」なんていないと説明してくれています。



「本当の自分」は存在しない。その視点に立つと、それを求める苦しさから解放されます。けど、「本当の自分」なんて存在しないと考えると、「え?じゃあ自分はどうすれば…… 」と不安になることもあるかもしれません。



答えがないっていうのは怖いですよね。「こうすればいい!」ってのが見えない仕事ほどストレスがかかるのと一緒です。けど、まあそれに耐えるしかな。その不確実性に耐える力(ネガティブ・ケイパビリティ)を一緒になって育みたいな〜と思いながらコーチングを提供しています。


この考えを受け入れるのはなかなか難しい。けど、この考えこそが多様化する社会で大切だと考えています。目の前の人を「嫌だな〜」と思っても、それはその人の全ててはなく、ひとつの側面である。


側面はたくさんあって、今自分が見えてない側面を好きになるかもしれないし、まあ好きになれる側面がなくても、今後その側面が好ましい方向に変わるかもしれない。そんな温度感で人と接していきたいなと思っています。「そんな考えもあるんだな」とひとつの側面としてこのnoteも受け取ってもらえると嬉しいです。それではまた!

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