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寛容と共感

職場で「マルハラ」が、話題になった。
昨今は、若手に寄り添う、離職させない、離さないために何かと砂を噛み締めるように管理職は努力をする。

無論、昔からの徒弟制度がまかり通るところもあるが、なんとはなしに「何々ハラスメント」が爆誕しては、先達は戦々恐々する。

他者は自分でない。
また、自分を理解してくれる人も自分しかいない。

家族や親友、パートナーですら、寄り添うにも限度はある。
基本的に(とわたしが書く「基本」も、わたし基準だ。)人間は互いに100%は、わかりあえない。
互いに折り合いを無意識につけながら、自分には理解できないことはおいやりながら、互いを大事に、または適当にしておいてくれる。

マルハラも、それを定義した人が言う説であり、すべからく日本語を扱う若者?に意見を聞いたわけではない。

だからと言って、拒絶もできない。

もしかしたら、わたしがテキストを送る誰かは、「オミックによる、なにかしらのハラスメント」を感じているかもしれないわけだ。

だが、それは相手基準だから
わたしがそれに心を砕いても、誰かには響いてしまう。
(言うなれば、わたしが言わんとして書いているこの文章も、誰かにはちんぷんかんぷんだし、誰かには意図は伝わっても「ふーん」で終わるし、もしかしたら誰かは共感してくれるかも知れない。)

Twitterがなんだかんだで人気なのは
「言いっぱなし」
が簡単だからだろう。

誰だかわからない匿名性と
誰か有名な人に届くかもしれないワクワク感
突然バズるツイート
等々

noteも、呟けるが
「いいね!」や、「ダッシュボード」を気にしてしまうし、気づけば誰かわからない読者に寄り添いたいと感じてしまう。

話はマルハラから大分それたが
人は共感してほしいし
寛容は難しい生き物なのだな、、、

と「わたし」は、感じたのだ。

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