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なんとか400

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なんとか400字ちょうどで書く、記録か記憶。
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向き合う角度と心意気をずらしたら

真正面に向かって仕事をしてはいけないタイプの人間がいると思う。 まともに、ちゃんと、真摯に、そこに血流注げるの凄いことなのだけど、向き合いすぎて、視野が狭くなって、空回りしがち…って少なからずいる。 よく笑いの説明で「緊張と緩和」という表現がされるけど、緊張だけで仕事していて、自分にも周りにも緩和がないから、みんなキツくなっちゃうみたいな感じ。 何事もまじめに取り組んじゃうのであれば、性質に乗っかる術も身につけたいところ。 勝手に標準を定めグググとのめり込める良さがあ

週1のお店を2つ、オープンしてるわけですが

「週1でお店を開く」というスタイルは、わりとどんな職業の人でもやれるんじゃないか。 自社プロジェクトとして、4月から週1でやるお店を同時に2つ(本屋とカフェ)はじめたわけだけど、「うん、週1っていうペースが悪くないかも」という感想。1ヶ月(各4日)ほど試すなか、すでに伸び代を感じている。 その(小)商いにポテンシャルがあるなか、じゃあ他とのバランスをどうとりながら、「もっと」と踏み込んでいくのか。そのタイミングについては、もうちょい今のペースを味わってから調整方法を考えて

無気力365日

5月が終えても去らない5月病と知り合って、どれくらいの年月が経つのだろう。 以前は「6月ならまだしも7月まで」と書いてたけど、今じゃほとんど年中付き纏われている気がする。無気力365日。5月だけのものにしておくのは勿体ない!と各月がシェアしはじめた。人気者はつらいね。 そう、調子良いことがデフォルトなわけがない。自分に期待したいところで何かが変わるわけではない。変えられるのは、期待うんぬんの信仰ではなく、身体を動かしたぶんだけのリアルな蓄積だ。 「うまくいかなくて当然」

意識できないから「塵」なんだ

塵も積もれば山となる。ではないけど、たしかに気づけば「あ、こんなに溜まってたんだ!」というものはある。 もう15年ほど付き合いの先輩と、それぞれのブログを介して「交換日記」をやっている。ちょうど1年が過ぎた。 直前に何をしていたか(考えていたか)といった超近況に加えて、最近チェックしてる本や映画などのコンテンツ共有がいつの間にか主たるものになっている。 相手の文章に反応する部分もあれば、読んで気になったとしてもいちいち反応せずにスルーすることもある。どちかといえば、相手

ものは

何事も、ものは試し。 ……と思ってはいてもなかなか手を出すまでには時間と勇気がいる。であれば、意識の強さなど頼りにせず、環境の強制力に身を任せちゃったほうがいい。 4月から学生に通いはじめた。ほぼ毎回、課題が出されるので、仕事とのバランスを大いに崩し、ひぃひぃ提出に追われる1ヶ月であった。 先日、SNSに関する講義があり、「TikTokアカウント作成し3投稿せよ」という課題があった。ここで初めて、気になるも消極的だったツールについに踏み込めた。 正直、使いはじめても「

昔ばなしと悪巧みのマーケティング

良いことだけでなく、悪いことにもマーケティングは役立つ。 『まんが日本昔ばなし』 で放送された「二ツ道のおいはぎ」では、追い剥ぎのずる賢さに唸ってしまった(物語の肝はそこではないけど)。 栃木の山奥にあった平野村には馬頭街道が通っていて、ここを通らなければ、他の町まで行けない。つまり、物の売り買いもできず生活に困るわけだ。そして、街道には家一軒もなく、助けも呼びにくい立地ときた。 ここに目をつけたのが追い剥ぎで、村から物を売りに行く/よそから買って帰って来るところを狙い

黒(苦手)が白(得意)にひっくり返るとき

人間関係に対する姿勢がよくないと親にツッコミを入れられたのが小学生のときで、人に会わず机かテレビにかじりつく自分は「人間関係×」というタグが確実にあった。 そのときの記憶はえぐく凄まじく、引きずっていたのか大学生になってからの人生初バイトは接客業を選んだ。苦手なら苦手なりに克服できる、鍛錬の場にいけばいいんじゃないかという逞しさを不思議と持っていた。 「処世術」とはいったもので、コンビニ飲食店などいろんな対人のバイトを重ねるうちにいつの間にか人との会話も苦じゃなくなってき

徒歩とメモは比例する

月に2回は外に出る。それ以外はほぼ家か徒歩20分圏内をうろつく生活だ。「散髪」と「買い出し」、今日は月2回分をまとめて行ってきた。 髪はお店を変えるから、また数軒まわる羽目になるのかと覚悟してたけど、まさかの1軒目でもう良さそう。次もここで。 買い出しは、fabmixという飲食店メニューの試作のために大好き業務スーパーであれこれ物色。時間さえあればずっと商品を眺めていられる。 fabboxと同じく立ち上げ期のfabmix。何事も「はじめる」ときに体力を使う。でもここでノ

。こわい

35才の大したことのない年齢でも、ジェネレーションギャップってのは偉そうに感じてしまうわけで。 「マルが怖い」 若い人たちの中には、LINEなどのやりとりで文章に「句点(。)」がついてると「圧」だとか「怒り」を感じることがあるそうだ。「マルハラ(スメント)」なんていう言葉もあるとかないとか。 なんじゃそりゃ、もう行き着くとこまで行っちゃうと本すら読めないじゃん? と反応してしまった。が、逆に考えれば、想像力が豊かとも言えるのかもしれない。しかしまあ、勝手に予想して勝手に

コピペで造られた話題なんて

いまだにXという言葉に慣れない。鳥がいい。 そんなTwitterでは「話題」を覗くのがわりと好きだ。今、日本にいる人が何を気にしてるのかを眺めながら、自分の関心とのズレを確認できるから。 昨日だったか、「炎上店主」という話題で、外国人観光客に「日本では日本語を喋る努力をしろ」と主張した居酒屋店主に関するポストが並んでいた。 「日本なんだから日本語を」うんぬんの是非はさておき、気になったのは、似たような……というか完全にコピペされたポストが幾度も並んでいたことだ。 アカ

息継ぐ間もなく

そんな気分で、今を迎えている。 目に見えるわけもないのだけど、疲れの湯気が身体からじんわり湧き上がっているような、ひどく研ぎ澄まされたエグゾーストティド。 洗練された疲弊はもはや人を休ませない。この状態だからこそ新たに開眼できる力があるんじゃないか…..という下心が人を動かすようで。だからか、まだ布団に潜り込もうとは思わない。あら不思議。 余計な力が抜けたときに真の力を発揮する。『ダイの大冒険』で主人公ダイが「大地斬」という技を習得したときのように。今なら斬れなかったも

「死」のない、だらけた「生」活は避けたい派

ものに溢れすぎて、いろいろとコントロールできるものが増えた現代だから、人間として抜け落ちてしまった感覚があるんじゃないかと怯えている。 だから、昔の人がどうであったかをなるべく想像するようにもしている。 「55才で死ぬ」と仮定して日々を過ごすようになったのも、かつては平均寿命が短かったんだよなと沁み入ったから。 人生100年時代と言われてはいるけど、正直「100年なんて長すぎるっ!」とツッコミを入れたくなる。それに、いつまでも長生きできると思ってると、1日1日を粗末にし

無駄かい

去年の数ヶ月「企画メシ」に参加した。そこで一緒にグループ課題に取り組んだメンバーと定期的に集まることにしている。 「無駄印良品」という企画をつくった流れから、今でも近況や世間話を交えながら、無駄についての共有をゆるやかにしている。そんな「無駄会」がさっき終えた。 「最近みつけた無駄は?」 小さな宿題の提出をしつつ、現代人の「ムダな反応」の共有にはじまり、仏教、マインドフルネス、落語、探求学習、ピクミン、散歩、ジャーナリング、U理論などの話題に連想で広がっていく。 まあ

「能力ガチャ」は待ってても回らない

「できないから、やらない」 ひどくシンプルかつ速攻で新しいことを拒絶する言葉に出会ったとき、これは「呪いだな」と思ってしまう。 「できない」からやらない、は、やらない理由にしちゃいけない。だって、「やらない」から、ずっとできないままなのだから。やって、やって、やって、その積み重ねが「できる」に変わるのだから。 一度やってみたものの、うまくできなかったのか。まわりに馬鹿にされたのか。そういうイヤな記憶に引き摺られて、「やらない」選択肢をとり、一発ですぐにうまく「(チート)