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ムダに成長しなくてもいいから、衰えず続けてくための邪魔せんで。

25歳くらいのときに「成長しなくてもいいや」と思った。といっても、これは諦めの話とかではなく。

「成長しないといけない圧」への違和感ってあるよねぇ、と知人とぐだぐだ雑談していたときに、10年ほどの前の出来事を思い出した。

当時、仕事旅行社のプランナーとしてほんのちょこっとお手伝いさせてもらっていたが、京都で唐紙を扱う「KIRA KARACHO」のトトさんの話を聞く機会があった。

襖文化が続くために産業がどうあるか、の話が印象だった。そこから、成長よりも継続(生きながらえる)という意識に大きくシフトしたんじゃなかったっけか。

「成長」よりも、変えたくないもののために変わり続けるという「不変に向けた変化」なのではないだろうか。変化することで、自分の大切にしたい不変のものを守り、ただただ持続していけるように。

「成長」は本当に必要なのか?

話はすこし逸れるけど、亀のようにのっそり読み進めている本『訂正する力』では、「訂正する力は続く力」だと記されてる。”ものごとは訂正しないと続かないから"だそうだ。

時代はつねに未来へと進んでるのに、過去の一点ばかりに焦点を当てていると、変化に対応できずにただ朽ち果てていくだけ。「盛者必衰のことわりを表す」である。ちょっと考えてみれば、そりゃそうだと呑み込める。

この話って、団塊世代とか人口が多かった頃の「昔はこうだった」というルールを引きずって、新しいことに挑もうとしない地域のジジィたちの姿勢に通じるんだよなぁ(ぼくは古くさい悪しき男性社会がムカつくので、あえて”ジジィ”と書いている)。

自分たちだけが変わろうとしないのはべつにいいんだ。強制できるもんじゃないから。ただ、あんたたちが変えてくための実権を握っちゃってるせいで過去のまま時が止まり、変化を凍結され、いつの間にか地域として置いてけぼりになって、不穏な気持ちになる若者たちはどうすんだよ。そういうの、わかってんのかな。見ようとしてるんかな。

むやみやたらに成長はせんくてもいい(そもそも「成長してかなくちゃ」という価値観が過ぎ去った時代のものかもしれないし)。ただ、衰えず続けていきたい。のらりくらりとでも、生きながらえていく余白を許してほしいだけなのだ。その邪魔をするくらいなら、次世代にバントをすんなり渡してくれよ。約束だよ。

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