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ただの「移動」でも / 「旅」のハレとケ

 目の前に、骨折なのか打撲なのか、左足にギブスをつけた女子学生が座っている。狐のようにシュっと細長い顔と眼をしていて、睨んだようにスマホをじっと見つめている。
 
 なんとなくの雰囲気でいえば、バレー部だろうか、うん、そう思ってみると、バレー顔に見えてきた。ちなみに、◯◯顔ってのはよくあって、野球部顔とか、サッカー部顔とか、派生の違うものでいえば、沖縄顔や東北顔とかのローカルもの、事務顔や広報顔などの職業ものがある。

 で、ボクのなかで、その女子学生の各所の細長さってのは、バレー部顔を彷彿させたのだった。とりあえず、部活中に怪我でもしたのかな? という推測を一通りすると、もうその子への興味関心は一気に冷めていて、自分のスマホに目をやるようになり、必要分の情報をチェックすると、目線は窓の外の風景に向いていった。

 最近は週2回ほど、鳥取大山から島根松江へ電車へ通っている。わざわざ隣の県へ? という感覚を持つ人もいるかもしれないけど、関東でいえば、千葉や埼玉から東京に通うようなもんである。

 都内の通勤30分内で、ギュウギュウの乗車率のなか、立ちで、細かく路線を乗り換える。という煩わしさというのは一切なく、30分とか1時間ほどずっと座って乗っていられるので、本を読んだり、考え事に惚けるような余裕がいくらかある。

 もともと、移動が好きなのだ。それも、どこか知らない場所へ行く、という“目的地”自体が目的ではなく、電車なのか飛行機なのか徒歩なのか、はたまた移動距離も問わず近所から外国まで、その行って帰ってくるまでのA地点とB地点をつなぐ移動の“狭間”が妙に落ち着くし、心地よさを覚えている。

I DO IDŌ

 をちょっとしたコピーとして決めて、「移動を思考する」という小さな小さなライフワークのなか、「移動が自分(人)にもたらすものってなんだろう」と移動するとき毎度ながら考えているのだけど、「そもそも移動って何やねん」っていう問いにぶつかれてることがもうその意味の一つ、あるいはファーストステップのような気もする。

 ド直球に意気込んで非日常を求め期待を込めてどこか遠くへ行く。みたいな、いわゆる「旅」をしなくても、日常のなかの細細とした「移動」があれば、その移動中に見える風景のなかで、ふとした気付きがあるだろうし、それが自身の内面に、日々の暮らしに跳ね返ってくることはいくらでもある。

″自分探し″であろうが″自分無くし″であろうが、いつも何かをくぐり抜けるときの“狭間”(“境″とも言えるかもしれない)にヒントはあるんじゃないだろうか。

 そういう意味では、基本が出不精で、いうほど外にも、そして遠くにも行けてはいないこの身だけど、毎週どこかで旅のエッセンスを得れてはいるのだと思う。

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