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地方を「日本語の通じる外国」と考えれば。

"同じ"なのに伝わらないともどかしい。

一つでも共通点を見つけると、不思議と「距離を近づけるのではないか」と思ってしまうことがある。ただそう思ってしまうだけで、じっさいには勘違いだったりもする。勝手に期待して、勝手に裏切られた気持ちになるとはこのことだ。

"同じ”にもいろいろあるのだけど、ぼくら日本人は”日本語”に少し頼りすぎてるのかもしれない(海外だと自分の母国語をしゃべらない人のほうがマジョリティだったりもするから)。

海外で現地の言語をうまく使いこなせなくて、自分の伝えたいことが伝わらないと、孤独を感じやすい。伝わらないもどかしさで、言葉の壁って高いんだなぁ、とも思うだろうし、マイノリティの立場をここで味わうこともできる(自国では言葉に守られてきたことに気づく→しんどいだろうけど大事な感覚ではある)。

ただ、それ以上に孤独を感じるのは、日本にいるのに日本語が通じないときじゃないだろうか。

今日、ちょっとした地域行事のボランティアの役割分担の連絡が来ていた。ぼくは「当日は、イベント前後の準備と片付けであれば手伝えますよ」と伝えていたにもかかわらず、イベント中の役割が振られていた。びっくりして連絡すると「同じ会場にいるかと思って…..」という返事が返ってきた。いやいや、たとえ同じ会場にいたとしても「イベントの前後で」と時間の制約を先にも(LINEでテキストとして)伝えていたはずだから、その言い分はちんぷんかんぷんである。しかも相手は役場の人。こういうことが何度も積み重なっている。も、もどかしい(同時にズレが生じた原因も探りたい…)。

同じ日本人で同じ日本語を使っているはずなのに、なぜこんなにも伝わらない? 国語力うんぬん…..という話はあるのだけど、それはともかく、似たようなディスコミュニケーションを味わったことがある人は少なくないだろう。

新宿駅、または渋谷のスクランブル交差点、世の中にはこんなに人がいて、同じ時間・同じ場所を共有しているはずなのに、知り合いが一人もいない。そういう孤独にも似ている。

ただ改めて書くと、同じことに甘えてはいけない。

沖縄で育ったこと、東京に住んでいたこと、そして鳥取にいること、これらの経験から感じるのは、ぼくらはそれぞれ違う地域性なのにもかかわらず、すべてが同じ"日本"として括ってしまいがちなこと。わかりやすい解釈のために、属性を同質化させる悪癖がある。

京都の"お茶漬け"のような繊細なローカルルールはどこにでもあって、見えないところにいろんな地雷が埋まっているし、何かを始めるときの挨拶まわりも順番ミスるとおっかないし、相手との距離の近づき方はスパイが屋敷のレーザーを潜り抜けるくらいの緊張感がある。

同じ日本で、同じ日本語を使うのに、伝わらないことばかり。これが落とし穴なのだ。そして、この落とし穴にハマりがちなのが、地域おこし協力隊のような移住組なのだとも思う。都会にいたときと同じようなコミュニケーションを図り、伝わらないと「なんで?」と腹を立てる。見えにくい微細なルールを見ようとせずに、相性がよくなかったと町を去る人の話を何度も聞いてきたし、眺めてもきた。

少し話は変わるけど、外国語系の大学にいた縁もあってか、現役の後輩の学生たちがときどき、鳥取滞在をしたいと遊びにくることがある。彼ら彼女らのほとんどが東京千葉埼玉神奈川あたりの出身が多く、いわゆる田舎体験が初めてのことが多い。そのせいか、いろんな異文化に触れ、刺激を受けてからまた都会に戻っていく。

その様子を眺めていて、ふと自分の学生時代を思い出した。ぼくは日本人なのに日本語専攻として学んだ。同級生は、45名中の30名が外国人。海外に興味を持っていた入った大学にもかかわらず、まわりには「日本、超おもしれー」という人ばかり。その影響か「沖縄のときと、今の東京の生活って比べてみると、全然違うよなぁ。同じ日本なのにめっちゃ外国みたい」と気づいたりなんかしちゃったりして。そのときの記憶がなんとなく残ってたんだろう。ライターとして各地を回るなかで、ああ日本列島の多様性よ、とおもしろさを噛み締めた(今でも知らないことが多いし、死ぬまで知らないで終わるのだろうと感じている)。

「日本の田舎は、日本語の通じる外国、と考えるのはどうだろう」

いつしか、後輩たちにそう伝えるようになっていた。日本とは違いがある海外に興味を持つのもいいけど、日本の中にある違いも気づけるといい。少なくとも海外に一度出た人ほど、自国のことについてめっちゃ質問され、そのたびに「日本という国について何も知らなかった」と気づかされたという。本当のグローバル人材こそ、自分の足元にあるものをちゃんと見つめる洞察力を持っている。

同じだと思い込んでいるものの中の違い(異文化)をどれだけ見つけられるか(よー考えたら、同じ地域で暮らしていたとしても家庭ごとに生活文化は微妙に違うから、その発展系であるんだろうけど)。

「目には見えないけれど、″いる″のだ」

妖怪について語る水木しげるさんの言葉は、他のことにも通じるようにも思う。

見ようとしなければ見えないもの、地域にはたくさんある。どうせであれば、見えるようになりたいです。そっちのほうが、世の中、たのしめるだろうから。


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