期待されることも。
やることよりも、やらないことを。
年始めということもあり、どんなことをやろうかしらと考えるのが常かもしれないが、ある程度歳を重ねていくと、どんなことはやらないかという引き算でものを考えるようになるらしい。
時間は限られている。そりゃあたりまえのことなのに、歳の重たさのぶん、その時間の重圧もあるからこその感覚なのかもしれない。
それなりに意味のあることもしたいし、そりゃやっても意味ないぜということも含めて、そのための時間をつくりだすには、やらないことを決めるのは合点がいく。
一昨年くらいから、やらないことリストを決めては、ときどき見直してまたリストを改案してきたが、時期も時期もなのでまた確認してみることにした。
ただぽつりと思い浮かぶことがあった。やること、やらないこと、という二つの視点だけで本当にいいのだろうか。歳の重さというのは、時間だけでなく、人からの思いをも背負わせてくる。
そうなってくると、それだけに意識を持っていかれるのは自分がなくなるみたいで怖い気もするが、だれかの期待に応えることも必要になってくる。
おれはそういう目の持ち方をこれまでしてきただろうか - おそらくない。
もらったお金のぶん、自分がどうこうしよう、という結果についての意識はそりゃ持ってきたつもりではあったが、どうもそれはここでいう”期待に応える”とはちょっとばかり色が違う気がする。
良くも悪くも、小さいころからだれかに期待されて育ってきたという自覚はなく、それはわりかし自由奔放にさせてもらっていたからであり、期待を背負うという感覚はまるで持たずにきてしまったからだろう。
人のため、というとことばはきれいすぎて気持ちわるいが、そういう類でもなく、自分がさして意識してないだけで自分という人間になにかを期待している人はいるかもしれない。いや、少なからずはいるのだと思うし、そう信じたい。
顔を知っているかもしれないし、まったくの赤の他人かもわからないけど、そういう人の期待に応えられるような動きが意識的にできたら、なんとなく今年は去年よりも変われるのかもなぁと思った夜更けでした。
そういえば、かの永ちゃんこと矢沢永吉は「ファンの期待に応え続けることが大事なんだよ」と言っていたような気もする。そういうことなのかもしれない。
やることよりも、やらないことを、そして、期待されていることも。
欲張りかもしれないが、そういう欲張りならたぶん許される、よね?
Photo by Ben Kolde on Unsplash
もしも投げ銭もらったら、もっとnoteをつくったり、他の人のnoteを購入するために使わせてもらいます。