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集中力とゆたかさ / 動画とゲーム、幼少期からマルチタスクな子どもたち

「ながら」に奪われてしまっているものを考えると急にこわくなる。特にパソコンやスマホ、テレビなどの画面を通じた「観ながら」のせいで、注意散漫な生活を送る自分に気づいたときのホラー。タイパがいいように見えて、ながらで同時で行っている二つの濃度はかくじつに薄まっている。

「人間の脳はデジタル社会に適応していない」

という論点で、現代病についてとくとくと書かれた『スマホ脳』では、現代で「集中力」ほど大事なものはないと指摘する。この内容の多くは、自分の身を持って、大きく同意する。脳科学でみても、人間の脳はそもそもマルチタスクに向いておらず、同時に物事を進めるということは、集中力を分散させることになり、パフォーマンスは落ちるという。その結果が、記憶力の低下にもつながる。

デジタルに対応する中で、人間は進化している部分もある。もちろん、そういう観点もあるのかもしれない。だからといって、『「集中できない」現代病を逆手に、スマホ時代の新しい“読む力”』のような論調をいいですねと受け入れるつもりはなく、つねに「一つのことに時間を注ぐ」選択ができないのは人間としての生命力の衰えじゃあないか。そいつを促そうとするメディアや経済の動きについては甚だ疑問である。

みんなも見たことある風景でいえば、電車に乗ったらほとんどの人がスマホを眺めている車両、これには心底ゾッとする。ミュージシャンであるモビー氏の風刺アニメが脳内をめぐる。

数年前のあるとき、自分のこの風景の一部になっていたんだと気づいてから、電車の中ではスマホを観るのをやめて、外の景色や車両内にいる人を観察するようになった。

すると、何百回も乗っている路線でも窓の向こうに映る新たな建物に気付いたり、遠くの公園でひなたぼっこしているおじいちゃんに「あの場所いいなぁ、今度行ってみよう」と思えたり、スーツの着こなしの粗いビジネスマン(おじさん)がスマホゲームを没頭するのを見て人物像を妄想してみたり、違ったたのしみが見つかった。画面の外にも興味深いコンテンツはいくらでもあったのだ。集中の対象が変わったからこその発見だった。

スマホなどのデジタルだけの話でもないように思う。「ご飯を食べながら、漫画を読む」といった、「食べる」ことへの集中力を欠いてしまってるんじゃないか。もちろん、食べてはいるんだけど、なんとなく味がして、それが栄養になって、というざっくばらんなかんじ。これは決して、繊細に何がどう違うのかを考えながら食する「味わう」ではない。

五感をなまけさせている状態とも言える。「味がする」ではなく「味わう」。「聞こえる」ではなく「視る」。「見える」ではなく「視る」。のような能動的に感覚を使えているかどうか。酔いたいための酒はそれはそれでいい。けど、味わうための酒が生み出す思考や体験は少なからずある。そして、味わおうとする姿勢から育まれていくのが文化でもある。

すこし話は飛躍するし、普段はあまり連呼したい言葉ではないのだけど、生活に「ゆたかさ」があるとすれば、それは向こうからやってくるものではなく、目の前ある状況の中で感じとるものなのかもしれない。そして、感じとるためには衰退しゆく集中力をどう取り戻していけるかが肝になってくるのではないだろうか。

ニンテンドースイッチをいじりながら、タブレットでYouTubeを流している子どもたちをよく見かけるけど、未来への危険信号を感じてしまう。ただ今はそれが日常茶飯事になっている風景があり、先々に現れる(脳と習慣の)変化ということもあり、リスクが娯楽や効能に紛れてうまく隠れていてるよなぁ。



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