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ル・クルーゼの鍋と妬み

いじけない、妬まない、間違ってなんかない。
私が子供のころから大好きな大黒摩季さんもそう歌っている通り、人間いじけたり妬んだりするとろくなことがない。
人が持っているものを欲しがっても得することなんかないのは、何十年もかけてこの身に刻んできたことだ。

思えば足りないものの多い人生であった。
まず私はブスである。どちらかというとではなく、初見でブスの棚に放られるブスだ。
何が悲しいって、ブスであるがゆえに自信がない。今の時代を生きていくのに必要不可欠とされる自己肯定がまったく身についてこなかった。廊下で違うクラスの男子にブスと罵られ、忘れ物を貸してあげた知らない女子からはこんなブスに借りたくなかったと嘲笑われ、合コンでブス枠だと笑い者にされ、すれ違う酔っぱらいにブスと叫ばれる。いや無理。これで自己肯定感を養うのは無理である。顔が全てじゃないとは言うが、なんであれ否定の言葉をかけられることで肯定感が下がっていくのは当たり前の現象ではないだろうか。
そしてさらに貧乏でもある。病的に、というよりはおそらく病気なのであろう母は、婚家の金に何度も手をつけ離婚になった。それでもなぜか母に引き取られた私は、お世辞にも裕福とは言えない祖父母の家で暮らすこととなる。これは声を大にして言いたいことだが、私は祖父母に深い愛を注がれて育った。母からもと言うのは少々憚られるが、少なくとも祖父母からは大事に大事に育ててもらった。だから本心ではこれを「足りない」とは思っていないのだが、他の人と比べて欠いてしまったことは客観的な事実であろう。離婚から2年ほどで、母は失踪した。この瞬間私は「親のいない子」になったのである。離婚したとはいえ父とは定期的に会えていたし連絡先も知っていたが、立場上電話などかけられなかった。そのあたりは察する子供だった。
こうしてブス、貧乏、親なしと揃えて、「足りないものの多い人生だった」と始めたいと思う。

正直私はとても欲深な女である。授業で「足ることを知る」という話が出た時は、ポルナレフに口説かれたエンヤ婆の心境であった。
欲しいものはとても多い。やりたいこと、行きたい場所、食べたいものとなるともう古代の巻物である。WANTの塊。強欲の権化。そんな私であるから当然、他人を羨むことは本当に本当に多かった。
この年になって急に、人を羨むことに疲れてしまった。羨むというよりは、妬み僻むことにだ。
ただでさえ欲しいものが手に入らない上に、妬んでモヤモヤしてそんな自分に自己嫌悪でもうデメリットしかない。マイナスだらけの未来は要らない。頭ではわかっていてもなかなか追い付かなかったそれに、最近ようやく心が追いつき出した。いや追い付いてはいない。追いかけ始めたのだ。
他人の持っているものは、他人の努力の結晶である。
ただその事実だけが、私から妬みを遠ざけた。
欲しくて欲しくて努力した経験が私にもある。だからこそ、人がどれほど努力したかを私は理解できるのではないか。
独学でニ級建築士の資格をとった友人が、人の何倍も勉強しなきゃいけない、と言っていた。彼女はとても真面目な努力家だ。彼女のその血の滲むような努力を、仕事以外の時間のすべてを勉強に費やしていたという日々を、「いいなあずるい」の一言で汚すことなど私にはできない。
欲しいものはたくさんある。持っている人はたくさんいる。
その人たちの努力に、敬意を払って生きていこう。
そう思えるようになった自分を、少し肯定してやりたい。なんと、すべてが良い方に転がるではないか。
妬まない。僻まない。めげないしょげない泣いちゃダメ。
こうして私の中に一本の芯が通ったのだった。

そして今年の正月、父の家を訪問した。
寿司や蟹や、父が客と見ると振る舞う自慢のお好み焼きを食べ、満足して帰宅した。が。
スルーしようとしてもできない、脳にこびりついた映像があった。何度も何度も巻き戻してはその場面が脳内で再生される。
父の家の台所にあった、ル・クルーゼの鍋の箱。
私はル・クルーゼが欲しかった。とても欲しかった。しかし結構良いお値段がするし、と堪えているうちに憧れは崇拝へと進化して、もはや欲しいと思うことすらなくなる程だ。これは車で言うとフェアレディZで、手に入れたい気持ちが強すぎて逆に薄まり、姿を見かけるだけで眼福に胸躍らせる存在である。
そんな。そんなル・クルーゼがなぜ、父の家に。
父はお好み焼きは焼くがご飯は炊けない。そばのつゆは作るがカレーは作らない、といったエクストリーム冴えないおっさんだ。ちなみに髪も歯もない。そんなおっさんがなぜル・クルーゼを。
答えは簡単。父は昨年再婚したのである。
これについては特筆を避けるが、父以外ほとんどの人がパパ活だと思っている。そんな再婚だ。
私も再婚前は「いいなあ、私も欲しいな。車輪付きのATM」と言っていたが、妬みを捨てたニュー私はそんなこと言わない。たとえそれが口先だけでも、おめでとうと言う大人となった。
このル・クルーゼの鍋は、再婚相手のものだ。間違いない。
なお、特筆は避けるが、彼女はほとんど料理をしない。同居開始当初は週の半分は父の家にいたが、今は週に一度しかいない。その間の食事の支度は主に私の妹がしていて、時々彼女はテイクアウトの弁当を買ってきてくれるのだという。
この父の家のライフスタイルについて口を出す気はない。彼女のことも好意的には思っていないが別に嫌いというわけでもない。
しかし。しかしどうしても湧き上がるこの気持ち。
ル・クルーゼ要らんだろ。
もう20年近く欲して欲して止まないものを、使いもしないのに持っているとは。特筆は避けるが、間違いなく父の金だ。
だめだだめだ妬んではいけない。きっと大事に使っているのだ。いや、でも。いや、使ってないとしても私には関係のないこと。僻まない。いや、でも。
頭と心をぐるぐるぐるぐるまわって、新年早々に盛大に疲れた。
私はまだ修行が足りず、あのル・クルーゼの箱を見る度に乱されてしまいそうなので、父の家に行くのをやめる。そしてル・クルーゼが買えるくらい働き、ル・クルーゼが使えるくらい料理の腕を上げるのだ。
そうして前を向いて上を目指して生きていかなければ、私はただの足りない女として終わってしまう。
何も足りなくなんてない。そんな考え方は今持っている大切なものに対してとても失礼じゃないか。
ル・クルーゼを前に軟弱な私の決意は傾いたが、なんとか持ち直してきた今日この頃の話。

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