見出し画像

オレンジの片割れ


以前、noteに書いた16歳の愛犬が先月末、息を引き取りました。

このnoteのタイトルの「オレンジの片割れ」は、スペイン語のことわざから拝借しました。

"tu eres mi media naranja"
(あなたは、私のオレンジの片割れ)

 自分の魂のパートナーのことを表す言葉であり、オレンジはひとつとして同じものはなく、半分にしたオレンジにピッタリと合わさるのはその片割れだけだから。という意味があるとか。 

なぜこれをタイトルに使ったかというと、私にとって亡くなった愛犬は オレンジの片割れという表現がピッタリだと思ったから。


私の勝手な思い込みだとしても、この子と私は心の深い部分で繋がっていたような気がしています。
飼い主と犬、という関係性に当てはまらなくて、家族であり、友達であり、時には兄妹のような。10年以上の時間を共に過ごし、この子には沢山の慰めを貰いました。

正直、不特定多数の方が見るようなnoteで 死について書くことは、どうなのだろうかとも思いました。
でも、やっぱりここに残そうと決めました。

なぜそう決めたかというと、2つ理由があって。
この子に対して感じた思いを、忘れたくない一心で書いた文章でもあり、単純に心の整理をつけたかったというのが一つ。
もう一つは、このnoteが小さな命について少しでも考える材料になれば、という思いからです。少し独り善がりで、自分勝手な言葉達かもしれません。

見ている方が、苦しい気持ちになる表現があるかもしれないですが ありのままを書きました。

愛犬の記録をここに残します。
(愛犬の名前は伏せて書いております。)


去年の秋に、膵炎と腎不全・腸炎で10日入院してからほぼ1年。
もうダメかもしれないと何度も思った日々からは、想像もつかないほど回復していった。
ガリガリに痩せていた身体は、今年の夏頃にはほぼ元の体重に追いついた。

腎臓が悪い子はずっと同じものを食べ続けるのは難しいのだが、ほぼ主食じゃない?というほど気に入って食べたのは ササミ入りのお粥。
退院してからも、少しの気温差やストレスで度々腸炎を発症し、病院に駆け込んだ日もありつつ(大体、月1くらいの頻度)お粥だけは継続して食べられていた。

勿論、腎臓への影響を考えて、普通のお粥ではなく お米の滑りを綺麗に洗ってから煮詰めていたし、ササミも茹でてから水で洗ったり。
病気で、制限の多い人生の中で この子が最後の1年間大好きな食べ物を食べられて本当に良かったなと思っている。

朝晩、本人お気に入りのお粥を食べ、お昼は試行錯誤しながらだったものの 腎臓用のフードや缶詰を頑張って食べてくれた。

ちなみに 去年退院してから、水分は全てフードやお粥、点滴で補っていた。
水はほんっとうに極稀に、私の手からでないと絶対に飲まなかった。
多分、腎不全の関係で 水を飲んで気持ち悪くなったことを覚えていたんじゃないだろうか。

徐々に、ゆっくりと食べる量が増え、毎日家で皮下点滴をしていたのが 今年の夏には週に2回になっていたし、決まった時間に「お粥がほしい!」と訴えかけて吠えるようにもなっていた。
16歳のおじいちゃんなのに、子犬の頃のようにオモチャで遊んだりもするようになった。

予期せぬ部分でコロナウイルスの影響も受けた。
この子が気に入っていた、ロイヤルカナンの腎臓サポートの缶詰がジワジワと品薄に。
海外の材料を使っているものだった為、入ってくる量がドドンと減って ついには買えなくなってしまった。
全国的に同じ状況だったようで、通販サイトでも品薄。困っている方がたくさん居たんじゃないかな。

動物病院の先生と相談し、他のメーカーのフードを急いで探した。
腸が弱い子だった為、少量ずつ試さないと嘔吐と下痢を起こす可能性があり 新しいフードを食べさせる時は、いつもヒヤヒヤしていた。


そんな中でも、やっと今年の初夏頃 本人お気に入りのフードを見つけた。
ナチュラルハーベストのキドニア というフードと、
フォルツァディエチ(FORZA10)リナールアクティブというフードの二つ。

ロイヤルカナンの腎臓ケアのドライフードも試したけれど、粒が大きすぎて喉に詰まらせてしまい すり潰すと食感が気に食わないようで。すぐ食べなくなったのでダメでした。
(腎不全の子のご飯に困っている方がいれば、病院の先生と成分など見て 相談できればいいかなと思うので リナールとキドニアのドライフード、良ければアマゾン等で検索してみてください。)


かなり気に入ったようでお昼にも、「ご飯!」と吠えていたし よく食べてくれた。
それでも、お粥がなによりも大好きらしく フードを出しても「いらない。」と。
朝と夜は必ずお粥でないとダメだった。

食事以外では、薬のお話も。
この子は持病が犬にしてはかなり多かった。
膵炎・腎不全・てんかん・結石。
この1年くらいの間で 腸炎は少なくとも月1の頻度で起こしていたので 常に抗生剤を服用。
となると、薬は沢山あった。
最初、薬を飲ませるのには物凄い苦労した。

食べ物に薬を混ぜようものなら、鼻と口を器用に使い 薬だけを放り投げた挙句、その後一切 その食べ物を口にしなくなるような、とてつもなく敏感な子だった。
となると、残された手段はひとつ。薬をすり潰し、水で溶いたものをシリンジ(注射器の針が無いverのようなもの)で飲ませていた。

口に入れようとする度に、そりゃもうガウガウ怒っていたものの 最後の頃にはすっかり慣れて。
朝の薬が終わる=その後お粥がもらえる
夜の薬が終わる=眠る時間 という方程式の元、決まった時間に「早く薬作ってよね。」と言わんばかりの顔で、直談判に来ていた。


びっくりするほど回復したなと思っていた矢先、9月に入った頃 フードの食い付きが悪くなり、明らかに食事量が減少し 再び腸炎に。
季節の変わり目+昨年体調を崩したのも9月ごろからだったから、嫌な予感はしていた。
病院に通って薬を変えたり、試行錯誤したものの回復傾向が見られず これはもしかして。と直感的に感じた。

しばらくして、大好きだったお粥もほぼ食べられなくなり、最後の5日間くらいは何も受け付けなくなった。
それと主に昼と夜、なぜかわからないがウロウロと歩き回っていた。
絶対に入らないような狭い隙間に入ってみたり、私や母の声も姿も完全に聞こえない様子で、しきりに歩き回っていた。
今考えれば本能的に、死に場所を探していたのかもしれないなと母と話をしたけれど、真相は不明。

何ヶ月か前に、似たような感じで 夜中に部屋中を徘徊し、上を向いてにおいを嗅いで 何かに執着するような顔つきのまま 何時間も起きていたことがあった。
てんかんの影響から来る神経症状かな?と病院で言われ、その時は何日かで回復。

でも、その時のような神経症状とは明らかに違う様子だったように思う。特徴を挙げるならば、動きは機敏なのに目が虚ろだったような。視力の低下も一気に進んだようだった。

何も受け付けなくなってから、当然 日に日に状態は悪くなっていって。
身体の中が気持ち悪いのか 急に起きて歩いてを繰り返した。
疲れてしまって 顔から倒れ込むようにして眠ろうとしたりもしていたし、ウトウトしてしまったり、でもすぐ目覚めてしまう為 まともに眠れない日が続いた。

ほぼ1週間 昼夜通して、よく眠れて20分程。
可哀想で撫でてあげたいけれど、撫でられるのも嫌そうな時が何度もあった為、そういう時は手を出さずに 歩き回って怪我をしないように見守りつつ、なるべく自由に歩けるような環境にした。

この1年、そして子犬時代にも大変な思いをしてきたこの子が、「安らかに息を引き取れるように」というのを目標として過ごしてきた。
それでも、沢山の病気を抱えた身体ではそうはいかなかった。

ご飯を食べられなくなってからは、炎症止めの注射と、ビタミン入りの点滴を打ってもらう為に病院へ通った。
腎臓と膵臓が悪い為 脱水が進めば進むほど、嘔吐を繰り返して苦しい思いをしてしまう姿を 今まで何度も見ていたから。

辛そうなのに、懸命に寿命を全うしようとしている
この子を見て、苦しいのを楽にしてあげたくて必死だった。

その願いも虚しく、最後の日の2日前には痛みがある様子でしんどそうな姿を見せるようになり、吐き気もあった。
どうにも状態が悪くなる一方で せめて痛みを和らげてやりたくて、最後の頼みの綱として病院の先生と相談して ステロイド注射をした。


結論としては、うちの子にはステロイド注射に効果はなかった。
最後の日の前日には、とにかく気持ち悪い様子で夜通し から嘔吐を繰り返した。
少しだけ寝転べたと思いきや、5分〜10分おきにやってくる吐き気。
母と私は、2人で交代で朝まで付き添った。

脱水もどんどん酷くなり、鼻も乾き切ってしまって炎症を起こしたのか、鼻水と鼻詰まりで呼吸も荒くなってしまった。
代わってあげられるなら代わってあげたかったし、見ていることしかできないことが辛かった。
母と私は、交代でずっと付き添った。
早く、この子が楽になってほしいと願いながら ただひたすら一緒にいるしかなかった。


最後の日の朝方、幸いにも吐き気が落ち着き 昼前まで転んで眠ったり 目を開けたり、私達の声にも目で反応していた。
どうか、このままゆったり眠りながら息を引き取ってくれれば、と願いながら 少しだけ一緒に仮眠を取ったりした。
それが、最後の1週間の中で1番穏やかな時間だったと思う。

でもそれも長く続かなくて。
昼前には再び苦しそうに 唸っては嗚咽をしたり、徐々に唸りは、掠れた鳴き声に変わった。

起き上がる力もなくなり、首だけ起き上がって鳴く声に 母と私はひたすら「うんうん」と答えるしかなかった。
後ろ足には力が入らなくて、立てなくなった。

掠れた声で鳴いて、再び襲う から嘔吐と闘っていた。小さな手を握って、さすってあげることくらいしか出来なかった。
握った手から伝わる脈が速くなり、そろそろだと思った。
掠れた声で何度も首を起こして鳴く声に、私と母は泣くしかなかった。

その後も、どんどん状態が悪くなっていった。
掠れた声で鳴いて、嘔吐して それを何度か繰り返した後、そして最後は、また鳴きながら吐いて、痙攣してそして心臓の音は小さくなっていった。
ほぼ1週間、飲まず食わずで出なかった便も出て。
身体の中の悪いものを全て出し切って亡くなったような、そんな最後だった。

母と私は涙が止まらないまま、この子の身体を綺麗にタオルで拭いた。
よく頑張ったねの気持ちを込めて、沢山声をかけて 汚れた布団も替えて、いつも寝ていたベットに寝かせた。

あんなに苦しんだ最後だったのに、いつも寝ている体勢と同じ体勢で、同じような顔つきで。
心臓が動いていないことは分かっていても、まだ温かさの残る身体を何度も撫でて、何度も息を確かめた。

仕事でいつも家にいない父も その日は家にいたし、
離れて暮らす姉は、前日までテレビ電話越しに 声を掛けて。
近くに暮らすもう1人の姉も、最後の日の朝 この子が落ち着いていた時間に挨拶に来てくれた。
起き上がれなくても、目をしっかり開けて反応を示していた。

18歳になる この子の母犬も一緒に暮らしているのだが、小屋の中で静かに いつもと違う様子を感じているようだった。
頭の良い子だったから、皆にお別れをしてから旅立ちたくて頑張ったのかなと思った。

姉達にも報告を済ませて、火葬場にも連絡をして。
父とお花を買いに行った。青色が似合う子だから 青がいいなと思って リンドウと真っ白なスプレーマムを選んだ。

またいつものように起きてくるんじゃないかと、淡い期待が心になかったと言えば嘘になる。
あんなに苦しんだ姿を見ていた筈なのに、なんて勝手で、傲慢なことを考えてしまうんだろうと自分が怖くもなった。
早く楽になって安らかに眠って欲しいと願った数日が、壮絶な最後が、穏やかな寝顔を見ていると 不思議と遠い日のように感じられて。
何度見てもいつものように寝ているだけに見えて仕方なかった。

食事はとても喉を通らなかったけれど、ちゃんと見送るまでは 私も母も「倒れるわけにはいかない」と無理にでも食べた。

ビックリするほど、泣いても泣いても涙は枯れなくて今まで生きてきた人生の中で1番涙を流した1日だったように思う。
撫でた時の感触を忘れたくなくて 冷たくなっていく身体を何度も撫でた。一緒に過ごした最後の夜だった。


翌日の朝、この子の母犬と最後のお別れをした。
18歳のその子は、もう目は見えていないけれど、なんとなくわかっていたようで ずっと身体の匂いを嗅いでいた。
そして昔よくやっていたように、トイレのお世話をしようと、身体を舐めようとしていた。
その姿にまた涙が溢れた。

火葬場には連れて行かないほうがいいよね、とお留守番してもらうつもりだったけれど…
いつもと違って、全く寝ずにウロウロと歩き回っていたから 車で待ってもらおうか。ということに。
母と私と、2人と2匹で 火葬に向かった。
多分、一緒にお見送りをしたかったのだと思う。

お線香を立てて、挨拶をしてあげて下さい。と職員の方に言われた時、私は頭の中に沢山の思いが巡って、言葉が詰まってしまって 涙ばかりが溢れた。
最終的に口から出た言葉は、「またね。」だった。
まだ眠っているように見えるこの子も「またね」と言っている気がして。

火葬場の方は、とても丁寧な方で 安心して任せられた。火葬の際、機械の中に入っていく姿を見て また涙が溢れたけれど、しっかりとその姿を目に焼きつけた。

火葬が終わるまでの時間、家に帰ってすぐにゲージを母と片付けた。お骨は家に持ち帰る予定だったから、ゲージのあった場所に置いてやりたくて、黙々と片付けた。

18歳の母犬のほうは、疲れたのか眠ってしまって。
「いってくるね」と挨拶をして、母と再び火葬場に向かい、一緒にお骨を拾った。
細くて小さなお骨を見て 「本当に小さな身体で、命を全うしたな」と涙が出た。
不思議と、安らかな気持ちでゆっくりと拾った。
小さな骨壷を手に持った時、また涙が溢れたけれど 「家に連れて帰るまで、しっかりしなくちゃいけない」と涙を拭って 車のハンドルを握る手に力を込めた。

帰ってからは、最後の1週間食べられなくなったお粥と、お水をお供えした。
大好きだったオモチャも一緒に。

そして、また次の日 10年以上お世話になった動物病院から素敵なお花が届いて、また涙した。
本当に本当に、病院には何度もお世話になりました。


看取った後、本当に最後の1週間 正しい選択をできていたかについても、考えた。
何も受け付けないということは 身体が死の準備を始めていたということかもしれない。
それならば点滴で水分を補う事で、逆に苦しみを長引かせることにもなるかもしれない。
その可能性も勿論考えたけれど、やっぱりやれる事は全てやって、痛みや苦しみを極力取ってやりたかった。

最後の日の前日、苦しむ姿を見て安楽死という選択も考えた。
けれども、敏感なこの子を病院に連れて行くことにより、身体的苦痛に加えて 精神的苦痛まで与えてしまうのではないかと思うと その選択は取れなかった。

この子の看取りについては、私の勝手な考えかもしれないけれど「あの時こうしておけば」という後悔は無いし、介護が始まってから約一年、やれることは全てやってたと思う。
その時できる精一杯の選択をしたはずだと思っている。
他人から見れば完璧ではなかったとしても、完璧な看取りなんてものは、存在しないのではないだろうかと身を持って感じた。


私の生活の中心には、いつもこの子が居た。
体調が悪くなればすぐに病院へ連れていったし、凄く寂しがりな子だったから この1年は特に、1人の時間を作らないように母と協力して常に一緒に居た。

静まり返った部屋の音が、悲しくなったりもする。
朝はいつも薬の後にお粥をせがんで吠えていたし、ご飯の後眠る時 いつも「早く寝ようよ」と私を待っていた。

夜眠る前も同じように、歯磨きをする私の周りをうろうろと歩き回って「一緒に寝よう」と毎晩私の近くで待っている、あの顔がもう見られないことが寂しい。

正直、亡くなってから1週間くらいは朝起きて、夢だったんじゃないかと思ったりもしたし、夢であって欲しいと思ったこともあった。

49日までは魂はそこにある、という話もある。
それでも、当たり前だけど もう姿は見えなくて。
受け入れられないほどの喪失感、心にポッカリ穴が空いたというのはこういうことを言うんだなと 妙に冷静に、呆然と自分の心を見つめる時間があったり、かと思えば どうしようもなく悲しくなったり。

疲れもあっただろうけど、しばらく上手く眠れない日が続いて、体調がよくない日もあったりする。
平気だと思っていても、急に涙が止まらなくなったり、好きなことや人に心動く時間とかワクワクが長く続かなかったり。
"心ここに在らず"という言葉通りの状態はしばらく続くんじゃないだろうか。

とても人の気持ちに敏感な子だったから、心配しているだろうなと思う。だからこそ、食べられるだけでいいからご飯を食べて、眠る。目を瞑って布団に入っているだけで 身体の回復にはなるらしいから、眠れない時はそうしている。

匂いも、撫でた時の柔らかい感触も、小型犬にしては大きくて可愛い手も。
そして決して穏やかとは言えなかった最後も、どれだけ泣いても悲しくても、日々を積み重ねていく中で 一つ一つの記憶が少しずつ遠いものになっている。
その感覚が、少し怖くて苦しい。

人って悲しくて辛いことは 早く記憶が薄れていくのかな、と考えたりしている。生きていくために 忘れるのではなくて、事実を受容し 生きていく為に必要なことなのかもしれない。

「この子には私がいないと」と使命感に駆られていたのは、多分思い違いで。
本当は、逆だったんだと思う。あの子がいたから、私がいた。

先にも書いたけれどこの子と私は、どこか深く繋がっている感覚があった。

人の気持ちにとても敏感で繊細、それ故にストレスを感じやすい子だった。
私の体調が悪かったり ストレスを溜めていたりすると、この子が同じタイミングで体調を崩すこともあった。お互いに心を、半分ずつ分け合いながら生きてきたみたいだった。


敏感なのは、生まれ持った気質でもあると思うけれど、子犬の頃の生活環境が最も大きな理由であったと思う。
身体が弱かったことも、子犬の頃の栄養状態の悪さが関係していたはず。

この子を引き取りに行った時のことは今でもよく覚えている。
最初の飼い主に「飼えなくなったから」と ほぼ放置されていたこの子は、狭いゲージに閉じ込められて、毛も伸びっぱなしで汚れて。その上痩せこけて、ボロボロだった。
かわいそうで仕方がなくて、泣きながらあの子を腕に抱えて家に連れ帰ったのを覚えている。

勿論、栄養失調状態で身体の調子もかなり悪かったし持病のてんかんも、既にあった。
この子は、うちで産まれ貰われていった子だったから。私達家族の責任でもある。

初めから自分達で育てていれば最後も、もっと安らかに眠れたのかもしれない。
病気も、こんなに沢山患わずに済んだかもしれない。
よく知っている人だからと、安心して預けたことに関しては、今でも少し後悔が残っている。

一つ、印象深いことといえば この子は、傘を異様に怖がった。傘に似たものも、同じように怖がった。
最初、それを知らずに 近くで傘を開いてしまったことがあって。
凄い剣幕で吠えて、噛み付くぐらいの勢いで向かってきたのを覚えている。
「あ、傘で痛いことをされたんだな」と当時まだ、私は中学生くらいの子どもだったけれど なんとなくわかった。
歳を重ねても、この子が傘に慣れることはなかった。
小さな身体から見る傘は、とても大きいはず。

傘だけではなく、叱られることに対しても同様の反応だった。ウーっと唸って飛びついてきて、噛み付くこともあった。
多分、一方的に怒りを向けられたり、酷く怒られたり、手を挙げられ怖い思いをしたことが何度もあったのだと思う。
それでも、怒った後は我に返ったように「ごめんね」と言いたげな顔でご機嫌を取りにくる。この子が悪い訳ではないのに。

頭がよくて、とても感受性が豊かで 人の気持ちに敏感な子だった。
私と母以外の家族にでさえ、慣れるまではかなり時間が掛かったし、少しでも「怖い」という気持ちを持っている人のことはすぐ分かるようで。徹底的に吠えて絶対に自分に近寄らせようとしなかった。

これらの拒否反応は、心無い人から与えられた痛みや恐怖を覚えているから起こるものだったのではないかと思う。
犬という生き物は、人の心にある悪意と愛情の違いを、よくわかっている動物だけれど 悪意に触れたことのある子は、より敏感に反応するのかもしれない。

ペットは、人間の思い通りにコントロールしたり、寂しさを埋め、癒しだけを与えてくれるような人形や、ぬいぐるみのようなオモチャではない。自分の言う事を全て聞いてくれるAiでもない。

動物のことを嫌いな人に好きになれ、と言いたい訳ではないし ペットを安易に買うな!と頭ごなしに怒るつもりもない。ただ、考えてみてほしい。
命を預かることに対して、私達は人間はもっと責任を持つべきだと感じている。人の命と同じように ペットにも命があることを忘れてはいけない。

ペットや動物を馬鹿だと罵る人もいるけれど、それは大きな間違いだと思う。
人のように話すことは出来なくても、その代わりに「痛い・悲しい・嬉しい・嫌」を行動や表情・声色で精一杯伝えようとしてくれる。

彼らは、理解してほしいから 私達を理解しようと目を見るし、心を見ようとする生き物だ。
となると問題なのはペットではなく、それを受け取れる人であるか・理解しようと思える人であるか?ということではないだろうか。
人よりも、よっぽど健気で純な存在だと思う。

ペットにも、人と同じ命があり、個性があり、意思があって。彼らにも健やかに生きる権利が必ずあるはずだ。人と人、と同じように 人と動物も、わかり合おうと歩み寄ることが大切なのではないだろうか。

コロナ禍になり安易な気持ちでペットを飼った飼い主が 、動物を動物愛護施設に置き去りにしたり、捨てたりしている。その子達が、どこに行くのか どうなるのかを、自分と同じ命あるものとして一度よく考えてみて欲しいし、現実を知って欲しい。

人間の赤ちゃんと、ペットは共通する部分があるような気がしている。
ただ、可愛いだけでは育てられないし、共に生きていくことはできない。生きて行く為には、私達のサポートが必要である。
きちんとご飯をあげなければ体調が悪くなるし、病院に連れて行かなければそれを治すこともできない。
予防接種を受けないと病気になるし、病気になれば痛くて苦しいし、薬だって必要だ。

殴られれば痛みを感じるし、恐怖も感じる。
そして傷つけられた記憶があったとしても、命ある限り 愛を求めて懸命に生きようとする。人と同じように。

それと、ペットロスについて思ったこともある。
自分に言い聞かせても他人から言われても、同じなのだけれど、「人間もペットも命には必ず終わりがある。」と、分かっていてもどうしようもなく悲しくて 寂しいことに変わりはない。喪失感は簡単には埋まらないということ、

「こんなに落ち込んでいたら、ペットも成仏できない。」と言い聞かせることも、周りの言葉を受け入れようと頑張ろうとすることも辞めた。
心に元気がない時って、無理に人の言葉や考えを受け入れて 頑張ろうとしてしまうことがある。
でも、そういう時こそ1番頑張らなくていい時だと思っていて。
なぜかと言われると上手く言葉にできないけれど…
ヒビが入ったグラスに水を入れ続ければ、いつか必ず割れてしまうことと同じように、不安定な心に負荷をかけ続ければ、心や身体が壊れてしまうこともあると 知っているからだろうか。

ペットと過ごした時間と思いは 自分だけのものだから 自分自身の中で葛藤したり、思い出を巡ったり、何か好きなことを見つけて没頭したり…誰かと話をしたり。
勿論 方法は人それぞれだけれど、浮き沈みを繰り返しながらで良いから、焦らず無理せず過ごすことが、1番の心の薬なのかなと思った。
私自身、こうして書いてはいるものの酷く落ち込む日もあるし、冷静に自分を見れない日もある。
それでも、そうやって自分自身の日々を懸命に生きて行くことが、旅立った愛犬への供養になることを願っている。


ここまで書いたことについて「たかが、ペットにそこまで?」という考えの人も勿論いる。動物の好き嫌いも人による。
考えを押し付ける、という行為に意味がないことも知っている。

綺麗事かもしれない。それでも、こうして言葉を綴ることが意味のないことだとは思わない。
起こる出来事にも、感じる思いにも意味のないものはきっと無いし、誰かかの心に想いが届くこともあるはずで 誰かの意見や経験をキッカケに、理解したい 知りたいと思うことだってある。

そう思えたから、今回愛犬についてありのままを書こうと決めた。
病気が沢山あって可哀想だった。という話ではなく、小さな身体で、懸命に命を全うした子が居たという記録と、愛犬が自らの命を通して教えてくれたこと 考えさせてくれたことを言葉にしたかった。

このnoteが、ペットという存在の大きさと 命の尊さについて考えるキッカケ…というと、少し違うかな?そこまで大きな影響を与えられるような文章が書ける訳でもないし、平凡な20代の私だけれど。
平凡な私の言葉が、誰か1人でもいいから、考える材料となるキッカケの欠片にでも、なったらいいなと。ちょっと烏滸がましいかもしれないけど。


私の愛犬は、世界一可愛くて、思いやりに溢れ 一生懸命に生きた子でした。
そんな愛犬に、ありったけの愛を注いでもらったのは私達家族でした。

旅立った愛犬に「またね。」と「ありがとう。」の言葉を送ります。
愛を込めて。

臆病な一面もあるけれど、散歩中は少し格好つけてキリッとした顔つきで歩くユニークな子でした☺️
虹の橋を渡って、元気に走り回ってね🌈


見てくださった方がいれば、拙い文章を読んでくださってありがとうございます。

そしてBTSを通してnoteで出会った方々の考え、言葉達に励まされたり、コメントでお話したり、そんな日々も私の支えになっていたと思います。
いつも楽しい気持ちや、嬉しい気持ちを貰っていました、ありがとうございます🌠

これからもnoteを書き続けたいなと思っているので、改めてよろしくお願いします😌



◎これは余談ですが、この子の為に購入していたフードのストックや、未開封のシリンジ等は動物愛護施設に送りました。
そのほうが、この子も喜ぶと思ったので。

知ろうと一歩踏み出してみれば 知っておくべきことが沢山あったことに気付きます。
提供品や寄付を必要とする施設が、日本だけでもこんなに沢山あることを知ったのは、恥ずかしながら最近になってからでした。
私に出来ることは少しの寄付や提供くらいだけれど、小さなことでも、出来ることをやれたらと思います。

今回、動物愛護施設に提供しようと思い付いたのは私が大好きなアーティスト BTSが寄付等を続ける姿を思い出したからです。いつも、素敵な気付きを与えてくれるBTSにもありがとうの気持ちを込めて。


おわり。






この記事が参加している募集

ペットとの暮らし

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?