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愛と情は隣人であり、紙一重

愛しさの重さと、手間や世話を焼いた時間の重さは紙一重だと思っている。そもそも愛しさや愛情がなければ、世話を焼くことすらもできないのかもしれないが。
そこに存在していたのは、確かに愛だったのか、それともただの情だったのか。

自身の愛情が相手から離れていく時に、そんなことを冷静に振り返ったりする。
自分の中で気持ちが少しずつ冷めていく時の感覚は、引き潮に波が遠のき、浅く渇いていくような感じに近い。

40年足らずで一番厄介だと思うのは「好きでも、嫌いでもない」という感情だ。それは一般的に情と呼ばれ、一種の人間関係を保つ接着剤のような役割をし、簡単に縁を切れさせないものとして介在する。

時にその時間が、何かを蘇らせたり。より背中を後押ししたり。
恋愛に限らず、この「情」が及ぼす影響は良くも悪くも大きい。
だからと言って情が不要だとは思わない。

よく聞く「こんなに想っていたのに、こんなにしてあげたのに」という言葉は人間ならでは。執着心や記憶力に個人差はあれど、シンプルに言い換えてしまえば「こんなに好きだったのに」なのだと思う。

好きの種類も重さも様々。その後に「だから云々〜」が続くにしても、過ごした時間の中に確かに在った愛や情はひと言ではとても片付けられないからだ。そこで、時に怖いのは、それが愛なのか情なのかを冷静に判断し難いという点である。

そこがすれ違った時、関係は終わりを迎える。ひどく傷つけられる場合もあれば、無駄に相手を攻撃する方向にもつれたり、互いが疲弊することもある。

そして時に相手を憎んだり、嫌悪したり。
円満に相手の幸せを願う人もいれば、じゃない人もいる。
年を重ねるほど、ひとつ関係を終える度、この紙一重の感情は本当に気をつけるべきものだと感じている。

日本の殺人事件は身内によるものが半数を超えるらしい。知人や友人を含めると7割にものぼる。だからじゃないが、可能ならお礼を素直に伝えて「立つ鳥跡を濁さず」で在りたいと思ってしまう。



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