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北九州キネマ紀行【若松編】〝東洋一の吊り橋〟の開通式をご覧あれ〜サラリーマン喜劇「社長漫遊記」

森繁社長が若松にやってくる

九州最北端の福岡県北九州市。
ここにある若松は、過去いくつも映画の舞台になってきた。
今回ご紹介するのは、そのうちの一本、1963(昭和38)年公開の「社長漫遊記」(杉江敏男監督)。

この映画は、東宝が高度経済成長時代に放った喜劇「社長シリーズ」33作品(1956〜1970)のうちの第16作にあたる。

社長は、映画やラジオ・テレビ、舞台で活躍した昭和の名優、森繁もりしげ久彌ひさや
他に「パァーッとやりましょう」が口癖で宴会好きな部長の三木のり平、実直な秘書役に小林桂樹といった個性的な顔ぶれが脇を固めた。

「社長シリーズ」は、各地でロケが行われた。
北九州でロケが行われたのが「社長漫遊記」で、1963年のお正月映画として公開された。

「社長漫遊記」には、公開の前年、1962(昭和37)年に開通した〝東洋一のつり橋〟若戸わかと大橋(現在の北九州市若松区と戸畑区を結ぶ橋)の開通式の実写映像が出て来る。

日本四大工業地帯の一つとして栄えた北九州。
地元にとって、若戸大橋の開通はビッグな出来事だった。
メジャーな映画会社も、格好の話題だとして取り入れたのかもしれない。

「社長シリーズ」はなぜウケたのか

社長シリーズは、高度経済成長期を背景に、社長と社員らのてんやわんやを描いた。
シリーズの歴史は、テレビの台頭による映画観客人口の衰退期と重なるが、長く寿命を保ったのは、高度経済成長を支えたサラリーマンたちの存在があったからだろう。

この時代、いい大学を出て、いい会社に入れば、生活には困らず、よき伴侶も得られ一生安泰、幸せな人生が送れる‥‥と信じられていた。

だが、その代わり、サラリーマンは理不尽な上司がいても逆らえない。
ぺこぺこしたり、家庭を犠牲にしたりして、耐えないといけないことも多かった(今でもそうか)。

当然、ストレスはたまる。
社長シリーズは、会社の上下関係にツッコミを入れて笑い飛ばすシーンが随所に出てくる。
社長シリーズは、サラリーマンたちのストレス解消に一役買っていたのだろう。

森繁社長はなぜ若松に?

「社長漫遊記」で、森繁久彌は「太陽ペイント」という会社の社長(堂本社長)。
若戸大橋は真っ赤な色をしているが、その塗装の大部分を太陽ペイントが手がけたことから、森繁社長らは開通式に参加するため、東京から北九州にやってくる。

迎えたのは九州支社長役の三木のり平。
三木のり平は、森繁に開通式のスケジュールを説明する際、
開通式の渡り初め式について
「各界の知名士2000人による世紀の渡り初め式」
なんて言っている。
開通式は、大変なイベントだったのである。

ライトアップされた若戸大橋は「日本夜景遺産」に認定されている。若戸大橋は国の重要文化財でもある

北九州サイドからの見どころ解説

北九州サイドから「社長漫遊記」の見どころをご紹介。

若戸大橋の開通に尽力したのは若松市長、吉田敬太郎だった

開通式の実写映像では、テープカットの様子が映る。
ハサミを持った人たちが並ぶが、この中には当時の若松市長、吉田敬太郎(1899〜1988)がいたと思われる。

吉田は若戸大橋架橋のために東奔西走し、架橋の実現に大変な功績があった人。
そして彼は、別の映画とも〝接点〟のある人だった。

その映画は、火野ひの葦平あしへい(若松出身の芥川賞作家)原作の「花と龍」。
「花と龍」は、葦平の両親を主人公にした実名小説で、葦平の父・玉井金五郎(映画では、高倉健らが演じた)の敵役として、〝若松の大親分〟吉田磯吉が登場する。

吉田磯吉もまた実在した人物であり、磯吉の息子が、吉田敬太郎。

吉田敬太郎は戦時中、衆議院議員を務めていたが、東條内閣を批判して投獄された。
厳しい獄中生活に耐えながら、ここで聖書と出会い、クリスチャンに。
戦後は牧師をしながら若松市長選に出馬し、当選するという、異色の経歴をたどった。

吉田親子は、若松の歴史をたどる上で欠かせない人物である。

若戸大橋開通に合わせて開かれた「若戸博」が映る

若戸大橋の完成を記念して、地元の若松と戸畑で「若戸博」というイベントが、1962(昭和37)年9月から11月にかけて、開かれた。

「産業・観光と宇宙大博覧会」と銘打たれ、「社長漫遊記」には「宇宙医学館」や「ロケット科学館」がちらりと映る。

このころ、宇宙ものは人気だった。
アメリカとソ連が宇宙進出を競っていたころで、子ども向けの月刊漫画雑誌も競って、宇宙ものやSFものの特集を載せていた。
(わたしも、それを見て胸を躍らせた子どもの一人)

わずかなカットとはいえ、宇宙大博覧会のカラー映像を目にできるのは貴重。

「河童旅館」と「消防芸者」が登場する

「社長漫遊記」で、若松入りした森繁社長は、地元の芸者(池内淳子)と浮気しようとする。
この時、落ち合う旅館の名前が「河童かっぱ旅館」。

河童と若松は、関わりが深い。
先にご紹介した「花と龍」の原作者、火野葦平がこよなく愛したことでも知られる。
「河童旅館」は、葦平を念頭に置いてのネーミングだったと思われる。

JR若松駅の近くの若松市民会館の中には「火野葦平資料館」がある

しかし、森繁がいざコトに及ぼうとする直前、河童旅館の近くで火災が発生。
それを窓から目撃した芸者の池内は、消火活動のため、火事現場へ飛び出していってしまう。
あっけにとられ、意気消沈してしまう森繁がおかしい。

若松の芸者は、実際に消防団員の役割を担っていたのだという。

若松には大正期、消防芸者なるものがいた。
石炭積出港として発展した若松では、花柳界が繁盛し、花柳界の盛衰はそのまま石炭景気のバロメーターを示すものだといわれていた。
芸者数も多く、一時は警察官数と同数だったほどの繁盛ぶりだった。
(中略)
消防芸者は芸者のうちから数名(四名ー六名)をえらび、火事発生の場合は火事衣装に着かえ、お座敷からでもすぐ現場に駆けつけて、炊出し、負傷者の手当その他の仕事にしたがうことが許されていた。

(玉井政雄「刀と聖書」=玉井は火野葦平の実弟)

「社長漫遊記」の脚本は、笠原良三。
笠原はそこまで丹念に取材してシナリオを書いていたのだとすれば、感心する。

高塔山の展望台に昭和のスターが勢ぞろいする

「社長漫遊記」には、若松・高塔山たかとうやま(若松のシンボル的な、高さ120mほどの山)の展望台に森繁久彌、三木のり平、加東大介、小林桂樹の太陽ペイント幹部が集合。ここから北九州のまちを眺望するシーンがある。

展望台からの眺めは素晴らしく、若戸大橋がよく見える。
ここで営業部長役の加東大介が「北九州はわが社の一大マーケット」なんて言っている。
当時の北九州の〝勢い〟を感じさせるシーンである。

高塔山から見た若戸大橋。森繁らが展望台から見たのは、こんな風景だっった

森繁久彌 北九州とのもう一つのエピソード


さて、「社長漫遊記」からは離れるが、最後に森繁久彌と北九州にまつわる、もう一つのエピソードを。

若松と洞海どうかい湾を挟んで八幡というまちがある。
八幡には皿倉さらくら山という、これまた八幡のシンボル的な山がある(標高622㍍)。

山頂からは、八幡などのまちが一望でき、ロケーションも素晴らしい(ケーブルカーで登れる)。

この皿倉山の山頂に、童謡「シャボン玉」や「赤い靴」などの作詞で知られる野口雨情うじょう(1882〜1945)の詩碑がある。

雨情は1932(昭和7)年に皿倉山の隣、帆柱ほばしら山に登り、帆柱山の詩をつくったという。

この詩に上原げんとが曲をつけ、森繁久彌がレコーディングした‥‥。
詩碑には、そうある。

これにちなんだのだろう。
詩碑には、森繁の次のようなうたが刻まれている。

「みはるかす くきの海や帆柱山 すすきのゆれて 雨情の声する」
(「くきの海」は、洞海湾のこと)

詩碑に刻まれた森繁久彌のうた

森繁は、皿倉山を訪れ、山頂から下界を眺望して、このうたを詠んだのだろうか。

だとすれば、森繁は洞海湾を挟んで、その北側(若松側「社長漫遊記」)と南側(八幡側・皿倉山)で、痕跡を残したことになる。

森繁が歌った雨情作詞の曲とは、どんなものだったのか。
音源を探してみたが、残念ながら、見つけることができなかった。


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