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北九州キネマ紀行【八幡編】原節子が出演した〝幻の〟国策映画と、わたしの「戦争」


その映画は「熱風」(昭和18年公開)

原節子という映画女優がいた。
日本映画の歴史教科書〈女優編〉で必ず名前が出る人。
よく知られているのは、小津安二郎監督の映画「晩春」(1949年)や「東京物語」(1953年)などの娘役。

原節子は2015(平成27)年に95歳で亡くなった。
亡くなったことが明らかになった時は、けっこう大きなニュースになった。
原節子は42歳だった1962(昭和37)年公開の映画(「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」)の出演を最後に女優を引退。
大スターだっただけに、多くの人が原節子の「その後」に関心を寄せたが、彼女が公に姿を現すことはなかったからだ。

そんな日本映画史に名を残す女優が、(九州の最北端にある)福岡県北九州市と関係する映画に出ていた。
それを知った時は、少し驚いた。

わたしは昭和30年代に現在の北九州市門司区(当時は門司市)で生まれた。
北九州と関わりのある映画のことを調べていたが、原節子が北九州と関係する映画に出ていたのは、知らなかった。

その映画は、戦時下の1943(昭和18)年に公開された「熱風」(山本薩夫監督)。

原節子は生涯に112本の映画に出演した。
その中で「熱風」にスポットが当たることは、あまりない。
というより、知る人はすごく限られていると思う。
(「熱風」は、これを書いている2023年6月現在、YouTubeで視聴できる)

八幡製鉄所で撮影された「熱風」

わたしが、映画「熱風」と、それに原節子が出演していたことを知ったのは、もう30年近く前の1997(平成9)年のこと。
北九州市小倉北区にある市立中央図書館で、「岩下俊作をしのんで」という催しを見た時だった。

岩下俊作(1906〜1980)は小倉出身の作家で、映画「無法松の一生」の原作者として知られる。
八幡製鉄所という地元の大きな企業に勤めていた人でもあった。
図書館での催しは、彼の足取りを紹介していた。

八幡製鉄所(現在は日本製鉄)近くの高炉台(こうろだい)公園にある岩下俊作の文学碑。
「無法松の一生」に小倉祇園太鼓が登場することから、碑は太鼓の形をしている
=北九州市八幡東区で

そこで、一枚の白黒のパネル写真に目が留まった。
3人が並んだ、記念撮影だった。

説明文には
「映画『熱風』の撮影、八幡製鉄所で 左から、岩下、藤田進、原節子」
とあった。

岩下は「熱風」の原作者。
藤田と原は、映画に出演した俳優。
どうやら、映画は八幡製鉄所(映画公開時の昭和18年は「日本製鉄」)で撮影され、写真はその時の記念スナップらしい。

その写真を見たのは、わたしがちょうど小津安二郎の映画を映像ソフトで繰り返し見ていたころ。
わたしは、これによって原節子が、日本映画史に重要なポジションにいることを知った。
それだけに原が、九州の地方都市・北九州を舞台にした映画に出ていたことが意外だった。

松永武さんに教えを乞う

「熱風」とは、一体どんな映画だったのか、知りたかった。
(当時は、インターネットで調べるという習慣もなかった)

こんな時、北九州・門司に松永武さんという、大変頼りになる方がいた(松永さんは2018年に83歳で亡くなった)。
松永さんは、長きにわたって個人で映画や芸能にかんする資料を収集してこられ、映画に大変造詣の深い方である。

当時、わたしは新聞社に勤めており、「熱風」のことを新聞のコラムに書こうと、松永さんの自宅を訪ね、教えを乞うた。
松永さんはその頃、収集した資料を無料公開する「松永文庫」を自宅で開設されていた。

松永さんは2009(平成21)年、収集した一切の資料(約2万点)を北九州市に寄贈。
「松永文庫」は現在、市の文化施設として、観光スポット「門司港レトロ」にある、きゅう大連だいれん航路こうろ上屋うわやという建物の中で運営されている(入場無料)。

映画と芸能の資料館「松永文庫」が入る旧大連航路上屋
=北九州市門司区で

「『熱風』(のフィルム)は、私も探したことがあったんですが、結局は叶いませんでした」
松永さんは、申し訳なさそうに言った。
聞けば、松永さんは1988(昭和63)年、北九州市などを舞台にした映画を集めた上映会を開催した際、「熱風」のフィルムも探したという。

しかし、松永さんは、わたしに手がかりとなる一冊の本を貸してくれた。
「この本に『熱風』のことが書いてありますよ」

山本監督の著書「私の映画人生」

それは、映画「熱風」の監督、山本薩夫の「私の映画人生」という本だった(1984年刊)。
それには、「熱風」について、次のように書かれていた。

一九四二年から四三年にかけて、東宝は鉄、松竹は造船、大映は飛行機というふうに割り当てられ、それぞれをテーマとした映画を各撮影所でつくれという命令が軍から出されてきたのである。

(原作者の)岩下さんの考えたストーリーは、鉄の増産に次ぐ増産で溶鉱炉が大きな故障を起こすが、それを宿老をはじめ、みんなの力で直していくというものである。

山本薩夫著「私の映画人生」

「熱風」は東宝の国策映画だった。
国策映画とは、戦争勝利という国家目的遂行を意図した映画のこと。
映画は八幡製鉄所でロケが行われ、原節子は製鉄所の事務職員役で出演していた。
原節子は戦時中、「熱風」だけでなく、「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)など、いくつかの国策映画に出ていた。

わたしは後に、松永文庫で、映画「熱風」に関する記事が載った当時の映画雑誌を見せてもらった。
1943(昭和18)年6月発行の「新映画」という雑誌で、表紙の写真は、原節子が製鉄所を背景に笑顔で闊歩かっぽしていた。

1943(昭和18)年発行の雑誌「新映画」=松永文庫提供  

その雑誌には「熱風」のグラビアが組まれ、次のように書かれていた。

軍および情報局の肝煎りで、松竹、東宝、大映が、五大重要産業を、それぞれ分担して製作する。
鉄が東宝、アルミニウムが大映、造船と飛行機が松竹、という割り当てになる。
浮足立っていた映画会社の企画が、ようやく落ち着きを見せ、国家的素材と、じっくり取っ組み始めたのは喜ばしい。

東宝の「熱風」は、そのトップを切る。
原作岩下俊作、脚本八住利雄 小森静男、演出は山本薩夫が担当する。
(グラビアの)写真の人々は、原節子、藤田進、沼崎勲である。

(漢字などを現在のものに改めた)

この記事を理解する上で、参考になりそうなテキストが石井妙子著「原節子の真実」にあったので、そこからも引用させていただく。

前年(昭和16年)にはフィルムが割当制となり、映画各社は少しでも多く配給されるようにと軍部の機嫌を取り結ぶことに必死だった。
とりわけ東宝は映画づくりの歴史が浅かったこともあり、積極的に軍部に接近していった。
その結果、軍の教育訓練用映画などは、東宝が一手に請け負うようになる。
戦意高揚映画を積極的に作ったのも、東宝だった。

(石井妙子著「原節子の真実」)

「待望白熱巨編 近日公開‼︎」

わたしはその後も、「熱風」に関する情報をネットで調べた。
そこで、ネットオークションで「熱風」の宣伝チラシが出品されているのを見つけた。

チラシには「待望白熱巨編 近日公開‼︎」とあり、次のようなコピーが書かれていた。

今日もその悪魔のような巨大な口から凄まじく火を吐く〝魔の溶鉱炉〟
しかし、これこそ戦艦にも比すべき戦力の源泉だ!
工員達は敢然これと取り組み闘った‼︎

チラシには、北九州・若松出身の芥川賞作家、火野ひの葦平あしへい(1906〜1960)がメッセージを寄せていた。
葦平は戦時中、「麦と兵隊」など〝兵隊三部作〟で国民的なベストセラー作家になった人。
「熱風」の原作者、岩下俊作とは友人だった。

葦平のメッセージの横には、監督である山本薩夫の一文も掲載されていた。

製鉄所に来てみると、従業員達は必死の作業を続けているのである。
各部内において昼夜休みなく奮闘は続けられている。
それは真に美しき姿である。
私は見学をしながら、唯々ただただ、頭の下がる思いであった。
そして益々この映画の難しさを感じた。

が、私はそこで思った。
よりこの美しさを描こうと。
この美しき人達を映画にして、全国の人達に観てもらえば、いくらかでもこの映画の使命は達せられるように思ったのである。

果たして、これは山本監督の真意だったのか、あるいは宣伝部員が代筆したのかは、分からない。
昭和18年という時代を考えれば、このように書くしかなかったのかもしれない。
山本監督は「私の映画人生」の中で次のように述べていた。

こうした(「熱風」のような)「国策」映画から逃れるためには、監獄に入って拷問で苦しめられるか、それがいやなら病気になるしか道はなかった。
だがそうすれば、誰か別の人が「国策」という枠のなかで同じ苦しみを味わわなければならなかっただろう。

製鉄所の「東田第一高炉」は史跡広場として整備され、見学できる。
巻き付くような太い管は「熱風環状管」=北九州市八幡東区で

20年後に見ることができた「熱風」

わたしにとって「熱風」は見たくても、それがなかなか叶わない〝幻の〟映画となっていた。
しかし、映画を知ってから20年後の2017(平成29)年、思いがけず見ることができた。
「熱風」は、どうやら一度はビデオ化されたことがあったようで、その上映会が北九州で開かれたのである。
わたしは万難を排して、見に出かけた。

見終わっての感想はと言えば、何とも複雑だった。

白黒映画である。
冒頭では、「撃ちてし止まむ」というメッセージが出た。
ドラマは、製鉄所の第四溶鉱炉が故障したため、ダイナマイトを使って命懸けの修復に挑む職員(藤田進)と、その職場の人たちの姿を描いていた。
戦争勝利に向かって、戦車や軍艦を造るため、鉄の増産は至上命題であり、滅私奉公こそ美徳である‥‥というトーンに貫かれていた。

当時の状況からすれば、戦争に協力するためにこうした映画が作られ、原節子が健気けなげに振る舞うのも仕方がないよね‥‥
と頭で理解はできた。
でも、その一方で、やっぱり何だかなあ‥‥との思いが消えなかった。

それは、八幡は戦時中、この製鉄所があったがゆえに米軍の攻撃目標となり、この映画の公開翌年から攻撃を受け、まちも甚大な被害を受けていたからだ。

1945・8・8八幡大空襲

八幡製鉄所は1901(明治34)年、官営の製鉄所として開業し、日本の産業の近代化に大きな役割を果たした。
戦時中は兵器製造の大元となる鉄をつくってきただけに、米軍の攻撃目標地の一つになった。
戦時中の空襲といえば、1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲などが知られるが、米軍のB29 による日本本土の初空襲は、映画「熱風」公開翌年の1944(昭和19)年6月16日、八幡製鉄所に対して行われた。

1945(昭和20)年8月8日の「八幡大空襲」は、約1万4千戸が被災し、死傷者は約2500人に上るという、甚大な被害が出た。
中でも、伊藤いとやま防空壕では約300人が亡くなり、痛ましい出来事として今に語り継がれる。

小伊藤山公園にある慰霊塔。
説明板には「米空軍による焼夷弾(しょういだん)攻撃で、付近一帯は焼野原となり、この防空壕に避難した人々は、火煙に包まれ全員窒息死した」とある
=北九州市八幡東区で
八幡の小伊藤山公園の近くに立つ「復興平和祈念像」。
戦後の1953(昭和28)年に建てられたもので、戦争の惨禍から立ち上がる決意を込めたメッセージが記されている。
後ろに見えるのは、皿倉山(さらくらやま)
=北九州市八幡東区で

わたしは、いなかった‥‥かもしれなかった

ここからは、わたくしごとである。
映画「熱風」が公開された1943(昭和18)年、わたしの母は15歳、父は14歳だった。

母は2023年2月、94歳で他界した。
母は、八幡からそんなに離れていない、門司で暮らし、女学生だった戦時中、小倉の軍需工場に学徒動員され、働かされていた。
その話を、よくわたしにした(八幡、門司、小倉は同じ北九州市)。
わたしは「また戦争の話か」と思いながら聞き流していた。

小倉の軍需工場は、「小倉陸軍造兵しょう」といい、現在の小倉北区大手町を中心とした所にあった。
ここは戦争末期には、女子挺身隊や学徒動員を含め約4万人が働いたという、西日本最大の軍需工場。
ここで戦車や、米国に飛ばす風船爆弾などが製造された。

旧小倉陸軍造兵廠があったことを今に伝える当時の防空監視哨(しょう)
=北九州市小倉北区の大手町公園で

小倉陸軍造兵廠には、原爆が投下されるはずだった。
八幡大空襲の翌日の昭和20年8月9日、原爆を搭載した米軍のB 29は小倉の上空に飛来した。
しかし、B29は、雲や煙による視界不良のため、投下を断念。
長崎に向かった。
そして、長崎に原爆を投下した。
もし、小倉に原爆が投下されていたら、わたしはいなかったかもしれない。

父は2018年に88歳で亡くなった。
15歳だった昭和20年5月、「特攻要員」の少年兵として鹿児島・指宿航空基地にいた。
ここで米軍機の機銃掃射を受け、両足に大けがをした。

特攻要員として出撃していたら、やはりわたしは、いなかった。
そんな父も、自分の戦争体験をよくわたしに語って聞かせようとした。
しかし、やはりわたしは「もう分かったよ」と正面から向き合おうとしなかった。

子どものころ、「戦争」はまだ残っていた

わたしは昭和30年代の生まれなので、戦争は直接知らない。
でも、思い返すと、子どものころ、戦争は〝残って〟いた。

当時、親に小倉のデパートに連れて行ってもらうのは、わたしにとって一大イベントだった。
その頃、デパート近くの路上では、戦争で傷ついた傷痍しょうい軍人をよく見かけた。
彼らは白い着物を着て、アコーディオンをひき、道ゆく人たちから何がしかの施しを受け取っていた。

また、わたしが読んでいた漫画雑誌には、「戦記漫画」がよく掲載されていた。
貸本屋の棚にも、そうした漫画が並んでいた。
わたしは「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などの漫画が好きだったので、戦記漫画はあまり読まなかった。
ただ、零戦や戦車のプラモデルはよく作った(そのフォルムが単に「かっこよかった」から)。

原節子が出演した〝地元〟作品とはいえ、なぜ「熱風」という(これを書いている時点で公開から)80年も前の古い映画が、わたしの胸にずっと引っかかっていたのだろう。

それは、わたしの子ども時代が、戦争が終わって、まだ十数年しかたっていなかったこと、そして親が語ろうとしていた戦争体験とまともに向き合おうとしなかったことと関係があるのかもしれない。

原節子も、山本薩夫監督も、すでに旅立った。
そして、戦争の残像をわずかに知るわたしも、遠からずいなくなる。

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