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北九州キネマ紀行【門司港編】昭和の喜劇王・古川ロッパが子ども時代を過ごしたまち


数多く映画にも出演したロッパ

古川ロッパ(緑波)という喜劇役者がいた(以下、ロッパ)。
「昭和の喜劇王」とも呼ばれた。
彼は数多くの映画にも出演。
その映像のいくつかはyoutubeで見ることができる。

ロッパの姿を少しだけ紹介したく、下の映像を貼らせていただく。
出典は1946(昭和21)年公開の映画「東宝シヨウボート」だろうか(約50秒)。

ロッパは子どものころの一時期を門司で過ごした。
門司は、九州の最北端・福岡県北九州市にあるまち。
門司港は、かつて国際的な港として、とても栄えた。

異色の経歴のコメディアン

ロッパと門司の話を始める前に、まずは彼が〝異色の〟コメディアンであることに触れておきたい。
何が異色かと言えば、その経歴である。

ロッパは1903(明治36)年に東京で生まれ、1961(昭和36)年に57歳で亡くなった。
華族の出(祖父は東大総長、父親は貴族院議員の男爵)で、ロッパは早大在学中に文藝春秋に映画雑誌の編集部員として入社。
その後、29歳だった1933(昭和8)年4月、徳川夢声(「宮本武蔵」のラジオ朗読などで知られたマルチタレント)らと劇団「わらいの王国」を旗揚げし、喜劇役者・榎本健一と人気を二分した。

中でも、得意のものまねを「声帯模写」と名付け、人気を博した。
インテリ芸人の走りのような人だった。

主な出演映画作品に
「ロッパ歌の都へ行く」=1939(昭和14)年
「歌へば天国」=1941(昭和16)年
「音楽大進軍」=1943(昭和18)年
「轟先生」=1947(昭和22)年
など。

大変な食通で、〝日記魔〟としても知られた。
戦前から戦後の日記は「古川ロッパ昭和日記」として刊行され、日本芸能史の貴重な資料になっている。

養父は門司の鉄道職員

さて、ロッパと門司の関係について。

ロッパは幼少の頃、義理の叔父の養子になった関係で、1911(明治44)年から門司で暮らした。
(ロッパは8人兄弟の六男。実家は、長男以外は養子に出すしきたりになっていたという)
叔父は九州鉄道管理局の庶務課などに勤め、門司の清見町にある鉄道官舎に住んでいたという。
ロッパは1917(大正6)年まで、この鉄道官舎に住み、この間、小森江尋常小、旧制小倉中学に通学。
その後、旧制早稲田中学に転校した。


(JR門司港駅の近くには「九州鉄道記念館」がある)

なので、ロッパが門司で暮らしたのは、6年ほどということになる。
ロッパにとって門司は、忘れられない地となっていたようだ。
それは、彼が残した日記から読み取れる。

昭和14年に門司を再訪

「昭和日記」を読むと、スターになったロッパは、36歳だった1939(昭和14)年、今の北九州市の八幡や門司などを来訪している。
「八幡東宝映画劇場」に出演したり、小倉の陸軍病院を慰問したりした。

(八幡から小倉へ移動の)途中小倉中学の姿が見たくて、寄ってもら

(門司に着いた夕方、学校の)生徒達が校門を出るところだ、
そっと門を入って一望する、運動場も講堂も昔のままだ、一寸ちょっと感傷的になった。夕ぐれの陽が、センチメンタリズムを、手伝ったのか

1939(昭和14)年12月20日の日記

三宜楼の朝食「うまかった」

日記によると、この時、ロッパは門司で大きな料亭だった「三宜楼さんきろう」に行き、宿泊したようだ。
ここでは「芸妓のサービス」や、ウイスキーを堪能している。

門司三宜楼の朝、八時起き、料理旅館だけあって朝めし美味うま

1939(昭和14)年12月21日の日記

三宜楼は門司港の繁栄を象徴するような料亭だった。
木造3階建ての建物が今も残されている。
(門司港レトロの観光施設の一つとして、中を見学できる)
1931(昭和6)年の建造とされ、現存する料亭の建屋では九州最大級だという。
もっとも、三宜楼の名は1906(明治39)年の地元紙「門司新報」に見えるといい、創業したのは現在と別の場所だったようだ。

今も残る三宜楼の建物。中を見学できる
レトロなムードの三宜楼の室内。階段を上がると‥‥(ロッパも上がったのかもしれない)
三宜楼2階の大広間「百畳間」

さて、ロッパの食通ぶりは、北九州を再訪したこの時も、半端でない。
八幡や門司に滞在中の日記にも、どこで何を食べ、飲んだか、その感想はどうだったか、などを細かく記している。

よく通った玩具店も訪ねる

三宜楼で朝食をとったロッパは、門司港のまちを歩いた。
やはり幼いころを過ごしたまちが懐かしかったのだろう。

町へ出ると子供の頃よく行ったマルヤ玩具店へ寄る。今はキャメラ材料店なり、小母さんと久濶を叙し、加藤丹二・阿曽沼夫人と清見官舎を見に行き、清見校に寄り、自動車で八幡へ引き返す

1939(昭和14)年12月21日の日記

ロッパが子供時代を門司港で過ごしたのは、明治の終わりから大正の初めにかけて。
そのころの門司港のまちのにぎわいは、相当なものだったはず。
ロッパは「マルヤ玩具店」で、どんな玩具を買ってもらったのだろう‥‥。

JR門司港駅の近くにある「関門海峡ミュージアム」。室内では大正の頃の門司港のまちが再現されている。幼いロッパがいた頃もこんな雰囲気だったのかもしれない

若松で火野葦平と話し、ふぐを食べる

ロッパは門司から八幡、若松に足を延ばした。

昨日のと違う東宝の館と、黒崎クラブ、若松クラブの3軒を回り、火野葦平ひのあしへいに報せると来てくれたので話す

万安といううちでふぐを食ひ、かけ持ちして館主の招待で支那料理を食い、また3軒やって、9時59分の汽車で博多へ向かう

禁を破って、ふぐを食っちまった。火野葦平には、『ロッパと兵隊』で、無理をきいて貰っているのでやむを得ない、すすめられるままに食った

が、まけをしみでなく、うまくない、鳥の方がうまい。もう食いたくない。命をかけるほど、うまいといふ人の味覚はどうかしている

1939(昭和14)年12月21日の日記

火野葦平(1906〜1960)は若松出身の芥川賞作家。
1938(昭和13)年、「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の〝兵隊三部作〟を発表して、国民的な作家になった人。
高倉健らが主演した映画「花と龍」の原作者でもある。

「ロッパと兵隊」で葦平に無理を聞いてもらった、というのは、おそらくロッパが葦平に原作をオファーしたのだろう。
この舞台は、ヒットしたらしい。
ロッパの自伝的著書「喜劇三十年 あちゃらか人生」には、次のような記述がある。

昭和十五年の五月、有楽座で「ロッパと兵隊」を上演。これは火野葦平原作より、菊田一夫脚色の兵隊物で、大当たり、飛びきり満員の盛況であった。
その後も、大阪、名古屋へ持って行って、好評、満員を続けた。

下関出身の藤原義江と

さて、ここでロッパと門司の話から少し脱線させていただきたい。
ロッパの自伝「喜劇三十年 あちゃらか人生」には、オペラ歌手・藤原ふじわら義江よしえ(1898〜1976)とのエピソードが出てくる。
藤原義江は、門司と関門海峡を挟んだ山口県下関市の出身。
(門司港と下関は、目と鼻の先、というご縁で脱線させていただく)

門司港と下関は渡船で5分ほど。手前が門司(福岡県)、対岸が下関(山口県)

ロッパの藤原描写のくだりが、おかしい。
戦時中食糧難の時、映画「音楽大進軍」(昭和18年)のロケで、三島の牧場へ行った時のこと。ここでは藤原義江らが歌うシーンがあった。

牧場には、牛がモウモウといていた。
藤原義江が、牛の一匹をジッと見つめている。
どうして、そんなに、牛なんか見つめているのかと思ったら、
「古川君」
「え?」
美味うまそうだなあ」
と言ったものだ。
藤原義江の眼には、生きて動いている、それは牛肉だったのである。

「喜劇三十年 あちゃらか人生」

食糧難の昭和19年、1人で2人分を平らげた

戦時中の食糧難の時とあって、さもありなんというエピソードである。
とにかく、美食家のロッパは戦時中、食べ物に人一倍苦労したようで、「あちゃらか人生」には「まったく、われわれは食い物に泣いた」と書いている。

話を「昭和日記」を戻すと、こんな記述も出てくる。
昭和19年1月11日、ロッパは東京のホテルのグリルへ。

(料理は)注文制となり、前もって申し込んでおいた。
有楽座へ寄って前川を連れ出し、これを影武者にして、二人前食う。
眼の前に並べるだけの前川の役も辛い。

前川というのは、ロッパのマネジャーだったらしい。
ロッパは、2人分の料理を一人で平らげて、悪びれる様子もない。
気の毒なのは、前川氏である。

さてロッパの日記を読んでいたら、ロッパが「うまい」と言った門司三宜楼の朝食に思いが至った。
タイムスリップできるなら、わたしも宿泊して、食べてみたい‥‥。

北九州には、今もおいしいものがたくさん。
北九州へお越しの時は、ぜひご賞味ください。
ネットでも、お取り寄せできるようです。

引用の日記は、漢字を改めるなどしました

そのほかの主な参考文献
「門司港」発展と栄光の軌跡 夢を追った人・街・港(羽原清雅著)
歴女・鉄男と訪ねる門司と海峡(佐々木いさお著)
エノケン・ロッパの時代(矢野誠一著)
日本経済新聞「NIKKEI The STYLE 古川ロッパの日記をたどる」(2021年6月27日)






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