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「博士課程に行ってみたい」という社会人の方への長い手紙。

そろそろ博士課程の振り返りをしようと思って、これを機にnoteを書いてみることにしました。最初の記事としては相応しいのではないかと思って。

おかげさまで2023年3月に博士号を頂くことができました。謝辞にも書いたのですが、本当に多くの方にお世話になってここまで来ることができました。お名前を上げだすとそれだけで本稿が埋まってしまうので畏れ多くも割愛させていただきますが、改めて感謝申し上げたいと思います。

さて、何年も社会人博士を名乗ってきたせいで「私も博士課程に興味があるのですが」と相談をいただくことがたびたびありました。そこで、本稿を自分の振り返りついでに、そういった方のご参考になるものとなるよう書いていきたいと思います。なお、極めて個人的な体験から来る内容ですので、経営学領域における一事例程度にお読みください。なるべく一般的に通じる部分にフォーカスしていきたいと思いますが、分野が違ったら全然役立たないと思いますし大学によっても事情は様々だと思います。めちゃくちゃ長いので、そういった方だけお読みく出さればと思います。

社会人博士とは

社会人博士と名乗ると言ったものの、世の中にそのような身分は正確にはないと言った方が適切かと思います。社会人向けのコースを有している大学院もあると思いますが、いわゆる一般的な博士課程は別に社会人かどうかを区別するものではありませんし、博士号を授与するとなればそれ相応のレベルが求められるのはどこの課程でも同じでしょう。ですから、これは肩書と言うよりは状況を示す言葉だと思っています。

社会人であるかどうかは関係なく、博士課程にいる時点であなたはその分野の専門家であると見なされるようになります。「〇〇を研究している」「自分は〇〇研究者だ」などは言ったもの勝ちで誰でも名乗れるものです。これらの言葉を非アカデミックな文脈で「〇〇について関心がある、よく関わっている」程度の意味合いで用いるのはともかく(その分野の研究者からすれば「お前が名乗るな」と思うことは多々あるでしょうけれど)、博士課程の人間として名乗るという事はほぼ職業研究者と同じ土俵に立とうとしているという事になりますのでなんちゃってでは済まされません。大学で研究するというのは、その前提で社会に自分の立場を示していく事であるとも言えます。そこに、社会人院生も普通の学生も関係ないのです。逆に言うと、その期待や視線に応えられるだけの努力と成果が出せれば、あなたの社会的な貢献性はとても高くなると言えます。

では、どの程度の努力が必要なのでしょうか。博士課程の標準年限は3年ですが、社会人の場合それで出られる人はほとんどいないと言っていいと思います。少なくとも私の周りで3年であっさり終わったというケースは聞いたことがありません。ご本人が元からズバ抜けて優秀で、他の先生が取れないようなデータをお持ちで、実務経験から唯一無二の仮説と議論展開ができた…というケースを1つだけ聞いたことがありますが。また、そのほかのケースで3年で終わられる場合、私の周りでは会社を辞めて一般院生と一緒に研鑽されるケースがほとんどです。つまり、働きながらとなると3年で修了するというのは相当ハードルが高いという事になります。私も指導教員の先生に相談した時の第一答は「5年はみとかなあかんで」でした。標準年限を越えて在籍するオーバードクターとなれば最大在籍期間は6年ですが、実際にはそれに休学期間を挟んでさらに時間をかけた人も知っていますし、9年かけてもダメだった(結局博士号取れず)という人も知っています。実験が必要な分野の人は、ホントどうしてるんでしょうね…。

また、当然ですがそれに見合った費用も必要です。国立大学でも年間50万超の授業料が発生しますし、それら以外に入学金や研究のための書籍、調査費用や学会費など様々な出費が発生します。文献についてはもちろん大学の図書館と言う非常に強力なインフラがあなたをサポートしてくれますが、仕事で中々図書館まで行けない場合などは、図書館よりもamazonがあなたのパートナーになるでしょう(重要な文献は結局ずっと手元に置いておきたいから買うし)。

そして何より、時間があなたを悩ませます。博士論文を書き上げるのに目を通す文献量は100を軽く超えますし(精読するとは言いませんが)、それらの8~9割は英語です。昨今は翻訳ツールの発展でかなりハードルが低くなりましたが、それでも首っ引きで文献に当たるにはそれなりの時間が必要です。しかもそれはスタートラインに過ぎず、文献の内容を整理した上で自分なりの仮説を立て、データを集め、分析し、最後に執筆しなければなりません。毎晩1本論文を読んでも100日かかりますし、実際には主要文献の中には書籍も多数含まれるでしょう。文献整理だけで半年~1年程度は見ても、多過ぎではないと思います。
※「じゃあどれくらい読むことになりますか」と具体数を聞きたい方が多いと思いますが、これは「貴方の選ぶ領域次第です」としか言えないので何とも言えません。ただ、同じゼミの仲間と話していても感覚値としての「100」というのはあると思います。私が博論を書くにあたって概観したのは400程度、そこから実際に引用したのは130程度。これが多いか少ないかは分かりません。

読まなければいけないのは自分の興味のある分野の論文だけではありません。博士論文とは科学的な厳密性を(個人の力量に加えて、認識論と方法論的な問題から一定の限界はあるにせよ)突き詰めなくてはならない物なので、哲学的な前提や具体的な分析手法に関する文献にも目を通さなくてはなりません。また、その分野における「当たり前」については自分の関心領域でなくても「博士であれば知っているのが当たり前」でありますから、当然読んでいることが求められます(でないと最後口頭試問などでボコボコになるでしょう)。「ニュートンを知らない物理学者はいない」というようなことは、どの分野にでもある事だと思います。

これらの時間を捻出するために、仕事外の時間をできるだけ費やすとなると他のことをいろいろと諦めなくてはなりませんし、ご結婚されている方の場合家族の理解は必須となるでしょう。
これほどまでの有形無形のコストをかけてまで、本当に博士課程に進む必要はあるのか? よく考えてくださいというのが、よくある私の回答です。

社会人が博士を取るメリット/デメリット

この問いの答えはもはやChatGPTがくれる世の中になりましたので、よく言われるようなことは割愛しようと思います。腐ったSEO記事みたいな事書いてもしょうがないので。ただ、上記の事を理解した上でメリットを判断できないようであれば最初から進学はしない方がいいですし、別の角度からの議論としては「そもそもメリットデメリットで測るようなものではない」という見方もあります。

私が学部時代にお世話になった先生に院進の相談をした時に言われたのは「博士号は足の裏の米粒やで」と言われました。その心は「取っても食えない」と言うものだそうです。この先生は既にご退官されるご年齢ではありますが、残念なことにこの例えは「高学歴ワーキングプア問題」として昨今揶揄では済まない物になっています。とはいえ、大学教員を目指す人ならば博士号があるのは前提ですから、そういうキャリアチェンジを念頭に置いている人は好むと好まざるとに関わらず取る必要があります。そうなると、メリットどうこうという話ではないわけです。また、個人的にはそのような外在的なメリットや資格的な意味ではなく、「研究者という生き方がしたいか」が最も大切な事だと思います。職業としての研究者ではなく、深い思考と洞察力を持ち、厳格に因果関係の結び付ける一方でハッとするようなひらめきと理論展開ができ、そのような手続と発見に喜びを見出せる人になりたいかということです。

これを一言で言ってしまえば、「研究が楽しいと思えるか」になります。私は凡人でしたので、博士課程と言うレールをたどることで外形的にそのようなものの見方や振る舞いを身に着けたく門を叩きました。しかしもちろんこのようなことができる人は博士号の有無に関わらず存在します。自分で手を動かし、様々なデータから新たな事実を発見し、それを何らかの形で世に発信していく事がすでにできる人にとっては、博士課程は必ずしも必要なものではないでしょう。実際に私の周りにもそこら辺の院生顔負けの方がおられて、そういう方々のインプットの広さと深さ、そしてアウトプットの速さと独創性には舌を巻くばかりです。

一方で「今の仕事も先が見えたし、そろそろ大学教授にでもなって自分の経験を若い人に伝えたいな」程度に考えている人にはオススメしません。上記では大学教員になるにあたって博士号は必須と書きましたが、特任教授や客員教授などのポジションもありますので、現業で圧倒的な実績を上げたり、エラくなってそういったポジションを検討する方が現実的だと思います。理由は3つあります。まず、上記の通り博士課程自体がそれなりにハードなので、軽いノリでは続きません。そもそも博士課程は教師を育成する課程ではなく、研究者を生み出す課程ですから、研究者として身を立てようという意志がなければ「なんでこんなことやらないといけないんだ」と思うでしょう。次に、そういった意識では実務経験をUnlearnできないからです。研究においては時に実務経験は邪魔になります(もちろん強力な武器にもなります)。それなりに大きな企業の(時にはエライ)人が、持論を振りかざして指導教員と対立してドロップアウトして行ったという話は枚挙に暇がありません。そして最後に、結局大学教員になっても他の先生と話しのレベルが合わないからです。博士課程をくぐり抜けてきた人たちの共通言語みたいなものが一切わからないと、真の意味でそのコミュニティに入ることはできません。これは大学の先生が排他的だという話ではく、プロ野球やってるところに草野球やってるオジさんが来ても一緒に練習できない、みたいなものです。毎日過酷なトレーニングをやっている選手同士のハイレベルな会話に、どうして週末だけ、しかもロクに練習もしないで試合だけするオジさんが入っていけるでしょうか。

ここで断っておきますが、私自身も実務家の端くれとして、実務家が研究者に劣ると言いたいわけでも、実務経験が無駄だと言いたいわけでもありません。これをことさら強調しておきたいと思います。一方で博士課程と言う「アカデミアへの禊」のような道程においては、それらがあまり重要でないという事も事実です。もちろん教職を得て教壇であなたの経験を授業に組み込むことには素晴らしい価値があるかもしれませんが、それは博士号を取るという事とは別の話なのです。教育と研究は異なる物なので。

なのでもう一度言いますが、研究者としての生き方を身に着けたいか? が一つのポイントだと思います。

博士課程で身につくもの

既に書いた通り、博士課程で見につくものはその思考や振る舞いとなります。具体的には批判的な思考や因果関係の整理、論理構築の力や一つの言葉をどれだけ丁寧に用いるかなどの様々な点に及びます。また、研究の作法としての先行研究の整理やデータ分析手法の習得、執筆と言う作業を通じたプレゼンテーションなどの実務的な能力も鍛えられるでしょう。特に、普段パワーポイントの数行のテキストでプレゼンをして後は口頭で補っているという人にとって(そう、私です)、10万字以上となる博士論文の執筆は異次元の物となるでしょう。一つ一つの言葉や段落ごとの意味の連なり、論理展開などをきちんと紡いでいかないと口頭試問でボコボコにされますから。

こうした思考レベルの型や癖は、実務においても大きな力を発揮します。新規事業における先行企業の調査や、データから事業アイデアを創出(仮説導出)したり、初期のプロトタイピング(パイロット調査)や分析、そして実際にリリースした内容から次の打ち手を考える(本研究の課題)ことなどはかなり研究活動と似たところがあると感じます。また、汎用的なところで言えば批判的な思考は物事の本質を見抜くという意味で、様々な業務の効率化や課題の解決に大きな力を発揮するでしょう。

身につくものとはちょっと違いますが、博士課程を進んだ人同士の信頼感みたいなものに基づくネットワークも得られると思います。お互い辛い経験(笑)をしてきたと言うのもありますが、博論の世界はある程度まとまったお作法の世界なので先にも書いた共通言語みたいなものが通じるのです。それはいちいち説明しなくても〇〇の話ができる、みたいな些細なことから、「あなたも苦労して自分なりのオンリーワンの発見をしたのですね」というリスペクトみたいなものまでいろいろです。私はこれを書いている時点では社会的にはまだ若輩者の部類だと思いますが、実務の世界で一線級のキャリアや実績を持つ方が同じ立場で接してくださるのは畏れ多くも有難いと思いますし、そういった方々とつながることができるというのもこの道特有の事かもしれません。

博士課程を進む上でのハードル

社会人学生として学費に問題がないという事を前提に考えれば、既に書いた通り時間が大きな問題となるでしょう。ここではもう少し具体例を交えて書きます。プライベートの時間は極力充てることを考えないと、短い時間で修了することはできません。私の場合は、仕事が終わってから食事やお風呂などを済ませて、そこから文献整理や執筆でAM2時までくらいが標準のペースでした。仕事をしながらとなると、どうしても朝早くやるか、夜遅くまでやるかになりがちです。土日は当然できるだけ研究に充てたいところです。これが体力的にも、プライベートとのバランス的にも(研究もプライベートと言えばそうですが)辛いところです。

私たちは普段アカデミックな生活や脳の使い方をしていませんから、毎日の1時間もさることながらまとまった時間がとても貴重です。同じ10時間を使うなら、毎日1時間を10日やるより、5時間2日の方が圧倒的に捗ります。そうしないと、最初の方にやったことを忘れてしまうのです。Aについては○○(1956)に書いてるなとか、今読んでる文献は××(2008)と繋がるなというような情報の整理の意味で効率が全く違います。また、執筆となればなおさらまとまった時間が必要です。論文の執筆は思ったことをただ書く作文と異なり、自分の書くこと一つ一つに引用を正しく設定したり、その言葉の意味を説明するために別の議論を参照したりします。その都度、今書いている物から目を離して別の文献を広げないといけません。これが物理的にとても手間がかかります。そのため執筆中は身の回りに山ほど本が積み上がり、論文が広げられ、モニター上にもいくつもウィンドウが散らばることになります。これを一回リセットするのはかなりの手間なのですが、そうもいかないのでなるべく一気に進めたいわけです。※パソコンは電源切らずにスリープにすれば? とか思うかもしれませんが、数か月もそういう運用するとどこかでフリーズしたりデータがおかしくなったりします。そんな話は山のようにあるので、パソコンは適度に電源を切ることをオススメします。

そういう意味で、時間そのものとその使い方はとても大きな課題の一つとなるでしょう。

次に、語学力の問題があります。当然ですが、最先端の研究は全て英語で書かれています。普段から英語を使っていない方は、ここに抵抗を覚える方も少なくないでしょう。これは翻訳ツールが発達した今ではかなり緩和されているといえますが、逆にそれが落とし穴でもあります。というのも、DeepL等のツールは可読性は高いですが情報をかなり削減する傾向があります。大意をつかむのはいいのですが、厳密な言葉の意味を要求されるような場面ではその削減が命取りとなることもあり得ます。結局重要な文献はきちんと読む必要があるのでその点は肝に銘じた方が良いです。また、今なら論文の内容をChatGPTなどのLLMを使って要約させようとする人も多いでしょう。初期の文献探索で大意をつかむ程度なら問題ないかもしれませんが、本格的なレビューでは一切使えないと思うべきでしょう。LLMの出す短い要約では情報が大量に捨象されるせいで、どのような議論を経て著者らが結論にたどり着いたのかという点が読み取れなくなります。先行研究を経て指摘せねばならないのはそのような経緯も含めた研究上の課題です。要約だけ読んでいては各研究の関係性や位置づけが整理できず、かえって頭の中が散らかってしまうでしょう。

最後に、論文提出前に学内で課される条件です。例えば私のいた大学では、学力試験と中間論文の合格を経て最後の博士論文提出が許可されます。また、指導教員の先生によっては査読を2本通さなくてはならないなどのローカルルールもあると聞きます。こういった事前の条件はどの大学にもあると思いますが、これらをどのような準備、スケジュールの中でクリアしていくのかを明確に持っておかないとズルズルと修了時期が後ろ倒しになります。特に学会や試験などは年に1~2回という感じになると思うので、一回クリアし損ねたらそれだけで半年遅れになるわけです。こういうものは外から来た社会人学生にとっては情報が極端に少なく、気づいたら終わっていたというケースもザラです(特に学会関係は)。事前によく調べる他、入学後は一般院生と連携して常に情報を取ることを怠らないようにする必要があります。

もちろん他にもハードルはあると思いますが、よく質問を受ける点に絞って書いてみました。また、ここでは明示的には書きませんでしたが、最も大きなハードルは「研究者としての頭の使い方ができるか」というところになってきます。これは私の先生の言葉を借りたものですが、これについては別の機会があれば書いてみたいと思います(私もひよっこなので…)。

おわりに

これから自分も博士課程に行ってみたい、と思う方はどれくらいの負荷がかかるか、自分でもやっていけそうかという事を心配される事が多いです。わかります。私もそうでした。自分でもできそうという「安心」が欲しいのだと思いますが、しかし、この大変さは千差万別で誰もあなたを安心させる答えはもっていません。下手をすると「(私の大学では)博士課程は授業も課題もないので楽だ」みたいな理解をする人もいますが、それは非常に危険です。こちらとしてはそんなことはないと説明するものの「でも出席は必須じゃないんですよね?」などと確認をされるので「それはそうですが…」と言うしかありません。そんな回答をもらったところで実際に待っているのは今まで読んだことも無いような昔の文献や、それを当たり前として審査される先生方です。その時「出席は必須じゃないって言ってたじゃないか」なんて誰にも泣き付けないわけです。

そんなことよりもっと簡単にその不安を払しょくする方法があります。1.今すぐ論文が検索できるサイトを使って、自分が興味のある領域の最新の論文を10本程度読んでみてください。2.その中で自分が気になったキーワードに関して参考文献を芋づる式に辿りながら文献を10本程度読んでみて下さい。3.各論文の内容の関係性を整理した上で、自分が博士課程で扱いたいテーマについて説明できる事と説明できない事をまとめてみてください。4.説明できない部分について、本当に説明できないのかさらに文献を探してみてください。

この4ステップを1周するのに、どれくらい大変だったでしょうか。博士課程の数年間と言うのはこれをひたすら繰り返すことになります(これに調査と分析も加わりますが)。一時根を詰めれば何のことはないかもしれませんが、それが数年続くと想定したときにやり切れるかどうか、と言うのを一つの目安にされると良いかと思います。もちろんある程度の時間をかける前提ですから、「自分が無理なくやれるペースでやってみたらどうか」という観点でチェックされるのもいいと思います。そしてこれをやっておくと、それがそのままあなたの研究計画書の一部になります。そういう意味でも、まずやってみるというのは良い方法だと思います。不安とはまだ見ぬモノへの恐れです。やってみることが、一番の特効薬なのです。

かなり否定的に見えることもたくさん書いたと思いますが、私自身は博士課程で得た経験や出会いがとても貴重なものだったと思っています。世界の見え方が変わったといっても過言ではありません。たくさんの人がこのような機会を得られれば良いなと思う反面、現実問題として困難な側面もあるのでそこに議論が寄った自覚はあります。ただ、博士課程に行く人と言うのはそういった事があるとしても「どうしても院でやってみたい」と言う人が来る所だと思います。そういった方々にはここで書いたネガティブな話はむしろ転ばぬ先の杖だろうと思って、長い殴り書きを終えたいと思います。

皆さんが素晴らしい研究者としての第一歩を踏み出されることを祈っています。